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アーカイブ香取遺産 Vol.141~150

更新日:2018年12月31日

アーカイブ香取遺産 Vol-141~150

Vol-141 伊能忠敬、ふたつの日記 文学青年から測量家へ

 伊能忠敬は全国測量を始める以前にも、東北方面と関西方面の旅に出かけていますが、記念館にはその際に記された旅日記が二種類伝わっています。一冊は忠敬33歳のときに、妻の達(みち)と出かけた松島旅行の日記です。『奥州紀行』という題名がつけられています。

 日記には経由地の距離と日々の経費等が毎日書かれていますが、目的地だった松島周辺を忠敬はとても詳しく記しています。

 これは忠敬が松尾芭蕉の『奥の細道』に強い影響を受けていたからで、旅先での行動を見ると当初から旅の目的が芭蕉の足跡を訪ねることにあったようです。安永7年(1778)6月10日に仙台城下を出発した忠敬は、そこから塩釜神社までの途中、芭蕉が詠んでいる宮城野、沖の石、末の松山、野田の玉川などを積極的に見て歩いています。塩釜神社では建物の素晴らしさや観音堂から見える景色を「その景色、筆墨の及ぶ所にあらず」と、この日記では珍しく感情を込めて記述しており、興奮しながら筆を走らす若い忠敬の気持ちが伝わってきます。他にも芭蕉が訪ねた壷の碑や多賀城の古跡を訪ねながら仙台へ戻った忠敬は、13日には帰路につきますが、帰りの二本松でもやはり芭蕉が記している安達が原の黒塚に立ち寄っています。

 このように日記からは、俳句や和歌など文学関係に非常に関心を持った忠敬像をイメージすることができますが、もう一冊の日記からはまた違った面がみえてきます。『旅行記』と題されたもう一冊の日記は、忠敬が四十八歳のときに久保木清淵(くぼきせいえん)ら友人とお伊勢参りに出かけた際の旅日記です。この日記は忠敬が江戸へ出て本格的に測量・天文学の勉強を始める前に記されたものですが、そこには旅先で見えた山の方位・角度や北極星の高度などが記されており、忠敬が行く先々で測量をしながら旅をしていたことがわかります。

 こうした記載内容の違いは、妻と友人という同行者の違いがあるのかもしれませんが、二つの日記が書かれた15年の間に、忠敬の興味が俳句や和歌などの文学から測量・天文学へと変化したのではないかともいわれています。

 忠敬直筆のこれらの日記は、伊能忠敬記念館で展示されています。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成30年4月号(PDF:569KB)

Vol-142 香取市の地形 12万年前は海の底

 香取市の地形は大きく分けると、台地、急斜面、低地から成り立ち、その形成時期はそれぞれ異なっています。市内の最高標高は市の東部・岡飯田地区の台地上で52メートル、千葉県の最高標高は愛宕山(南房総市)の408メートルで、全国で最も最高標高が低い県であり、全国的に見て極めて起伏の小さい土地と言えます。そこでどうやってこの三つの要素からなる景色ができたのか、地形の歴史を辿ってみましょう。

 市内で人類の痕跡が確認される時期よりも前、12万年前の地球は温暖な気候でした。現在よりも海水面が高く、香取市を含め関東平野南部には海が広がっていました(D)。その後、寒冷化により陸上に多量の氷河が形成され、海水面が低下します。これにより市内で最も低い地形である台地の原型が出来上がります。


関東平野の変遷を示す古地理図

 約2万年前は氷期という寒冷化のピークで、現在よりも海水面が120メートルほど低かったと言われています(C)。この時、現在の低地には深い谷が刻まれ、台地の周囲はどんどん削られて急斜面が形成されました。

 約10万年をかけて寒冷化した後、約1万年で急激に温暖化していきます。氷河が溶けることで海水面が上昇し、約6千年前の縄文時代前期は現在よりも数メートル高く、深い谷は海の入り江となります(B)。この頃に阿玉台貝塚をはじめ、城ノ台貝塚(木内)や鴇崎貝塚など多くの縄文時代の貝塚が台地斜面部に形成されます。

