アーカイブ香取遺産 Vol.051~060
更新日:2016年2月1日
Vol-051~060
- Vol-051 失われた仏教遺物 香取神宮と廃仏毀釈
- Vol-052 懸仏の最高傑作 仏は救われて重要文化財に
- Vol-053 千葉氏ゆかりの古刹 樹林寺の四季桜
- Vol-054 国宝伊能忠敬関係資料 大洲領沿海図
- Vol-055 六地蔵石幢 江戸庶民の地蔵信仰
- Vol-056 木内廃寺跡 古墳造営の終焉と寺院造営の始まり
- Vol-057 金剛宝寺 神宮寺壊される
- Vol-058 水上遊覧飛行 高価でお洒落な空の旅
- Vol-059 木造十一面観音立像 関東最大最古の十一面観音立像
- Vol-060 瓦を落としながらも地震に耐えた本物の文化財 指定文化財にも大きな被害
Vol-051 失われた仏教遺物鏡 香取神宮と廃仏毀釈
香取神宮は、常陸の鹿島神宮と常に並び称される東国最大の古社です。
このような由緒ある神社でも既に奈良時代から仏教と在来の神祇信仰が混淆・調和した、いわゆる神仏習合の状況にありました。
中世以降に描かれた絵図などによれば、本殿の後方に一切経や大般若経を納めていた宝形造の経堂(経蔵)。拝殿左側には愛染明王を宮殿に安置し、夏経法楽を行っていた愛染堂(安居堂)などの仏教施設があったことがわかります。
さらに、本殿内陣の神座前には「懸仏」と呼ばれる本地仏4躯(薬師如来、釈迦如来、地蔵菩薩、十一面観世音で鎌倉時代の製作)が納められていました。これは仏・菩薩が人々を利益・救済するために神の姿をかりて顕現するという本地垂迹説によります。
しかし、1868年(明治初)に新政府が神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させる「神仏分離令」(神仏判然令)を施行します。これが契機となって日本各地で仏教施設を破壊するなどの廃仏毀釈運動が起こります。
有名なところでは、奈良の春日大社ゆかりの興福寺が売り出され、買い手がつかなかったため、遺されたということもありました。
香取神宮でも1868年11月、境内にあった愛染堂と経堂が神職などによって取り壊され、本殿の仏像は取り除かれて売却されてしまいます。
ほぼ同じ時期に宮中台にあった十一面観音を本尊とする神宮寺(金剛宝寺)の本殿・三重塔・鐘楼堂などの建物も悉く取り壊されています。
それでも本殿の「懸仏」4躯は、市中で売られていたものを、地元佐原の篤志家が1869年(明治2)に買い戻し、牧野の観福寺に納めました。現在、これらは国の重要文化財に指定されています。
また、経堂にあった一切経や般若経の一部は研究機関・図書館に所蔵されているものもありますが、多くの仏教遺物は散逸し、愛染明王などはその存在すら伝わっていません。
(広報かとり 平成22年7月15号(PDF:1,149KB)掲載)
Vol-052 懸仏の最高傑作 仏は救われて重要文化財に
牧野の古刹観福寺が所蔵する懸仏4躯(釈迦如来坐像・十一面観音菩薩坐像・地蔵菩薩坐像・薬師如来坐像)は、鎌倉期懸仏の最高傑作として広く知られています。
これらの仏像は、神仏分離令により香取神宮から取り出され、市人に売られてまさに吹き潰されんとするところを「おいたわしや」とこれを買い求めた人が台座などを荘厳して、明治2年(1869)の初秋に観福寺に納めたとされています。
懸仏は神仏習合、すなわち日本の神々は皆、衆生を済度する仮の姿であり、本体は諸仏・諸菩薩であるとする思想(本地垂迹説)によって作られたと考えられています。
それまで、神道で御神体とされていた鏡に本地である仏像や梵字を毛彫したものがその始まりで、古くは御正体とよばれ平安時代末から室町時代にかけて盛んに作られ社寺へ奉納されました。
