アーカイブ香取遺産 Vol.071~080

更新日:2016年2月1日

アーカイブ香取遺産

Vol-071~080

Vol-071 実相寺山門 日蓮宗不受不施派常葉檀林の旧跡

 仏性山実相寺は苅毛地区に所在する日蓮宗の寺院です。創建年代は未詳ですが、明応3年(1494)日久上人の代に真言宗から日蓮宗に改宗したと伝わります。

 市の南部、旧栗源町から多古町にかけては日蓮宗不受不施派の信仰が厚かった地域で、江戸時代には多くの寺院や檀林(僧侶の教育機関)が開かれました。この宗派は幕府からは禁制の宗派として扱われたため、密かに活動を続けた時期が長く続きました。

 苅毛の実相寺もこの宗派に属し、延宝2年(1674)には、同寺にも日賢により常葉檀林が開設されました。一時は多数の学僧のための宿坊が並んでいましたが、江戸の中頃の火災により檀林の堂宇は焼失し、山門だけが今に残ったともいわれます。

 この実相寺山門は芸州浅野公から寄進されたものと伝わります。当時、浅野光晟公の正室である満姫( 自昌院)という人は不受不施派の信者で、この地域にも関係の深い日講上人の庇護者でもありました。この日講と日賢は親しい関係にあったため、浅野家菩提寺の国前寺の末寺である実相寺に常葉檀林が開かれるに際し、山門が寄進されたのでしょうか。残念ながらそれを裏付ける記録は確認できません。

 山門は、切妻造、四脚門、現在は桟瓦葺(元は茅葺)の建物です。本柱は方柱、前後で門を支える4本の控柱は円柱です。組物は出組・平三斗、中備や棟木下に板蟇股を用いています。垂木は二軒の繁垂木、天井は化粧屋根裏となります。とくに彩色などは施されていません。棟札など建築年代を示す記録はありませんが、その様式から見て檀林開設頃の建築と考えられています。

 山門は昭和53年5月、常葉檀林は昭和57年3月にそれぞれ市指定文化財となっています。

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Vol-072 白井大宮台貝塚 縄文中期の代表的貝塚

 香取市を含む利根川下流域は縄文時代に多くの貝塚がつくられ、全国有数の貝塚地帯となっています。また、全国的に著名な貝塚も少なくないことは、本紙でも何度か取りげてきました。

 白井地区にある白井大宮台貝塚は、標高44mの台地平坦部とそれを取り囲む斜面にあり、斜面部には4地点の貝層が確認されています。以前は、それぞれの貝層ごとに白井大宮台貝塚・白井雷いかづち貝塚・白井通かよい路じ貝塚と呼ばれていました。しかし、これらの貝層は、台地上の同一集落から捨てられたものであり、現在では一つの貝塚として、白井大宮台貝塚と総称しています。

 記録に残る最初の発掘調査は、明治29年の東京帝国大学(現在の東京大学)による調査で、昭和2年には大山史前学研究所が調査を行っています。

 昭和20年代には、利根川下流域の貝塚調査を精力的に行っていた早稲田大学の西村正衛教授が本格的な発掘調査を行いました。その結果、縄文時代中期前半の土器が層位的に出土したことにより、この時期の土器の変遷過程を解明する基礎となりました。また、貝層の厚さが4m以上に及ぶことが確認され、「貝殻の莫大な堆積に注目させられた」と報告書の中で西村教授は述べています。長い年月にわたり、どれだけ多くの貝を捕食したのでしょうか。

 平成3年には、千葉県文化財センターが、縄文人の居住域と考えられる台地平坦面を調査しています。部分的な調査でしたが、小しょう竪たて穴あなと呼ばれる遺構が見つかり、埋葬された人と犬の骨が出土しました。食糧貯蔵用であった穴を墓に転用したものと思われます。犬は、猟犬として縄文人にとって良きパートナーであったらしく、時には人と一緒に、または近くに埋葬されることもあったようです。

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Vol-073 側高神社 独自の構造を持つ本殿

 側高神社は、大倉の利根川を見下ろす台地に鎮座しています。香取神宮第一の摂社で、地元では「側高様」と呼ばれ親しまれています。

 摂社とは、本社の祭神と縁の深い神を祀った社のことです。しかし、側高神社の祭神は、古来より神秘として明かされていません。ちなみに、本社である香取神宮の祭神は経津主命です。

 社伝には「神武天皇十八年」の創建とありますが、これは香取神宮に伝わる神宮創始の年と同じで、両社の関係の深さを示す一例でしょう。実際の創建年代は不明です。

 本殿は、寛文5年(1665)の建立で、一間社流造です。一間社とは、身舎(本殿や拝殿などの建物本体)が一間四方であることを指します。流造とは、切妻造の平入り(棟と並行する面)を正面にして、屋根は緩やかに反っています。この反りが流れるようにみえることから、流造の名称がついたといわれています。

