アーカイブ香取遺産 Vol.091~100
更新日:2016年2月1日
Vol-091~100
- Vol-091 大戸神社「和鏡三面」 御正体として奉懸された鏡
- Vol-092 城山1号古墳 千葉県を代表する横穴式石室
- Vol-093 文化人たちの文学碑・歌碑 水郷観光の足跡
- Vol-094 関峯崎3号横穴出土金銅製三尊押出仏 新たに県指定に
- Vol-095 安興寺の大杉 境内にそびえる天然記念物
- Vol-096 馬頭観音 馬に乗った観音様
- Vol-097 白幡古墳群 昭和3年に発掘調査を実施した石棺
- Vol-098 徳星寺本堂と十六羅漢像 密教道場の構造風格を残す本堂
- Vol-099 扇島神楽隊 緋色の陣羽織を羽織った鼓笛隊
- Vol-100 間宮倫宗を贈るの序 伊能忠敬と間宮林蔵
Vol-091 大戸神社「和鏡三面」 御正体として奉懸された鏡
大戸神社は、大戸字本宮に鎮座する古社で、創建は景行天皇40年と社伝にあります。祭神は、天手力雄命です。
大戸神社には、和鏡が3面伝えられています。「蓬莱鏡」2面と「松喰鶴鏡」1面です。蓬莱鏡は、背面に波が打ち寄せる蓬莱山を表現しています。うち1面は、背面中央の紐を通す鈕が、甲羅に花を配した亀の意匠です。この鈕の形式を冠して「花亀甲亀鈕蓬莱鏡」と呼びます。もう1面の蓬莱鏡と松喰鶴鏡は、鈕が単純な円形であるため「素円鈕」を冠した名称で呼ばれます。
「花亀甲亀鈕蓬莱鏡」は、蓬莱山に遊ぶ鶴2羽と亀1頭を配しています。大きさ20.4センチメートルです。室町時代の作と考えられます。
「素円鈕蓬莱鏡」は、蓬莱山の麓に鶴2羽を並べて表現しています。大きさは19.5センチメートルです。背面に「正中2年」の墨書があります。この年に神社に奉納されたのでしょうか。「正中2年」(1325)は鎌倉時代の終わり頃です。
「松喰鶴鏡」は、背面に松の枝を啄ばむ2羽の鶴を表現しています。大きさは、径18.5センチメートルです。鎌倉時代の作と考えられます。
鏡は3面とも、文様が鮮明に鋳上がった優品です。また、それぞれ、縁の際に小さい孔が2つあけられています。御正体として奉懸されていたことが推察できます。御正体とは、神仏習合の考えによって、神体の本地仏を示した鏡像や懸仏のことです。神仏習合に対する当時の人々の接し方を、今に伝える資料といえます。
昭和55年2月に千葉県の有形文化財に指定されています。
(広報かとり 平成26年1月15号(PDF:6,609KB)掲載)
Vol-092 城山1号古墳 千葉県を代表する横穴式石室
小見川城山公園にある忠霊塔の入口横に、石を積んで造った洞穴のようなものがあります。これは、小見川高校建設によって昭和38年に発掘調査された、城山1号古墳の横穴式石室を移築・復元したものです。
古墳の埋葬施設にはさまざまなものがありますが、その代表例が石室です。石室は、石を積み上げて棺を納める部屋を造ったもので、竪穴式と横穴式があります。竪穴式石室は、板状の石を積み上げて部屋を造り、上から蓋をして密閉するもので、古墳時代前半の大型古墳に多く用いられました。横穴式石室は、大陸の影響を受けて古墳時代後半に普及したもので、部屋の側面に通路をつけて外部から出入りできるようにしたものです。
横穴式石室は、棺を安置する玄室と外部からの通路である羨道からなります。埋葬後は入口を石や粘土で塞ぎますが、それを取り外せば再び出入りが可能となるため、同じ石室内に後から別の人物を埋葬すること(追葬)が容易になりました。