釈迦如来坐像懸仏(像高35・8センチメートル、鏡板径60・8センチメートル)と十一面観音菩薩坐像懸仏(像高40・4センチメートル、鏡板径60・9センチメートル)は鏡板裏面の刻銘により、弘安5年(1282)に香取神宮本地仏四体の内として、天長地久・当社繁昌・異国降伏・心願成就を祈念して造立され、香取社に奉送されたものであることが分かります。「異国降伏」は、いわゆる「元寇調伏」のことです。
地蔵菩薩坐像懸仏(像高33・3センチメートル、鏡板径61・9センチメートル)は鏡板表面の刻銘によれば、延慶2年(1309)に香取社の大禰宜大中臣実胤が亡父実政と海雲比丘尼らの追善供養のために造立・奉納されたもので、先の弘安5年から27年後のことになります。また、般若心経と観音経を供養のために読誦したともあり、弘安5年の造立の目的とはまったく異なっています。
薬師如来坐像懸仏(像高33・4センチメートル)は当初の鏡板が失われているために制作の目的は不明ですが、肉髻珠・白毫がないことや台座装着用のの作りが異なるなど、釈迦如来・十一面観音菩薩と一具の造像ではなさそうです。
弘安5年に制作された4体の内2体、おそらく地蔵菩薩・薬師如来が何らかの事情で失われ、後にこれら4体が一具として祀られるようになったものと思われます。
大正2年(1913)国宝に指定。現在は重要文化財。
(広報かとり 平成22年8月15号(PDF:1,000KB)掲載)
Vol-053 千葉氏ゆかりの古刹 樹林寺の四季桜
五郷内地区にある樹林寺は、千葉氏ゆかりの古刹で、夕顔観音の名でも知られています。
山号は白華山、臨済宗妙心寺派のお寺で、ご本尊は秘仏の千手観音です。寺伝などによれば、延長元年(923)、夕顔の畑から出現した霊仏といわれ、夕顔観世音菩薩とも呼ばれます。
大治年中(1126~)に千葉介平常重が、夢枕のお告げにより堂宇を稲荷山の中腹に建立し、この霊仏を安置したのが樹林寺の始まりとされます。その後、常重の孫、森山城主東胤頼が堂宇を再建し、貞和年間(1345~)には、その後裔の静胤が再び堂宇を改修。この時、覚源禅師(静胤の子、楽胤)を迎え、真言宗から禅宗へ改宗、開山しています。
江戸時代には、徳川幕府から寺領五石と山林十余町歩の朱印地を与えられました。元禄15年(1702)には、五代将軍徳川綱吉の母、桂昌院が、夕顔観音の霊験あらたかなるのを聞き、江戸城中で百日間のご開帳が行われました。
「下総名勝図絵」には、幕末期の樹林寺が描かれています。街道沿いの2階建ての大きな山門、石段を登り詰めた正面に見える本堂のほか、鐘楼、庫裏など多くの建物が配置され、大きな寺院であったことが窺えます。残念ながらこれらの建物は、明治4年(1871)の火災で悉く焼失し、本堂、庫裏、鐘楼が後に再建されました。
図絵にも描かれていますが、本堂前の境内に「四季桜」と呼ばれる珍しい桜が植えられています。開山覚源禅師のお手植えと伝わる桜で、江戸時代の地誌、赤松宗旦「利根川図志」でも四季咲の桜として紹介されています。明治の火災に遭ったためか、寺の治革などでは、大火後その古株から更に発芽したと伝わります。
最近の調査によれば、株立3本により樹形を形成、樹高520センチメートル、根元周214センチメートル、幹周136センチメートル(いずれも3本の総和)を計ります。周囲を石の瑞垣で囲んでいますが、これは嘉永4年(1851)3月に建てられたもので、石柱に俳句が刻まれています。
四季桜は、エドヒガンとマメザクラの交雑種と考えられています。四季といっても1年中咲くわけではありませんが、年に2度ほど開花するようです。樹林寺の四季桜の場合は、10月から1月頃にかけて花を咲かせます。昭和51年に市指定天然記念物に指定されています。
