アーカイブ香取遺産 Vol.211~220

更新日:2024年10月22日

アーカイブ香取遺産 Vol.211~220

Vol.211 下総名勝図絵にみる眺望

 香取市域の江戸時代の様子を伝える地誌に「下総名勝図絵」があります。松沢村(旭市清和乙)の名主を務めた国学者である宮負定雄が天保14年(1843)から嘉永6年(1853)にかけて千葉県北部を旅行して訪れた寺社や町の眺望、伝承をまとめたものです。書中の絵図には詳細な書き込みがされているため、本書は現存しない建物や石碑を記録した貴重な資料として知られています。
 香取市域では、香取神宮の桜の馬場、佐原の諏訪神社と石尊山、大戸神社、大倉の側高神社、阿玉川の仙元山、小見川の小見山・浅見山等の高台からの茨城県方面への眺望が多く紹介されています。それぞれの絵図には手前に展望台となる山と当時の眼下の家並みが書き込まれ、奥には鹿嶋市・潮来市方面の台地や湖沼、筑波山等の遠景が描かれています。

 このうち阿玉川の仙元山は阿玉川地区の小字仙間に接した山ですが、現在は一部が掘削されたため宮負が眺望を記録した地点は立ち入ることができません。小見川の小見山・浅見山は、現在は城山と呼ばれています。山裾の分郷地区に浅間下の小字があり江戸時代の呼び名の名残です。
 宮負は香取神宮の桜の馬場からの十六島方面への眺望を「景色最佳し」と称しています。現在では桜と紅葉の名所として知られる場所からの眺望で、手前には津宮地区の家並み、奥には水郷一帯に帆船が行き交う様が描かれています。
 「下総名勝図絵」は、もとは手書きの個人の記録で限られた人しか見ることができない資料でしたが、現在では刊本となり図書館で閲覧できます。

Vol.212 国史跡「下総佐倉油田牧跡」と地名

 かつて九美上地区周辺の広範囲に、油田牧という馬を放牧するための牧がありました。牧は江戸幕府が整備した馬牧のことです。房総半島には大きく分けて、佐倉七牧、小金五牧、嶺岡五牧の3カ所が置かれました。油田牧は、その佐倉七牧の北東端に位置しています。
 油田牧範囲の西端に残されている野馬込跡(令和元年国史跡指定)は、年1回、野馬捕りの際に使われる土塁状の施設跡です。詳細は香取遺産Vol.156で紹介しています。

 遺構以外にも、野馬込跡周辺は駒込という小字になっているなど、地名にもその名残りがあります。牧と周辺村々の境には、馬や人の出入りを管理する木戸番が置かれましたが、九美上周辺には、木戸にちなむ小字も確認できます。木戸前・木戸脇(大根)、木戸前・毛ケ木戸(下小野)、野馬木戸(織幡)、古木戸(油田)、木戸脇(高萩)、野馬木戸(岩部)、木戸前(伊地山)といった小字で、こうした場所に木戸があったのでしょうか。その他、土手添(返田)、堀尻・堀尻台(大根)、堀志り(福田)といった小字も関連がありそうです。
 九美上という地名自体、明治2年に政府が牧跡の開墾事業を始めた際に、開墾順に数字を付けた比較的新しい地名です。ちなみに近隣では、七栄・八街・十倉・十余三といった地名もあります。

Vol.213 香取市南部の地形~油田牧と分水嶺~

 香取市の中央部から南部にかけては、下総台地と呼ばれる台地が分布しており、前回の香取遺産でも取り上げたとおり江戸時代には幕府の牧場である油田牧がありました。
 牧の範囲は広大な台地を生かしたもので、牧の周囲には谷があります。南部に栗山川水系(図(1)緑色)、北部は小野川水系(同水色)、東部の一部は黒部川水系(同紫色)の川の源流部があります。栗山川は下総台地に流れる川の中でも最大級の河川で、河口は太平洋にあります。小野川と黒部川は利根川に合流するので、油田牧周辺は太平洋と利根川の分水嶺でもあります。
 約12万年前は現在よりも温暖な環境(間氷期)で、関東平野の多くが海面下にあり、遠浅の海の底で平坦に土砂が堆積し、下総台地の原地形を形成しました。その後、約10万年をかけて寒冷化が進み、約2万年前が氷期のピークとなり各大陸に氷河が拡大したことで海面低下が進みました。日本周辺では海水面が約120m低下したとされ、台地は河川や土砂崩れなどによって削られていきました。約12万年のサイクルで何度も繰り返されたため、台地は堆積が進み、河川となりやすいところは繰り返し侵食が進みました。

 以上の過程を経て形成された台地は水が集まりやすいところから削られ、比較的水平な台地にいくつもの樹枝状の谷が見られます。このような谷は谷津などと呼ばれ、台地から水が集まりやすいため古代より水田(谷津田)として活用されてきました。
 谷の奥は水田、谷が集まる河川は輸送や移動に重宝され、台地は牧場や畑に、木は薪炭材にと、地形を生かした生活がこれまで営まれてきました。また、舟で越えられない分水嶺である油田牧周辺は、現在の県道などの道路が多数あります。木戸などの小字や古地図(図(2))などから、古くより多くの道が行き交う場でもあったことがうかがえます。