城山1号古墳の横穴式石室は、玄室長4.5m、幅1.7m、羨道長2.2m、幅0.9mで、天井の高さは1.5mです。両側の壁は数十センチメートルの大きさの石を積み、奥の壁と天井には1m以上の大きな石が使われています。床には玉砂利が敷きつめられ、多くの副葬品が見つかりました。
千葉県では横穴式石室が造られるのは6世紀中頃からです。城山1号古墳は、県内で最も古い横穴式石室の1つで、関東の横穴式石室研究上、欠かせないものとなっています。また、出土した副葬品は県の有形文化財に指定され、現在はいぶき館内の文化財保存館で展示しています。
(広報かとり 平成26年2月15号(PDF:7,223KB)掲載)
Vol-093 文化人たちの文学碑・歌碑 水郷観光の足跡
与謝野晶子の短歌碑
津宮地区の利根川沿いの堤防の上に、与謝野晶子の短歌碑が立っています。与謝野晶子は、日露戦争に出征した弟に宛てた長詩 「君死にたまうことなかれ」を詠んだことで有名な明治から昭和期の女性歌人です。短歌碑のあるこの辺りはかつて「津宮鳥居河岸」といって、高瀬舟、木下茶舟など多くの船舶が出入りしてにぎわった河港でした。明治44年(1911)、与謝野晶子はここに泊り、津宮鳥居河岸の短歌を詠んでいます。
人気観光地・水郷
江戸時代後期以降、庶民の娯楽や文化が盛んになり、なかでも寺社参詣を兼ねた行楽の旅が流行しました。江戸から近い手軽な旅として、神奈川県の江の島や大山阿夫利神社などの参詣と並んで、鹿島神宮、香取神宮、息栖神社を巡る三社詣と水郷の船遊びが人気を集めました。こうした水郷観光は、浮き沈みはありましたが、明治、大正、昭和と代表的な人気レジャーの一つでした。
水郷を詠んだ文化人たち
こうしたなかで、江戸・東京から、学者や歌人などの文化人が数多く訪れて、水郷を題材とした作品を残しています。江戸時代では、「利根川図誌」で有名な赤松宗旦をはじめとして、俳人として著名な松尾芭蕉や小林一茶のほか、明治時代以降も、若山牧水の「水郷めぐり」、北原白秋の「水村の春~十六島」を代表に、野口雨情、伊藤左千夫、正岡子規、高浜虚子など多彩な文学者や歌人が訪れています。市内には、こうした文化人たちの足跡を示す文学碑や歌碑が多数残されています。
(広報かとり 平成26年3月15号(PDF:542KB)掲載)
Vol-094 関峯崎3号横穴出土金銅製三尊押出仏 新たに県指定に
関峯崎横穴群は、香取市関字峯崎と成田市堀籠字峯崎との行政境に所在する総数100基を超える千葉県北東部最大の横穴群です。
横穴は古墳時代後期から8世紀初頭まで営まれた墓制で台地の斜面部に横から穴を掘って墓室をつくったものです。市内には、本例以外に5遺跡が確認されています。
昭和62年、本古墳群のうち5基は発掘調査が実施され、3号横穴の左棺台からは鉄製品とともに金銅製押出仏、左右の棺台から骨片、玄室床面から勾玉がそれぞれ検出されています。これらの出土遺物から7世紀後半以降につくられた横穴と思われます。
押出仏は、薄い金属板を浮き彫りの原型の上に乗せ、木槌などで打ちたたいて型の凹凸を写し取るという技法を用いて作った仏像で、量産が可能なことから7世紀後半には、畿内地方を中心に盛んに作られるようになります。
通常、押出仏は仏像と光背が一体となりますが、本例の場合、中尊と脇侍の様態やバランスから推察すると、元来は別々の型で打ち出したものを切り取り、後にひとつの光背に鋲留めしたものと思われます。
光背の形状や痕跡からすると、木製の台座などに光背下部を差し込んで、生前には被葬者が念持仏として崇拝し、その没後に副葬品として横穴に納められたものと思われます。
本資料は、中央政権と香取の豪族との政治的関係、東国における古代仏教の伝播の様相を物語る文化財として非常に重要な資料であることから、平成26年3月4日に千葉県の有形文化財(考古資料)に指定されました。