(広報かとり 平成22年9月15号(PDF:1,136KB)掲載)
Vol-054 国宝伊能忠敬関係資料 大洲領沿海図
今年6月29日に国宝に指定された伊能忠敬関係資料には、忠敬たちが測量してつくった伊能図、その原図である下図、測量隊員が描いた風景画である麁絵図などの地図以外の絵図も多く含まれています。描く範囲は、下総国など一国レベルの国絵図、一郡レベルのもの、一村レベルの村絵図など多種多様にわたります。
これらの絵図は、忠敬らが写したものもありますが、現地の役人に提出させたものもあります。ここで紹介する大洲領沿海図もそうした絵図の一つです。
この絵図は、現在の愛媛県西部にあった大洲藩領の瀬戸内海沿岸部(現大洲市北岸・伊予市北岸)を11枚、大洲城までの肱川沿岸(現大洲市)を3枚、3つの島(現松山市青島・怒和島・睦月島)を3枚で描く全17枚の切絵図です。
沿岸部の測線は伊能図とは異なり墨で引かれていますが、肱川沿岸の測線は朱線で伊能図と同じです。その曲がり角には針穴が空いていて、伊能図の特徴と同じで、実測した成果によってつくられた図であることは間違いありません。縮尺は、伊能図の下図との比較からおよそ6000分の1であることもわかります。
忠敬はこの地域を文化5年(1808)7月から8月にかけて測量しており、その際、地元から絵図を提出させていることはわかっています。その絵図の一部の控は現地に残っています。大洲領沿海図は、忠敬の測量に随行した現地の測量家東寛治が忠敬の測量成果により作成して、忠敬に提出されたのではないかと推測されています。東は大洲藩士で、寛政11年(1799)に藩の絵図方に就任し、藩領の絵図をいくつか残しています。
ともあれ、この絵図は忠敬と現地の測量家との交流を物語る資料です。
このような絵図が忠敬作の伊能図とともに国宝に指定されているのは、忠敬の業績が広く全国の人々に支えられていたことが認められたからでしょう。
現在、伊能忠敬記念館では、この絵図の全点を特別展で公開しています。
(広報かとり 平成22年10月15号(PDF:959KB)掲載)
Vol-055 六地蔵石幢 江戸庶民の地蔵信仰
お寺や墓地などで、石灯籠に似た石造物を見かけたことがあるでしょうか。火を灯す火袋がなく、火袋にあたる所には地蔵像が彫られていることから、灯籠ではないことがわかります。
これは、石幢と呼ばれる供養塔で、鎌倉時代から江戸時代にかけて造立されたものです。石幢の起源は、仏堂の中で吊り下げられる幢幡と呼ばれる布製の荘厳具を石で模したもので、中国の隋・唐時代に流行しました。我が国には平安時代末期に伝わり、経典を保存・埋納した標識として立てられました。中世になると地蔵信仰と結びついて、六地蔵石幢として全国各地に広まります。
人間を含めてすべての生命は、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道の6つの世界に生まれ変わりを繰り返すという六道輪廻の思想があります。地蔵菩薩は、六道を巡って迷い苦しむ衆生を救済し、極楽へ導いてくれると信じられたことから、地蔵菩薩の6つの分身が考えられるようになります。これを六地蔵といいます。今でも、墓地やお寺の入口などで6体のお地蔵さんが並んでいるのをよく目にします。
六地蔵石幢には、大きく分けて、重制と単制の2種があります。重制のものは基礎の上に竿を立てて中台を置き、その上に龕・笠・宝珠をのせます。単制のものは竿と中台がなく、基礎の上に幢身を立て、その上に笠と宝珠をのせています。重制では龕部、単制では幢身が六角形に整形され、各面に地蔵像が彫られていますが、四角形や八角形のものもあります。地蔵像は、浮き彫りや線刻、梵字などで表されます。また、竿部に輪廻車を取り付けたものも見られます。