 その後の寒冷化により再び海水面が低下し、谷の奥まで入り込んでいた海水が引いて、平坦な低地が形成され、現在に至っています(A)。低地には河川の作用による微高地(自然堤防)がありますが、そこには三ノ分目大塚山古墳や富田1号墳などの古墳が造られ、集落も営まれました。

 われわれ人間の視点から見ると、地形は自然災害や人の手を加えないと変わらないと思われがちですが、より大きな時間の中での変化を経て、現在の地形が形成されるのです。そして人々はこれらの地形を巧みに利用しながら暮らしてきました。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成30年5月号(PDF:1,726KB)

Vol-143 一石一字塔 篤い信仰のあらわれ

仏教の信仰形態の一つに写経があります。経典を一文字ずつ写すことで功徳を得ようとするもので、これが石造物の形で現れたものに一石一字塔があります。

 一石一字塔とは、川原石などの小石に経典を一字あるいは数字ずつ書き写した経石を集め、土中に埋納し経塚とし、その上に標識として建てられたものです。

 市内でも数例が確認されていますが、その一つ、道の駅くりもとの向かい側にある沢地区の共同墓地入口に一石一字塔が建っています。尖頂方柱で塔身は高さ約60センチメートル、正面に「妙法蓮華経一石一字/延享二乙丑季十月立」、右側面に「師範自性院常源存位/現生安穏後生善處」、左側面に「毎日作是念以何令衆生/得入無上道速成就仏身」と刻まれています。

 石塔の背後に建つ「山辺松貞の碑」の石碑には、「沢村の名主であり医師でもあった山辺松貞(法名自性院常源)が、延享2年(1745)10月に建立した。信仰心厚く、此の上ない最高の道に入り、速やかに仏身となることを欲して、妙法蓮華経を一石に一文字ずつ記して土中に埋め、その上に塔を建立した」といった内容が記されています。石塔の周囲は平成20年に山辺家子孫により整備され、その際にこの石碑も建てられたようです。

 市内にはこの他、谷中の西福寺入口、鴇崎農村共同館裏、分郷真福寺、野田松林寺、油田崇徳寺などでも確認されています。

 一石一字塔あるいは経塚の造立は、江戸時代に最盛期を迎え、その分布も全国に及んでいるとされます。ただし、経石の埋納については、実際に掘り起こさないとわからないため、その多くは未確認のままと言えます。これら市内の一石一字塔についても、残念ながら経石は確認されていません。しかしながら、過去の発掘調査により経石が確認された事例もあります。例えば、堀之内字平台「堀之内遺跡」では、石塔はありませんが、経石埋納遺構が確認され、多くの経石が出土しました。また、成田市堀籠「かのへ塚」では、明和2年(1765)銘の石塔とともに、7,200個の経石が出土しています。

 法華経の総文字数は一般に69,384文字と言われます。造立には、膨大な数の小石を集め、また一人あるいは複数人の手によって文字を書き写して埋納するという、手間と労力を要するものと想像されます。

 一見するとシンプルな形の石塔ですが、その背景には建立者の篤い信仰心が隠されているのではないでしょうか。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成30年6月号(PDF:807KB)

Vol-144 「佐原の山車行事」保存・伝承 さらなる二百年先へ

 平成30年5月3日、荒久区山車新造竣工式が執り行われました。新しい山車には、大天井に五色の幡、左右に鶴と亀を飾り、四方には玄武 青龍 朱雀 白虎の四神を配しています。祭礼の時とは異なったあつらえです。山車の前には、祭壇が設けられ、八坂神社宮司による祝詞奏上や参列者による榊奉納などが厳かに執り行われました。式の後、野田芸座連が祝砂切を演奏し、お披露目の曳き廻しへと出発しました。