Vol.214 旧宅の足元にある伊能家の遺構

 国の史跡である伊能忠敬旧宅書院の基礎改良工事に伴い行われた立会調査について紹介します。
 調査の目的は、書院の基礎構造の確認と忠敬の孫の忠誨の実測により作成されたとされる文政7(1824)年の「伊能家実測図」で示されている建物跡を確認することでした。
 書院の基礎の調査は、柱の芯から半分を掘り下げて構造を確認する方法をとりました。その結果、書院の基礎は蝋燭地業と坪地業の2種類であることが確認されました。蝋燭地業とは杭工事のことです。現在の地表面から1mほど掘り下げて松杭を打って根石を置き、さらにその上に杭状の石を立てて礎石を置いていました。坪地業とは、柱の位置に穴を掘り、瓦などを混ぜながら突き固めていく基礎工事です。50センチメートルほど掘り下げてから瓦片や玉砂利などを混ぜて突き固め、その上に礎石を置いていました。

平成25年度に実施された立会調査により検出された遺構↓

 書院の南側では、書院が建てられる前の建物跡が確認されました。この建物は、桁行3間、梁行2間(5.4m×3.6m)の規模と推定されます。柱の立てられた位置には坪地業が施されていました。この坪地業は貝殻を充填して突き固める貝殻地業というものでした。また、焼土、炭化物、灰などが充填された隅丸長方形の遺構が確認されています。地上にどのような構造物があったかは分かりませんが、おそらく燃焼施設の跡ではないかと考えられます。そして、この建物跡の位置は、文政7年の「伊能家実測図」にも記載されている建物の位置と符合することから、改めてこの図の正確さを肯定するとともに、文政期の伊能家の遺構が今も旧宅の足元に保存されていることを教えてくれています。

Vol.215 香取神宮の参道と参詣道

 香取神宮第1駐車場から総門に至る道は表参道と旧参道、北に位置する桜の馬場から本殿までの道を北参道と呼び、各地の参詣者が参道に向かうまでの道は参詣道と呼ばれます。
 香取神宮への参詣は盛んであり、境内はもとより表参道と駐車場はにぎわい、南に接する県道佐原山田線には多くの車の往来があります。対して江戸時代から盛んになった津宮地区を経由した参詣については、香取遺産Vol.196(令和4年4月)で起点の津宮の大鳥居と宿場、地区名の由来である忍男神社・膽男神社の二社、朝廷からの使者が身を清めた根本川、じょんぬき橋までの参詣道を紹介したところです。さらに神宮への参詣道を進むと神道山の山裾の道となります。神道山の山頂には古墳12基からなる神道山古墳群、山裾には神宮の式年神幸祭の際に神輿が留め置かれる御駐輦所があります。南下して神宮が鎮座する亀甲山に向かうには大坂と呼ばれる坂道を上ります。大坂は切通しの道で人がすれ違えるほどの道幅です。また、坂の中ほどには大坂の井と呼ばれる湧水と分かれ道があります。湧水は参詣者が身を清めるために使ったことが推測されます。分かれ道は幅1mほどの険しい切通しで桜の馬場に至ります。大坂を進むと旧参道と合流して津宮からの参詣道の終点となります。

 昭和10年代後半に新たに表参道が整備されたため、商店などは次第に表参道へ移っていきましたが、旧参道には、かつては旅館、土産物店のほか、郵便局、米屋、床屋などがそろい、近辺地域の生活に欠かせない商店街となっていました。
 現在では参詣者の自動車移動の需要に合わせた整備がされていますが、周辺を歩く機会がありましたら、今回紹介したスポットに目を留めてみてはいかがでしょうか。

Vol.216 佐原諏訪神社と諏訪山の景観

 佐原駅から南へ500mほど行くと、大きな鳥居と百二十八段ある長い石段が姿を現します。
 この石段の途中には、金比羅神社や稲荷社などといった境内末社が鎮座します。また天明三年(1783)、周りに竹が生えていないところに二本の竹が突然生えてきたことを瑞祥として歌が詠まれたいわれを誌した雙生竹碑や、郷土の俳人の句碑などが並びます。
 これらの中を登った上に鎮座しているのが、佐原新宿鎮守、諏訪神社です。
 社伝によれば、元は伊能村に鎮座していましたが、天正十四年(1586)に佐原新宿の開発に際して、現在の諏訪山に奉遷されたと伝わります。
 この諏訪山上からの眺望は、『下総名勝図絵』(香取遺産Vol.211にて紹介)でも取り上げられており、「此社景色最佳シ」とも述べられています。