 現在の屋根は銅板葺きですが、もともとは薄い木片を重ねて敷き詰めたこけら葺きでした。屋根の形状は身舎の前方に長く伸び、拝礼の場所である向拝も覆っています。向拝には棚状に床板が貼られており、その様子が店舗の見世棚に似ていることから見世棚造といいます。つまり、身舎は一間社流造で、向拝に床板を貼った見棚造の本殿ということになります。

 側高神社の場合は、さらに向拝床板の前に木階を設け、その下に浜縁と呼ばれる縁を取り付けています。この独自の構造を持つ本殿は、当地域ではほかに類例がなく、昭和57年4月6日に県有形文化財に指定されました。

 毎年1月には、奇祭として知られる「ひげなで祭(市指定無形民俗文化財・昭和52年6月1日指定)」が執り行われます。時期を合わせて足を運んでみてはいかがでしょうか。

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Vol-074 土井利勝植林指導地と橘堰、土井の新堤 領民のために

 土井利勝は徳川家康・秀忠・家光三代に仕え、大老まで昇進した名藩主です。

 出生は、家康に仕えた土井利昌の子として元亀4年(1573)に生まれたとされていますが、近年では、実父が家康、養父が利昌であるとの説が有力視されています。

 利勝は、幼少から家康に仕え、天正7年(1579)徳川秀忠誕生とともに7歳で傅役となります。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでも秀忠に従い、慶長7年(1602)、28歳の若さで小見川藩主となり、その後、慶長15年(1610)に佐倉藩主、寛永10年(1633)には古河藩主となっています。

 徳川三代の信頼が高かった利勝は、領国経営にも力を発揮し、植林の指導や堤防・堰を築いた成果は現代にまで続いています。

土井利勝植林指導地(市史跡昭和42年指定)

 慶長年中、小見川藩主となった利勝が領民のために植林指導を行ったとされる勧業史跡です。当時の仁良村は小見川藩の領地で、山林は価値の低い薪炭用の雑木林だったことから、建築材として価値の高い針葉樹の植林を奨めたといわれています。

橘堰(市名勝昭和53年指定)

 慶長10年(1605)、利勝32歳の時、田部村周辺の水田の水を確保するために橘堰を築いたとされています。現在では、ふれあい公園として風光明媚な憩いの場所となっています。

土井の新堤(市史跡昭和53年指定)

 元和年中、領内の田部村、竹之内村の稲作の水害を防ぐため、領民を動員し、幅3間(5・4m)長さ700間の堤防を築いたとされ、堤防があったと言われる場所は現在、農道として使用されています。

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Vol-075 西坂神社 17世紀代を代表する神社建築

 西坂神社は、香取市の西端、西坂地区に鎮座しています。面足命・大己貴命などを祭神とし、白鳳2年(673)の創建と伝えられ、現在の場所に移ったのは斉衡元年(854)とされています。
 かつて坂大明神や西坂大神宮と呼ばれ、近郷の人々から深く崇敬されてきました。
 本殿は、正面柱間が3間の切妻屋根を持つ建物(身舎)に庇( 向拝)がついた三間社流造と呼ばれる様式です。
 流造とは、正面の屋根が軒先まで伸びて曲線をつくることにちなんだもので、神社建築としては一般的なものです。
 身舎の間取りは奥行き2間のうち前方を外陣、後方を内陣として中央の柱間のみに板扉を設け、左右は板壁、内部に間仕切りはありません。天井は周囲を一段斜めに打ち上げた支輪天井で頭貫木鼻は唐獅子と獏の丸彫、十二支の本蟇股が付けられています。
 廻縁は、正面および両側面に廻り、背面柱筋に彫刻を施した脇障子を立てています。前面には5段の階段をつけ、廻縁の周囲に高蘭をつけ、階段の左右には擬宝珠を据えた登高蘭をつけています。
 建立当初の屋根は、茅葺きでしたが昭和24年に銅板葺に改めています。
 平成元・2年度に行った保存修理工事の結果、現本殿の建立は、発見された部材墨書などから元禄9年(1696)であったことが確認されています。これは、社伝の慶安元年(1648)、代官一色忠次郎が再建したとするよりは年代が下ることが明らかになりました。
 この本殿は、地方の神社建築としては本格的な様式や手法が用いられ、熟練した工匠の技法が認められることから17世紀代の神社建築を代表するものとして昭和48年に県の指定を受けています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成24年8月15号(PDF:6,697KB)掲載)