 荒久区の旧山車は、昭和3年の建造で、約九十年が経ちます。長年の使用により、部材のひび割れや変形が激しくなり、山車行事の伝承に支障をきたすと考えらました。そこで、町内では山車新造について議論がなされました。

 国の重要無形民俗文化財である「佐原の山車行事」は、重要な用具である山車本体をはじめ、大人形や天幕、彫刻などの懸装品の保存・修理について、学識経験者からなる佐原山車行事伝承保存会評議委員会に諮問をし、文化財としてふさわしい計画となるよう審議が行われます。

 平成28年に区の代表者から山車本体の新造計画案の提出を受け、佐原山車行事伝承保存会は評議委員会に諮問をしました。審議に先立ち、山車の現状を調査すると、欅の良材を用い、無節で木目の整った材を多用していることが分かりました。特に、六本ある柱の内、正面の二本は四方柾とよばれるもので、四面とも正目となるよう贅沢な木取りをしています。また、先代の山車から一部の材を転用していること、仕口なども優れた細工が施されていることも分かりました。この調査を踏まえ、解体修理とする案も提示されました。評議委員会、区とも会議を重ねた結果、新造とする計画が決定しました。新造計画では、若干の補強材の追加などのほかは、これまでの山車を踏襲するものです。

 今回の荒久区保有山車新造は、その経緯や旧山車の調査結果、新山車の設計図を後世の保存・修理に備え、記録保存をします。このように、文化財に係る保存・修理・新調は、幾多の段階を経て慎重に実施されます。

 今月の祇園祭では、新しい荒久区の山車も、懸装品を飾り曳き廻されます。さらなる百年先へ、山車行事を保存・伝承するという荒久区の強い思いが、皆さんにも伝わることでしょう

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成30年7月号(PDF:864KB)

Vol-145 「だし」は文化の窓 佐原の河岸文化

 かつて、小野川には一軒に一つと言われるほど多くの「だし」が造られていました。「だし」は陸から川へ降りるための石段と岸から川面に張り出した荷揚げ場を持った接岸施設です。昭和の初め頃までは、小野川に順番待ちの舟がずらりと並んでいたそうです。 古文書では「出シ」と書かれ、「稲揚場」であったと伝えています。
 赤松宗旦の『利根川図誌』では、「佐原ハ下利根附第一繁昌の地なり、村の中程に川有て新宿・本宿の間に橋を架す、大橋と云、米穀・諸荷物の揚さげ、旅人の船、川口より此所まで先をあらそひ、両岸の狭きをうらミ、誠に水陸往来の群衆昼夜止時なし」と河岸での賑わいを記しています。

 「だし」の本来的な機能は「荷揚げ場」ですが、それを利用して多くの人が佐原を訪れていました。その中には著名な文化人もいて、例えば賀茂真淵(国学者)の高弟である加藤千蔭と村田春海や、菅茶山(漢詩人)、渡辺崋山(画家・田原藩士)、小山田与清(国学者)などが訪れています。千蔭と春海は、寛政6年(1794)、千蔭の門人であった永沢躬国の家に滞在しています。それを記した「香取の日記」では、佐原へ到着する様子を「みくにが家の前へ舟よせぬ、躬国でむかへり」と記しています。永沢躬国は歌人として活躍した人で、家は本川岸にありました。また、小山田与清は、文政3年(1820)に香取・鹿島の両社を参詣した時の旅行記「鹿島日記」のなかで、「神崎の津より舟にて流れのまにまに下り、佐原の里の本宿河岸なる永澤久香半十郎が家に着きぬ」「本宿河岸より舟に乗りて鹿島ざ((ママ))まへ赴く。」などと記しています。久香は躬国の弟で、この時に躬国も一緒にもてなしています。いずれの旅行記も、当代一流の文化人と、地元の文化人との豊かな交流を記しています。
 このように、文化人はもとより、東国三社参りの旅人の多くも、「だし」を利用して佐原の食・文化に触れていたことは容易に想像できます。
 「だし」は荷揚げ場としての商業的利用のみならず、文化を受容し、また、発信する窓口としての機能も有していたのです。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成30年8月号(PDF:758KB)