 また当社には、当時三大家にも数えられた国学者、小山田与清が文政三年(1820)、鹿島詣での途中、佐原に滞在した際に訪れています。その道中を記した「鹿島日記」に、「こゝよりハ刀根川を打こし。板来。鹿嶋。など眼の中にこもりてみゆ」と諏訪神社からの見晴らしのよさについて述べています。
 与清は、境内の雙生竹や、伐られようとしたところ一夜のうちに向きを変えた「かたよりの樅」、同じく一夜にして場所を動いた「すれあひの松」について「くすしき(神秘的な)ことどもなり」として、雙生竹の前にあった坊(僧の詰所)にて歌を詠んでいます。
 なお、神社境内に坊があるのは、当時、別当寺として諏訪神社を荘厳寺が管理していたためと考えられます。
 この佐原滞在の時の縁によるものか、与清は訪問の翌年に建てられた雙生竹碑の碑文を作っています。
 佐原の歴史の中において、文化、景観の重要な一角を占める神社です。

Vol.217 玉姫明神記碑 栗源地域の養蚕の歴史

 かつて生糸は日本の主要な輸出品で、千葉県内でも明治20年代から大正期にかけて、生糸生産のための養蚕が盛んに行われていました。養蚕とは蚕に桑の葉を与え、蛹に育てて生糸の原料である繭をとるもので、農家の副業として広く普及しました。栗源地域でもこの時期に養蚕が広まり、岩部の台地では蚕の餌となる桑畑が広がり、また農家には指導者によって養蚕が奨励されました。岩部の安興寺はこうした養蚕に関わりがあったお寺で、境内にその歴史の一端を見ることができます。
 安興寺の山門の脇に「玉姫明神記」と刻まれた石碑が建てられています。大正7年4月建立、高さ2.5mほどの大きな石碑で、碑文は日本寺(多古町)の三三二世日淵撰文によるものです。安興寺では、大正6年4月、養蚕の守護霊神として茨城県鹿島郡軽野村(現神栖市)から蚕霊様を分祀して境内に蚕霊堂を建立し、玉姫明神と命名して祀りましたが、これを記念した石碑となります。

 以後、安興寺では毎年4月1日に「蚕霊様」と呼ばれる玉姫明神の祭礼が行われていました。境内には露天商が連なり、本堂前に芝居小屋が掛かるなど、多くの人で賑わったそうです。時代が進むにつれ養蚕は衰退していきますが、蚕霊様の祭礼は昭和35年頃まで続いたようです。
 他にも、境内には地域の養蚕業の発展に寄与した高木仁助翁の頌徳碑も建てられています。昭和30年に建てられたもので、碑文によれば、高木仁助は明治12年生まれ、群馬県の蚕糸学校で学び、長野などの各県で技術者として勤めた後、県内の養蚕組合などで長く養蚕指導の第一線にあったとあります。
 蚕霊堂の建物は今も本堂の脇に残されていますが、老朽化が進んだことから、玉姫明神のご神体は本堂に祀られています。左手に桑の葉、右手に生糸束を持った珍しい容姿の像で、元日には本尊などとともにご開帳されています。

Vol.218 仲仁良I遺跡の調査

 仲仁良I遺跡は、JR成田線小見川駅から南へ6km、標高43mの台地上に所在する縄文時代、奈良・平安時代、中近世の遺跡です。これまでに3回の発掘調査を行いました。旧山田町新庁舎(現山田支所)の建設工事、旧山田町旧庁舎跡地整備事業と県道山田栗源線交通安全対策事業に伴う調査です。
 縄文時代は、落とし穴が見つかりました。住居跡がないので、狩猟の場として利用していたと考えられます。
 奈良・平安時代は、竪穴住居跡や掘立柱建物跡がみつかり、7世紀の終わり頃から9世紀の終わりごろまで集落が営まれていたことがわかりました。出土した遺物には、土師器に墨で文字を書いた墨書土器があります。その文字は、「来」「二」「山」「上」「満」「成」などです。硯に転用した須恵器の破片も出土していることから、読み書きのできる人が集落に居たことがわかります。
 集落が7世紀の終わりころに出現することから、律令制が整い新たに開発された集落と考えられます。律令制では公地公民を原則とし、6年ごとの戸籍の更新や班田収授制で税を確保していました。

 中近世は、溝跡、柵列、馬の埋葬土坑がみつかりました。土器などの遺物は少なく、集落が営まれていた痕跡は希薄です。
 溝跡と柵列は、東西南北に延び、遺跡を整然と区画しています。柵列は、杭を立てる穴を連ねたものです。上部構造は杭を横木でつないだ柵です。
 馬の埋葬土坑は、柵列と重なって5基がみつかり、骨や歯などが出土しました。この柵列は調査範囲の外へ続いており、馬の埋葬土坑はさらに増えそうです。
 遺跡からやや離れた北西には、中近世に馬の放牧をした牧が広がっていました。柵列などの区画は、馬の飼育などと関係する可能性がありそうです。
 これまでの調査は、遺跡の一部にとどまっていますが、土地利用の変遷や歴史の一端を考察する手がかりになります。

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