Vol-076 紀州商人と近江商人 他国商人がつくる街

 震災以後、ルーツ(先祖)探しが静かなブームだといわれます。そのきっかけのひとつが、星野博美さんの『コンニャク屋漂流記』(文藝春秋社、2011年)という本です。著者の先祖は、江戸時代に和歌山から外房へ移住し、「コンニャク屋」の屋号を持つ漁師だったそうで、同書はこうした自身のルーツを探るノンフィクションです。
 実は、千葉県は紀州(現在の和歌山県)とのつながりが深い土地柄です。銚子のヤマサ醤油の創業元である浜口家が紀州出身の商人であることはよく知られていますが、佐原にある、塗り物や陶器を扱う紀伊国屋商店もその一つです。「紀州漆器」は日本三大漆器にも数えられる、江戸時代以来の特産品です。紀伊国屋商店の初代当主は現在の和歌山県有田市の出身で、明治7年(1874)に佐原の地に店を開いたと伝えられます。
 全国を股にかけて活躍する商人に「近江商人」がいます。佐原の伝統的な町並みに店を構える植田屋荒物店も現在まで続く「近江商人」です。初代の植田屋利兵衛は、近江商人の出身地として有名な近江国蒲生郡(現在の滋賀県近江八幡市)の生まれで、すでに銚子で商いをしていた植田屋徳兵衛店から暖簾分けをして、宝暦9年(1759)に佐原に店を開きました。
 江戸時代後半から明治時代にかけて、江戸との舟運によって栄えたこの流域には、こうした紀州商人や近江商人の系譜を引く家が何軒か現存しています。古くから暮らす商人たちだけでなく、紀州や近江など遠隔地から新たに移住した他国商人たちの存在と活動が、この地域の経済と文化の発展に大きな支えとなっていたのかもしれません。今改めて、ご自身と家族のルーツを探ってみてはいかがでしょうか。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成24年9月15号(PDF:6,232KB)掲載)

Vol-077 飯篠長威斎墓 由緒ある武術・天真正伝香取神道流の始祖

 香取神宮楼門から西へ旧参道を進み、雨乞塚(諸神塚)を左に曲がると、天真正伝香取神道流の始祖、飯篠長威斎の墓(昭和18年2月19日・県指定史跡)があります。
 香取神道流は、室町時代の中ごろに飯篠長威斎家直により始まった武術の流派で、その後に多くの流派に影響を与えたことから、武道の源流の一つといわれます。
 墓所は高さ2mほどの塚状になっていて、中央には高さ91センチメートル(地上高77センチメートル)、幅約48センチメートルの板碑様の石碑が立っています。上部が斜めに欠損した平石で、碑面には「飯篠伊賀守長威大覚位」と刻まれています。
 文政11年(1828)久保木清淵著の『香取参詣記』に「諸神塚の左の方人家の裏に、飯笹長威入道の碑あり小碑なり、長享二年戊申四月十五日とあり、この所は梅木山不断所と云寺ありし所なり、長威入道兵術練行の趾と云」と紹介されています。長享2年(1488)は家直の没年にあたります。
 飯篠家直の生まれは、香取郡飯篠村(現多古町)で、故あって香取神宮のほど近く、丁子村山崎に移り住みました。伝承によれば、香取神宮の神威を感じた家直は、神宮門前近くの梅木山不断所で千日籠ごもりの修行をし、遂に剣術の奥儀を極めたとされます。
 家直の子孫は、当代の飯篠快貞氏で20代目を数えます。代々神宮の近くで子弟の指導を続け、現在も神道流道場(平成8年・市指定建造物)は神宮の南に所在しています。
 神道流の型(昭和35年・県指定無形文化財)は、太刀、居合抜刀、棒、槍、長刀、柔術、築城術などいわゆる武芸十八般にわたりますが、その型の大半は、トンボ伝書と呼ぶ極意書とともに、宗家の快貞氏により継承されており、また、師範大竹氏の道場(成田市)では門弟の指導が続けられています。

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Vol-078 三ノ分目大塚山古墳 利根川下流域最大の前方後円墳