Vol-146 城山5号墳 全身を表現した人物埴輪

 城山5号墳は、1号墳があった県立小見川高等学校から、谷を挟んだ北側の台地上にあります。昭和40年に立正大学の丸子亘助教授らによって発掘調査され、全長約51m・高さ約5mの前方後円墳で、古墳の上と中腹に円筒・人物・馬などの埴輪列が巡っていました。
 埋葬施設は後円部中央にあり、穴を掘ってその中に木棺を埋置した木棺直葬ですが、内部の調査は実施されなかったため、副葬品などは不明です。また、墳丘の各所から、須恵器や土師器といった土器類、有孔円盤や勾玉などの滑石製模造品、銅釧(銅製の腕輪)なども出土しており、死者への祭祀に使われたものと考えられます。5号墳は、これらの出土遺物の特徴から、6世紀前半から中ごろに築造されたもので、1号墳(6世紀後半)に葬られた人物の前代の首長の墓と推定できます。

 写真で紹介した2体の人物埴輪は、前方部の南西側中腹で発見されたものです。高さは右が113センチメートル、左が120センチメートルで、髪・腕・足の一部が欠損していますが、ほぼ全身が残っています。頭には三角形の冠帽を被り、顔の両脇には美豆良と思われる髪が肩まで伸び、首には丸い粘土玉を連続して貼り付けた首飾りがあります。腕は棒状で手を腰にあて、上衣の裾は大きく広がっています。上衣の右胸から左腰にかけて2本の線がありますが、刀剣もしくは衣の合わせ目を表しているのでしょうか。両足は円筒形で、足先には靴を履いたような表現がみられ、高さ30センチメートルほどの器台に乗っています。2体とも全体の形や細部の表現が似ているため、同じ工人が作ったものと考えられます。
 このように、比較的忠実に全身を表現した人物埴輪のうち、全体が残っているのは市内では唯一です。本古墳より新しい時期、すなわち、6世紀後半になると、城山1号墳など市内の人物埴輪の多くは、両腕が簡略化され、両足も省略されるようになります。使う粘土や焼成後の色調も5号墳の埴輪とは異なり、下総型人物埴輪と呼ばれています。
 写真右の人物埴輪は、現在、県立中央博物館大利根分館で展示されています。左の人物埴輪は東日本大震災で破損したため、修復の後に市文化財保存館(いぶき館2階)で展示する予定です。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成30年9月号(PDF:802KB)

Vol-147 渡邊操と「無逸塾」 私塾から小見川高校へ

 かつて、市東部の久保地区には、中等教育機関であった私立「無逸塾」がありました。
 この塾は、渡邊操(存軒)が明治17年(1884)に、小学校を終了した青年達がさらに中等教育を受ける必要性を痛感して創設したもので、幾多の変遷を辿りながらも現在の県立小見川高等学校へと繋がっています。
 渡邊操は、安政2年(1855)に当地で生まれ、十代の頃、隣接する阿玉台地区の宮崎藤太郎に漢学を学びました。明治13年(1880)に二六歳で上京、東京帝国大学で講師を勤めてた信夫恕軒が主催する本所深川の「奇文欣賞塾」(漢学)に入塾し、後に塾頭まで上り詰めます。