現在のところ市内で最も古い石幢は、新市場地区にある天正2年(1574)のものですが、多くは江戸時代に造立されたものです。その目的は故人の追善供養や自身の逆修供養(生前から死後の冥福を祈って仏事を行うこと)で、江戸時代中期ごろには念仏や月待・日待といった講で立てられたものが多くなります。
江戸時代は、さまざまな民間信仰が盛んで、多種多様の石造物が造立されました。六地蔵石幢は、このような江戸庶民の信仰を今に伝える資料の一つといえます。
(広報かとり 平成22年11月15号(PDF:1,188KB)掲載)
Vol-056 木内廃寺跡 古墳造営の終焉と寺院造営の始まり
木内廃寺跡は、木内地区に所在する当地方で最も早い時期に建てられた寺院跡です。遺跡は、黒部川が流れる広大な低地をみわたす台地上にあります。
これまでの調査で、建物の基礎である基壇の一部と瓦類が発見されています。
基壇とは、数10センチメートルから1m以上まで土盛りしたもので、その上に建物を建築します。古い時代の寺院建築では、地面を掘り下げて地中部分からしっかりつき固めて基壇を構築する工法をとります。この工法を掘込地形と呼んでいます。この掘込地形がみつかれば、基壇の地上部分や礎石が失われていてもそこに建物があったことが分かります。
建物跡の周辺からは多くの瓦が発見されています。これらの瓦は、最近の発掘調査によって、本遺跡の西方約1キロメートルにある清水入瓦窯跡で焼かれたものであるがわかりました。
木内廃寺跡出土の瓦には、山田寺(いわゆる大化の改新で中大兄皇子や藤原鎌足とともに活躍した蘇我倉山田石川麻呂が建てた私寺。648年完成)系の瓦とされる単弁八葉蓮華文に二重圏線文の縁をもつ軒丸瓦と重弧文の軒平瓦があります。おそらく、これらが創建時の瓦と思われます。
瓦の研究と清水入瓦窯跡の発掘調査の成果によって、木内廃寺跡の寺院造営時期が7世紀第4四半期ごろまで遡ることがわかってきました。
これよりもすこし前、この地域は下海上国造が治めていました。木内廃寺跡の北東約1.5キロメートルには下海上国造とその一族の墳墓と考えられる城山古墳群があり、7世紀中ごろまでは古墳が造られていました。しかし、7世紀後半になると古墳は造られなくなり、間もなく寺院の造営が始まります。
7世紀第4四半期の寺院造営は、ほぼ全国的なものであり、地方の有力氏族に仏教を勧奨するなど、仏教を全国に普及させようとした天武朝の仏教政策によるものと思われます。
この時期の寺院造営には、地方行政官として国家権力機構に組み込まれたかつての国造など、有力氏族が積極的に関与したものと思われます。
(広報かとり 平成22年12月15号(PDF:956KB)掲載)
Vol-057 金剛宝寺 神宮寺壊される
香取字宮中台(香取神宮西側の雨乞い塚付近)には、明治元年(1868)まで神宮寺と呼ばれた真言宗の香取山金剛宝寺がありました。現在はすべての建物が取り除かれ、祖霊社が建てられています。
かつて、ここには観音堂(本堂)・三重塔・鐘楼・庫裡(方丈)・山門などの建物があり、江戸時代の史料を見ると、観音堂には本尊の十一面観音菩薩立像と眷属の二八部衆、三重塔には薬師如来坐像と東照大権現の神牌が安置されていました。鐘楼には至徳3年(1386)銘をもつ梵鐘が懸けてあったことが記されています。
しかし、明治元年11月から始まった廃仏毀釈によって、堂塔のほとんどが破壊され、多くの仏教美術品が壊され、あるいは散逸したと伝えられています。
金剛宝寺の仏像仏具などの一部は、香取市新部の如来寺(現在は廃寺)に送られ、三重塔の九輪や梵鐘などの金物は、社役人によって売却されて市中に出回ったといわれています。