現在、いぶき館2階の香取市文化財保存館に展示しています。
(広報かとり 平成26年4月15号(PDF:6,387KB)掲載)
Vol-095 安興寺の大杉 境内にそびえる天然記念物
市内には、古木や森など6件の天然記念物がありますが、その一つ、岩部の安興寺境内に立つ大杉は、旧栗源町で指定文化財第1号となった名木です。昭和50年に指定されました。公称では、樹高約50m、胸高周囲5.5m、樹齢は推定400年となります。
近年、樹木医による専門調査を行った結果、樹高は28m、胸高の周囲は5.65m、根元周囲は6.7mを計測しました。また、枝下の高さは6.7mで、枝張りは北へ12.8m、南へ13.9m、東へ10.2m、西へ11.8mです。
真っすぐに伸びた幹と、そこから四方に張り出した湾曲した太い枝、縦に深く刻まれた樹皮が、古木の力強さを感じさせます。遠望すると周囲の樹木よりも頭一つ抜き出ていることがわかります。
正確な樹齢は不明ですが、言い伝えでは、当寺20世の日秀上人(寛文6年〈1666〉遷化 )が、天下泰平・国家安穏・五穀豊穣を祈願して植樹した若杉が、この大杉になったといわれます。
安興寺は、山号を東光山と称する日蓮宗寺院で、本尊は釈迦如来です。寺伝によれば、当初は律宗のお寺で千葉山勧請寺を称していましたが、その後、元徳2年(1330)に平賀・本土寺(松戸市)の日傳上人により改宗し、寺名も改称したとあります。
当寺に伝わる仏涅槃図は、画面縦336センチメートル、横230センチメートルの大幅で、墨書銘文から享保16年(1731)日顕の筆になるものです。お釈迦様が入滅した様子を描いた、彩色鮮やかな作で、毎年2月15日の涅槃会に本堂内陣に掲げられます。平成11年に市指定文化財に指定されました。
(広報かとり 平成26年5月15号(PDF:568KB)掲載)
Vol-096 馬頭観音 馬に乗った観音様
路傍や墓地などで、馬に乗った観音像を彫った石仏を見かけることがあります。これは、馬頭観音と呼ばれるもので、江戸時代に当地方に多く建てられました。
馬頭観音は、ヒンドゥー教の最高神の一人ヴィシュヌが馬に化身して、悪魔に奪われた聖典を取り戻したという説話が起源とされています。これが仏教に採り入れられ、 衆生の煩悩を排除し、諸悪を打ち破る観音菩薩となったものです。
我が国では、平安時代以降の仏像や仏画にその姿が見られます。頭上に馬頭を頂き、手は馬口印(馬頭印)と呼ばれる印相を結びますが、 剣や蓮華を持つ例も見られます。また、他の観音が女性的で穏やかな表情(慈悲相)であるのに対し、馬頭観音は目尻を吊り上げ、 牙をむき出した忿怒相です。このため、馬頭明王などとも呼ばれ、菩薩ではなく明王に分類されることもあります。
江戸時代になると、馬を農耕や荷運びなどに使うことが多くなります。馬頭を頂いた観音様の姿を見て、馬とともに生活する人々の中に、 馬に対する民間信仰が生まれました。農家では農耕馬の、馬の産地では生まれた仔馬の無病息災を、荷運びの人達は道中の安全を願い、 また亡くなった馬の供養のために、馬頭観音が全国各地に建てられます。
写真で紹介するものは、馬に乗った観音像で「馬乗り馬頭観音」とも呼ばれます。県内に数多く建てられ、主に、 香取市を含む東総地方と東京湾沿岸地方に分布します。観音像が馬上に座るものと跨またがるものの2種があり、像容が慈悲相となるものもあります。
現代では、競馬場の近くに、病気やレース中の事故で亡くなった馬を供養するために馬頭観音を祀まつることがあるようです。また、 向油田地区の観音寺の堂内には木造の馬頭観音が祀られ、今でも競馬ファンの参詣が絶えません。