 国道356号線を佐原から小見川方面に向かい、三ノ分目地区に入ると右手に大きな塚が見えます。これが三ノ分目大塚山古墳です。
 昭和59年に測量調査、昭和61年に確認調査を実施した結果、墳丘全長123m、後円部の径68m、前方部の幅62mの規模で、周囲には盾たて形に堀が巡っていることがわかりました。これは、 現在のところ利根川下流域最大で、県内でも十指に入ります。また、墳丘は3段に築かれ、各段には円筒埴輪列が確認されています。
 円筒埴輪は、比較的薄手で大型のものであり、焼成の際にできた黒斑が見られます。作り方の特徴などから、県内では最も古い段階の埴輪に位置付けられます。
 後円部の墳頂は共同墓地となっていますが、その傍に、大きな板石が3枚立っています。これは、石棺に使われた石材で、底石には側石を載せるための溝や切り込みが見られます。この石棺は長持形石棺と呼ばれ、畿内では5世紀の大王や大豪族級の大型古墳に盛んに採用された形式です。長持形石棺とは、板石を組み合わせて作った石棺で、運搬の際に縄をかけたと思われる突起を作り出すのが特徴です。しかし、この石棺がいつ、どのような経緯で掘り出されたのか、副葬品は何があったのかなどは、残念ながらわかっていません。
 本古墳は、墳丘の形、埴輪や石棺の特徴などから、5世紀中ごろに築造されたと考えられます。5世紀という時期は古墳時代中期にあたり、大阪府の大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)をはじめ、巨大古墳が全国各地で築造された時代です。香取地域においても、強大な勢力をもつ首長がいたことを物語る古墳といえます。おそらくは、霞ケ浦や東京湾沿岸の首長と連携しながら、利根川下流域を治めていた人物の墓と考えられます。

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Vol-079 ひげなで祭 側高神社に伝わる奇祭

 側高神社は、大倉に鎮座する古社で、香取神宮第一の摂社です。その主祭神は、神秘とされ明かされていません。創建は神武天皇18年と社伝にはあります。
 側高神社には「ひげなで祭」という奇祭が伝わっています。以前は1月10日に行っていましたが、近年は1月の第2日曜日を祭日としています。
 祭りは、氏子による年番の引き継ぎ行事であるとともに、五穀豊穣と子孫繁栄を祈願する神事でもあります。
 その始まりは、鎌倉時代の建保2年(1214)と伝えられ、約800年の歴史があります。
 祭りは、松竹梅と鶴亀を配し蓬莱山に見立てた飾りの前で行われます。西側に年番、東側に請年番が向かい合って座ります。全員が紋付き袴の正装で、年番のみが髭ひげを付けています。まず、 7組に分かれて7杯に達するまでお酒を飲み合う「七引き合いの杯事」から始まります。その後、年番は請年番に酒を勧めるため、立派な髭を撫でます。これが「もっと飲め」の合図で、請年番は杯を断れないしきたりになっています。このように飲み比べが始まると、周囲から「まだまだ」とのやじが飛び大いに盛り上がります。「ひげなで祭」の名はこのような所作に由来しています。 年番と請年番の前には、飲み干した杯数を表す竹串が立てられます。竹串には、小鮒や鮭の切り身が刺してあり、家内安全や無病息災の御利益がある縁起物とされています。やがて、神職の発声で鬨ときの声を上げ、祭りは終わります。
 「ひげなで祭」は、関東地方東部で年頭に行う御歩射と呼ばれる徒弓神事が独特な形に発展した貴重な伝統文化です。昭和52年6月1日に市の無形民俗文化財に指定されました。
 平成25年は1月13日(日曜日)13時30分ころから執り行われます。

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Vol-080 阿弥陀文字図像板碑 庶民信仰の表現

 板碑は、仏教や民間信仰の普及により、鎌倉時代から室町時代にかけ盛んに造立され、石造物のなかでは、供養塔婆の代表といえます。板碑の詳細は以前紹介していますが、今回はそのうち、阿弥陀如来を文字と図像で表現した阿弥陀文字図像板碑を紹介します 。 板碑の多くは、仏を梵字で表している(種子)のに対して、図像板碑は、阿弥陀如来、地蔵菩薩、観音菩薩、不動明王などの仏を図像で表現しています。市内では南北朝時代から室町時代を中心に造立された28基が確認されています。 この図像板碑の中には、文字や梵字と図像をミックスした面白い表現のものが見られます。中でも佐原地区では南無阿弥陀佛の6文字を図案化し、それに顔や手足を付けて阿弥陀の像容としているものが7例知られています。 新寺公会堂の横にある小さな墓地内に、コンクリートの基壇で固定された11基の板碑があります。板碑は2列に配列され、そのうち前列左端の板碑が阿弥陀文字図像板碑になります。 高さ82・5センチメートル、最大幅55センチメートル、厚さ12?13センチメートルの雲母片岩製で、石の上部や右側に剥離や欠損が見られ、上方が広く、下方が狭い不整形をしています。 年代は、寛正4年(1463)の銘文があり、室町時代の造立であることがわかります。 図像は、踏割り蓮座の上に立っている阿弥陀を表したもので、頭部は「南」頚部は「無」胸部および腕部を「阿弥」腹部を「陀」脚部を「佛」の文字で形成しています。文字は図案化され、阿弥陀の衣のように見えます。 また、下部の左右に観音、勢至の種子があり、阿弥陀三尊を形成しています。このような三尊形式で表される阿弥陀図像板碑は、県下でも数が少なく貴重な考古資料となっています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成25年1月15号(PDF:542KB)掲載)

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