 明治17年3月に卒業と同時に帰郷。同年11月、自宅を教場に漢学の「無逸塾」を開き、経史・史学・文章学を教授しています。塾名は、文学博士中村正直(敬宇)から書経無逸篇の一句「所其無逸」を揮毫してもらったことに因み、この読みは「其の逸んずる無きを所とす」となります。
 明治19年に塾舎一棟を新築、この落成式には、信夫恕軒や香取郡長・大須賀庸之助から祝辞が寄せられ、香取・匝瑳・海上三郡の期待が如何に大きかったかが知られます。翌年には教科に英語と数学を加え、修業年限を三年とし、同24年に教室と講堂(運動場)を新設しています。明治30年には学業年数を5年に延長、尋常中学校に準じる教育を行っていましたが、同33年には、村立良文農学校に移行。この年には佐原中学校が新設されています。
 その後は経営難から私立良文農学校として存続、大正5年(1916)には塾創設から30年が経過し、二千人余の同窓生が渡邊操の頌徳碑建立を計画し、同7年に完成し、開校三十周年記念式典が盛大に挙行されています。  
 ところが、大正9年3月に渡邊操が六六歳で急逝、その三年後に学校は町立小見川農学校として引き継がれました。このように一私塾が公立高校に移行する事例は稀有であり、地域のオピニオンリーダーであった渡邊操の信念が結実したものと思われます。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成30年10月号(PDF:769KB)

Vol-148 香取の海と新島十六島 利根川が流れる前と後

 香取市の北部には、利根川が西から東へ貫流します。その水は水郷地帯の米どころに肥沃な土壌を広げ、両総用水を通じて九十九里平野の水田や工場にも供給されています。多くの恵みをもたらしている利根川は、かつては東京湾に注いでいました。
 利根川が市北部を流れる前は、現在の霞ケ浦や印旛沼にまたがる広大な内海「香取の海」が広がっていました。平安時代にあたる約1000年前には図のような状態になっていたと考えられています。


約1000年前の流域想定図

 河川の流路が図の北西部周辺に集中するのは、関東造盆地運動によるものとされています。これは、地下深くのプレート運動の影響で、東京湾中心部と茨城県古河市付近を軸に沈み込みがあるというもので、厚い所では基盤まで約3000mも土砂が堆積しています。
 香取市を中心に見ると上流側が沈み込んでいるために西側の標高が低く、河口寄りの東側の標高が高いという逆転現象が起きています。また、香取の海は遠い所で河口から約100キロメートル地点にまで海水が入り込む、特異な内海が形成されました。
 江戸時代には、徳川幕府の命で大規模な河川改修工事(利根川東遷)によるものです。60年にわたる工事の末、利根川・渡良瀬川の流れは銚子から太平洋に注ぐようになりました。これにより江戸城下の水害が軽減されるようになったほか、銚子から江戸までの河川航路が東廻り航路として活用されました。ほかにも、利根川中流域をはじめとする新田開発、東北の伊達氏に対する防備の意味もあったとされています。一方、デメリットとして利根川下流域の水害の増加につながりました。

 その後、香取の海は洪水発生の度に急速に土砂が堆積して面積を縮小しましたが、これによって生じた土地を活用し、江戸時代初期から始まっていた新島十六島などの新田開発がさらに進みました。
 この地域では、日常生活に船を利用し、水路(江間)が日常の通り道となっていました。また、増水時にも対応できるよう水屋(基礎を高く盛った二階建ての蔵兼避難小屋、水塚ともいう)を設けるなど、水と共に暮らす工夫がなされていました。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成30年11月号(PDF:1,034KB)

Vol-149 小野川水門 ― 利根川改修工事の産物―

 店蔵造りの重厚な店舗や土蔵などの多くの建造物が立ち並ぶ佐原の町並みは、歴史的な景観を今に伝える地区として、平成8年(1996)に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。その町並みを形成する要素の一つに小野川があります。佐原の町並みの中央を南北に流れ、利根川に注ぎ込むこの川は、古くは大川、佐原川とも呼ばれていました。江戸時代の利根川舟運の発達により江戸と通じた佐原は河岸として栄え、小野川沿いにはだしと呼ばれる船着き場が並び、多くの船が行き来していました。
 現在、小野川が利根川に接する川口には、小野川水門が設けられています。高さ8.85m、幅10mの扉を持つ水門で、通船や逆流防止、自然排水を目的に、昭和43年(1968)3月に竣工されました。この水門は、昭和33年(1958)に利根川増水により、小野川が氾濫し、災害救助法の適用を受けるほどの被害があったため、建設されたものです。
 ところで、この小野川水門はあらためて設置された二代目の水門で、これ以前にあった初代の水門は、内務省により明治33年(1900)から昭和5年(1930)にかけて実施された「利根川改修工事」のうち第二期工事で建設されました。