(広報かとり 平成26年6月15号(PDF:577KB)掲載)
Vol-097 白幡古墳群 昭和3年に発掘調査を実施した石棺
白幡古墳群は、大戸字白幡の台地にあります。現在、墳丘は削られ残ってはいませんが、前方後円墳、円墳が30基以上あります。
昭和3年(1928)に、円墳のものと思われる石棺1基が、耕作中に偶然発見されました。当時、官幣大社香取神宮付近の史跡踏査中であった考古学の研究者吉田文俊氏が発掘調査を実施しました。
調査報告は、翌年に千葉県が刊行した『史蹟名勝天然記念物調査』第六輯にあります。報告によると、石棺は、秩父青石16枚を長方形に組み合わせたもので、 内部の寸法は、長さ約206センチメートル、幅約76センチメートル、深さ約64センチメートルです。組み合わせの枚数は、側面に3枚と4枚、前後に各1枚、底部に5枚、蓋に2枚でした。石材の継ぎ目には粘土を詰め、さらに石棺自体も厚さ9センチメートルから15センチメートルの粘土で包んでいました。
石棺内からは、琥珀製棗玉やガラス玉などの玉類が100個以上、金環6個、鉄鏃14本、刀子1本、直刀8本とかなり豊富な副葬品が出土しました。残念ながら、現在遺物の所在は不明です。
被葬者は、少なくとも女性1人、子ども1人を含む3人であったことが、報告文と白幡古墳石棺平面略図からわかります。3人は、整然と横並びに埋葬されており、おそらく、両親とその子どもであったことは、想像に難くありません。
石棺の石材は、秩父青石と書かれており、当地域ではあまり使用されない秩父山系を産地とする緑泥片岩と思われます。このことは、本古墳群を考える上で重要な情報です。
昭和3年という古い発掘調査ではありますが、このように調査記録が残されていること自体、地域の遺産と言えるでしょう。
発掘調査の跡地には、「史跡白幡古墳址、昭和四年三月三十日千葉県香取郡東大戸村建之」の石碑が残されています。
(広報かとり 平成26年7月15号(PDF:587KB)掲載)
Vol-098 徳星寺本堂と十六羅漢像 密教道場の構造風格を残す本堂
富光山大乗聖院徳星寺は小見字大屋敷に所在する天台宗の寺院です。創建は奈良時代中期の天平9年(737)、現在の田部字玄道に、僧行基により開基されたと伝わります。後に小見富光(現在の吉野平)に移転、更に南北朝時代の貞治年中(1362~1367)に今の小見城跡に移りました。
本堂は、江戸時代中期の元禄8年(1695)の改築で、間口約20メートル、奥行約18メートルの草葺屋根であったものを昭和36年亜鉛葺に替え、奥行も約13メートルに縮小されました。今の向拝は明治13年に新規増築したもので、竜・獅子頭・松に鳥の彫刻があります。堂内の外陣は全部畳で、密教道場のため外部からのぞけないように、周囲の障壁を高くし、内外陣とも部屋ごとに障子で遮断する構造となっています。
また、同寺の重宝十六羅漢像は、中国の絵師周丹が描いた古画16幅で、江戸期元禄5年(1692)に狩野永真が、徳星寺に滞在中、次のような鑑定書を記しています。
「十六羅漢の図十六幅は周丹士筆に疑う物無きなり申(元禄五年)七月十八日、法眼永真印」
徳星寺は昭和53年12月、十六羅漢像は昭和42年12月にそれぞれ市指定文化財となっています(十六羅漢像は一般公開されていません)。
(広報かとり 平成26年8月15号(PDF:626KB)掲載)
Vol-099 扇島神楽隊 緋色の陣羽織を羽織った鼓笛隊