この時に東京神田の古物商に売却された梵鐘は、神奈川県藤沢市羽鳥の住人によって買い求められ、明治5年(1873)正月、同市羽鳥の御霊神社に奉納されました。現在は、藤沢市の指定文化財となっています。
この梵鐘には、「奉懸 下総州香取太神宮寺大鐘一口 大旦那周防守宗廣 大工 秦景重 干時至徳三年 丙寅十月 日 敬白」の銘文が刻まれており、たしかに神宮寺から流出したものであることが確認できます。
また、本堂に安置されていた十一面観音菩薩立像は、3mを超える大物であったためか、本堂破壊後もしばらく野ざらしになっていたようです。不憫に思った篤志家がこれを譲り受け、荘厳寺(佐原イ)に寄進しました。
この仏像は、昭和35年(1960)に国の重要文化財に指定されています。
神宮寺の建立がどの時代までさかのぼれるのかは、はっきりとはわかっていませんが、十一面観音菩薩立像の制作年代から推察すると9世紀末から10世紀初めには既に成立していたのではないかと考えられます。
現在、神宮寺跡には、十一面観音堂仏前・元禄13年(1700)銘を刻む手水鉢一盤がむなしく残るだけです。
(広報かとり 平成23年1月15号(PDF:1,137KB)掲載)
Vol-058 水上遊覧飛行 高価でお洒落な空の旅
午前9時、銚子河口から水上飛行機が発進離水します。
向かうはわが街香取。とうとうと流れる利根川を眼下に見下ろし、右下には水田が朝日に照らされて光り、左側の台地には豊かな森や畑が見え、遠くには筑波山も見えます。次第に与田浦の湖面が見え水郷大橋の手前、小野川河口の利根川中洲付近に着水します。時間にして約15分の水上遊覧飛行の旅です。
これは、市が計画している事業の青写真?いえいえ、実は今から約80年前の昭和初期ころに市内の有志たちで始めた大利根遊覧飛行というから驚きです。銚子から佐原まで15分、大人1人片道10円。佐原から鹿嶋上空が8分5円でした。土浦―佐原間約3時間の水上遊覧の船賃が1円20銭だったので、相当高価な遊覧飛行といえるでしょう。1日に1往復、行きは銚子を9時に出発、帰りは16時に佐原を出発しました。その間の時間を使い鹿嶋に遊覧飛行を行っていました。
当時、空から見た水郷はどんな風景だったのでしょうか。春は水田の水面が銀色に輝き、夏は稲穂が緑の絨毯のように、秋は稲の実りが金色のように見えたのではないでしょうか。
雄大な利根川と広大な水田、遠くには筑波山、運がよければ富士山までも見渡せた。そう考えるだけでもワクワクし、とても洒落た高級遊覧飛行だったと思われます。
また、この時期は、水郷観光を楽しむため、多くの観光客が訪れました。
昭和2年「日本八景二十五勝」の選定で、二十五勝に利根川が選ばれ水郷の名が全国に知れ渡り、昭和6年、大型水上遊覧船さつき丸とあやめ丸が就航します。
昭和9年、JOAK(ラジオ放送)にて初の生放送で水郷が紹介され、昭和11年水郷大橋が架橋され、今まで船でしか行き来できなかったものが、バスや車による観光に拍車がかかり、まさに水郷観光の黄金期を迎えることとなりました。
※水上プロペラ機は、敗戦により燃やされ、今ではわずかにプロペラが数枚残るだけとなり、現在は、県立中央博物館大利根分館で保管されています
(広報かとり 平成23年2月15号(PDF:1,006KB)掲載)
Vol-059 木造十一面観音立像 関東最大最古の十一面観音立像
JR佐原駅の南西、約700mの高台に所在する荘厳寺には、関東最大最古といわれる十一面観音立像が安置されています。
この観音像は香取神宮の神宮寺であった金剛宝寺に伝来し、明治初年の神仏分離によって当寺に移されたものです。
十一面観音像は、頭上に10あるいは11の化仏と呼ばれる小仏像をもっています。これは十一種の威力をあらわしたもので、変化観音の中では最も古い観音です。