 着工は大正8年(1919)11月で、杭打ちや基礎工事、側壁工事、門扉工事、橋梁工事などを経て、大正12年(1923)3月に竣工しました。設計者の宮本武之輔は、明治25年(1892)愛媛県温泉郡興居島村(現松山市)出身で、大正6年(1917)に東京大学を卒業後、内務省に入省し、利根川第二期改修事務所、荒川改修事務所などに勤務しました。
 この水門は、逆流を防ぐための逆水門扉を備えた特殊なもので、水門の上に小野川橋と称した鉄製の橋が架けられていました。宮本の設計報告によれば、この橋は単葉式の跳開橋の型式を採用した、とあります。片開きの跳ね橋で、橋脇に設置されたハンドルを回すことで、橋の下流側が跳ね上がり、水門を通る船を通す仕組みとなっていたようです。設計段階での見積で、工費は14万1千円と計上されましたが、実際の総工費は13万8千円となったようです

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成30年12月号(PDF:767KB)

Vol-150 初夢と宝船 「市内の弁財天と毘沙門天」

 新年、あけましておめでとうございます。
 お正月と言えば、宝船に乗った七福神を思い描くと思います。七福神は、室町時代にその原型ができたといわれ、江戸時代に庶民のあいだに広まりました。
 大黒天、弁財天、毘沙門天、福禄寿、寿老人、恵比寿、布袋の七福神が宝船に乗った絵は、皆さんにもなじみ深いものと思います。この絵には、「長き夜の 遠の眠りの皆目覚め 波乗り舟の 音のよきかな」という回文が書かれています。この絵を、元旦の夜に枕の下に入れて眠ると、宝船に乗った七福神が穢れや悪夢を運び去ってくれます。すると、良い初夢を見ることができるといわれています。
 ちなみに、この絵について民俗学者の折口信夫は、夢違えの呪符であると述べています。
 市内で七福神を探してみると、弁財天と毘沙門天が見つかりました。

 まず、弁財天ですが、佐原地区では、北横宿の観照院が弁財天を本尊としています。寺伝に元和8年(1622)の開山とあります。
 上宿の法界寺では、過去の豪雨災害で弁天堂が壊れてしまいました。今は、普段立ち入れない庫裏の側で、石の祠にお祀りされています。法界寺は天正11年(1583)開山と伝わる古刹です。
 扇島地区の長泉寺にも弁財天宮があり、鳥居と社殿の間に弁天池もあります。長泉寺は寛永2年(1625)の創建と伝わっています。
 更に、府馬地区には厳島神社が鎮座しています。弘治2年(1556)に琵琶湖の竹生島から弁財天を勧請創建したと伝わっています。昔日の境内は府馬堰の水面に浮かび、府馬八景の一つでした。
 次に、毘沙門天ですが、神生地区の新福寺に毘沙門堂が残っています。3間四方で床は甎と呼ばれるかわら敷きの立派なお堂です。新福寺は足利尊氏の弟に当たる足利直義を開基とすると寺伝にある古刹です。
 また、津宮地区の毘沙門堂は、香取神宮の北方鎮護を担ったと考えられています。建立時期は不明です。寛文年間(1661~1672)に焼失しましたが、享保6年(1721)に再興されました。現在のお堂は昭和46年(1971)に改築再建したものです。
 今年も良い初夢が見られますよう、お近くの弁財天、毘沙門天にお参りしてはいかがでしょうか。

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