市の北部、肥沃な田園が広がる水郷地帯に、一風変わった芸能が伝承されています。あさぎ色の小手袖に矢羽の袴、丸に扇の白紋を打った緋色の陣羽織のいでたちで、大太鼓を先頭に、小太鼓、笛がにぎやかにはやしながら行進する「おらんだ楽隊」がそうです。「おらんだ」といっても「オランダ」と直接関係があるわけではありません。はやしに洋太鼓を取り入れ、鼓笛隊風の編成を組んだことから、いつしか「おらんだ」の愛称がついたようです。ちなみに、楽隊の正式名称は「扇島神楽隊」といいます。
その起源は定かではありませんが、明治の初めころ、新政府軍の鼓笛隊員が扇島にあった本世堂病院(カッパから伝授されたとされる「十三枚本世散」は、打撲によく効くぬり薬として江戸まで知られ、十三枚病院として打撲や捻ねん挫ざの治療で名を博しました)に入院していた際、地区の人々が鼓笛を教えてもらい、神幸祭に参加するようになったとの言い伝えがあります。香取神宮の式年神幸祭では、神宮から津宮、津宮から利根川を遡上し佐原へ入り、御旅所で一泊ののち神宮へと戻りますが「おらんだ楽隊」はこの道中をはやす芸能の一つです。現在伝えられている曲は「ナミアシ」「ハヤアシ」「カケアシ」「ガイセン」の4曲があります。曲名からも行進曲が想定されますが、歩みを揃えるということはないようです。ただし「ナミアシ」=「歩く」、「ハヤアシ」=「早歩き」、「カケアシ」=「駆け足」という約束はあるようです。
先頭の大太鼓の踊りやはやしのメロディーからは「西洋音楽」というより獅子舞の道笛に近いように思われます。行列を先導する大太鼓や奇抜な衣装、当時の社会背景を具体化し、新しい要素を積極的に取り入れ、人々を驚かせようとする趣向は、風流の意識に通底するものといえるでしょう。
「おらんだ楽隊」は、和洋の文化を融合させて郷土芸能化させた貴重な芸能です。
(広報かとり 平成26年9月15号(PDF:584KB)掲載)
Vol-100 間宮倫宗を贈るの序 伊能忠敬と間宮林蔵
1811年の冬、九州への測量を控えた伊能忠敬から、蝦夷地(現在の北海道)の探検と測量のために北へむかう間宮林蔵(倫宗)に一通の送別文が贈られました。この間宮の測量の成果が、のちに忠敬に提供されて、伊能図が最終的に完成をみます。
従来は、1800年に忠敬が行った蝦夷地南部の測量に、この時実施された間宮による蝦夷地北部の測量データが付け加えられた、とされてきました。しかし、昨今の報道でも話題になったように、最終的に完成した伊能図では、蝦夷地南部についても間宮の測量の成果が反映されていることが明らかとなってきました。伊能図の完成には、これまで考えられていた以上に、間宮の貢献が大きかったことになります。
間宮は現在のつくばみらい市に生まれ、忠敬とは師弟関係にありました。間宮は、忠敬が蝦夷地を測量する途中で初めて出会い、忠敬の晩年は江戸の忠敬宅に同居して、一緒に暮らしていたこともありました。恐らくはこの時期に、忠敬から本格的に測量術を学んだのではないかと推測されます。
間宮は忠敬より30歳年下でしたが、忠敬は「日本に稀まれなる大剛者」と評して間宮の意気を敬愛し、その間柄は「相親しむこと師父の如し」と述べています。同居中は、将来を期待する孫たちの教育について忠敬が間宮に相談したり、間宮からは孫たちに着物を贈ったりするなど、家族を含めた親密なつきあいがありました。
そうした2人が、互いに与えられた使命を果たすために、九州と蝦夷地、数百里を隔てて別れるにあたって記されたのが、送別文「間宮倫宗を贈るの序」です。これは現在、国宝伊能忠敬関係資料のなかに存在し、その最後は以下のように結ばれています。「行け倫宗、よくその職を修め、以て政府非常の功を裨益せんか。これを贈言の別となす」
(広報かとり 平成26年10月15号(PDF:574KB)掲載)
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