頭上の化仏は正面三面が慈悲相、左三面が瞋怒相、右三面が白い歯を出してほほえむ狗牙上出相、後一面が暴悪大笑相、そして頂上面は如来相をあらわすものが多くみられます。本体は二臂の像がほとんどで右手を衆生の念願をかなえる与願印に結び、左手に水瓶あるいは蓮華を持つのが普通ですが、まれに四臂の像も見られます。
この観音を祈念すれば、憂苦や病苦など一切の苦しみから免れるとされ、わが国では奈良時代以降盛んに造られるようになりました。
本像は像高3・25m。頭部・体躯をケヤキ材から彫り出した一木造。化仏、両臂、両足は別木で造られています。体部は背面より内刳りし、背板を当てています。巨像のためか、腰の両脇や両足外側に別材を補い、両肩および手も別材です。
化仏は、十面すべてを失っています。天冠台は紐状で無紋。白毫相をあらわし、鬢髪一条が耳をわたり、耳たぶは紐状で貫通。臂を曲げて左手に水瓶を持ち、右手を与願印に結んでいます。
像内および像と共に伝来した木札には、元禄13年(1700)将軍徳川綱吉を願主として修理を施したことが記されています。
下顎の張った顔容、腹部や大腿部の張りのある肉取り、裳に明瞭にあらわれている飜波式(衣の襞の表現法)など随所に古様がうかがえます。制作時期は、9世紀末から10世紀はじめころまでさかのぼると思われます。
近くで見ると、その大きさに圧倒されます。かの奈良薬師寺の日光・月光両菩薩よりも大きな観音様です。機会があれば、ぜひご覧ください。
※昭和34年6月27日、国の重要文化財(彫刻)に指定
(広報かとり 平成23年3月15号(PDF:1,353KB)掲載)
Vol-060 瓦を落としながらも地震に耐えた本物の文化財 指定文化財にも大きな被害
3月11日に発生した東日本大震災により、市内の文化財も深刻な被害を受けました。その件数は史跡「伊能忠敬旧宅」など国関係で4件、「三菱銀行佐原支店旧本館」など県関係9件、「津宮河岸の常夜燈」など市関係6件となります。
特に被害が集中したのは、佐原の小野川沿いとその周辺です。この付近は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている地域ですが、国指定史跡である忠敬旧宅や県指定建造物を始め、多くの歴史的建造物が被害にあっています。
県指定建造物では小堀屋本店、正文堂書店、正上醤油店、中村屋乾物店、福新呉服店、旧油惣商店、中村屋商店などが被災しています。いずれも佐原を代表する商家で、その佇まいから多くの観光客に親しまれているものばかりです。
今回の被害で共通するのは屋根部の損壊です。棟瓦が全長にわたり崩壊していたり、鬼瓦や屋根瓦が崩れ、落下したりしました。また、土蔵や店蔵が多いため、漆喰で仕上げられていた壁面や軒周りの鉢巻などに、ひび割れや剥落などの破損が見受けられます。その原因として、建物の経年劣化や工法、揺れの向きや地盤などが複合的に影響したと考えられます。
現在は、がれきが撤去され屋根もシートなどで養生されていますが、地震直後は店前の往来に屋根瓦や漆喰土などが散乱するありさまでした。
指定文化財建造物の修復は、旧来の場所、工法、部材による復旧、復元が原則となります。ただし、近年では外観を維持しつつも、内部に新しい工法、材料を導入し、強度や安全性を確保した事例もあります。
瓦・壁を落としながらも躯体を維持し、地震に耐えた本物の文化財。今後、市としては所有者および関係機関と協議して、文化財的価値の保持と安全性の確保の両面を検討しながら、最適な方法で早期の復旧を目指したいと考えています。
(広報かとり 平成23年5月15号(PDF:1,522KB)掲載)
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