アーカイブ香取遺産 Vol.161~170

更新日:2020年9月1日

アーカイブ香取遺産 Vol.161~170

Vol-161 社寺で見かける石造物 庚申塔

 香取市内はもちろん、全国の社寺や道端でもよく見かける石造物に、庚申塔があります。庚申とは、十干の庚と十二支の申の組み合わせによって60日または60年に一回廻ってくる日や年のことです。
中国の道教の教えに三尸説というものがあります。人間の体内に三尸という悪い虫がいて、庚申の日の夜に日常の罪過を天帝に報告されないよう、庚申の夜には眠らず過ごすことを守庚申といいます。この考え方は平安時代に日本の貴族に伝わり、鎌倉・室町時代には武士に、江戸時代になると一般庶民の間にも広がり、全国的に流行しました。この間、神道や仏教の要素も取り入れ、複合的な様相を持つようになりました。
 江戸時代には修験者が庚申信仰を説き、その指導で信徒集団(講中)が作られたほか、神道では「猿田彦大神」を主尊とする庚申信仰が、仏教では「青面金剛」を主尊とする庚申講を作り、夜を明かしました。江戸時代初期は熱心な信仰のもと勤行なども行われたようですが、時代を下るにつれ社交の場と変わり、相談事や噂話が主な内容となり、日常生活の気分転換の要素が強くなりました。
 こうした中、各地で庚申塔が建てられるようになり、特に寛政12年(1800)、萬延元年(1860)、大正9年(1920)の銘が多い傾向があります。いずれも庚申の年であり、記念として建てたことが伺えます。昭和55年(1980)の銘のものもあり、現在でも庚申講が存続している所もあります。

 庚申塔の形状は多様で、大きく文字塔と刻像塔に分かれます。文字塔の場合は写真(1)のように「庚申」、「庚申塔」、「青面金剛」、「猿田彦」などが刻まれます。刻像塔の場合は青面金剛が多く、写真(2)のように一面六臂(顔が一つで腕が六本)、足元では鬼を踏みつけ、さらにその下には三猿がいる場合もあります。また、全国に6例しかない宝篋印塔の形状をしたものがあり(写真(3))、市の指定文化財となっています。
 ふと見かけた際に、先人たちが夜通しにぎやかに過ごした姿に思いを馳せてはいかがでしょうか。

Vol-162 文化財防火デーと香取神宮

 お正月にはたくさんの初詣客で賑わう香取神宮は、古来より下総国の一宮として広く尊崇を集めてきた古社で、県内随一の歴史を誇ります。そのため、重要文化財の本殿や楼門、国宝の海獣葡萄鏡をはじめとして、社殿や宝物などの多くが文化財の指定を受けています。
 香取神宮では、こうした貴重な文化財を守るため、「文化財防火デー」に合わせて毎年1月下旬頃(昨年は1月24日)に防火訓練を実施しています。
 「文化財防火デー」とは、昭和24年(1949)1月26日、法隆寺(奈良県斑鳩町)金堂が炎上し壁画が焼損したことから、昭和30年に文化財保護委員会(現文化庁)と国家消防本部(現消防庁)が定めたもので、毎年1月26日を中心に、全国的に文化財防火運動が展開されます。

 香取神宮での防火訓練は、神宮職員をはじめ、地区の消防団、消防署が参加して、午前9時頃から約1時間にわたって行われます。負傷者の救護、文化財(美術工芸品に見立てた箱)の搬出なども行われますが、圧巻なのは放水訓練になります。社殿まわりに設置されている10基ほどの放水銃と消防隊員により一斉に放水される様子は壮観です。天候によっては放水による虹が見えることもあり、境内には多くの見物客が詰めかけます。
 同様に、県指定文化財の阿弥陀如来坐像を安置する善雄寺(一ノ分目)でも、檀家、消防団、消防署員などが参加しての防火訓練がこの時期に行われています。
 昨年のノートルダム寺院や首里城の火災は記憶に新しいところです。火災が発生しやすい時期でもありますので、ご家庭まわりの防災とともに、地域の大切な文化財についても、いま一度点検をお願いします。

Vol-163 2月3日は節分の日

 節分の豆まきは、柊の枝に鰯の頭を刺し戸口に立て「鬼は外、福は内」の掛け声に合わせ鬼打ち豆をまき、厄を払い福を呼び込む行事です。
 本来、節分とは季節が移り変わる立春・立夏・立秋・立冬の前日のことで、年に四回あります。旧暦では、立春を年の初めとしたので、その前日、つまり大晦日を節分として重要視するようになりました。古代中国の宮中では、大晦日に追儺(ついな)という邪を払う儀式がありました。この儀式が文武天皇(697~707年)の時代に伝わり、日本でも宮中の年中行事に取り入れられたといわれています。儀式は、方相氏という役の者が、矛や楯を持って内裏を巡り、鬼を外に追い出します。このとき、殿上人は桃の弓で葦の矢を鬼に射掛けました。時代が下ると、鬼を払う役の方相氏が、追われる役の鬼へと変化していったようです。
 鎌倉時代になると、宮中での追儺の儀式は衰えはじめ、江戸時代には行われなくなりました。その一方で、寺社や庶民の間に広まり、江戸時代には節分の行事となりました。

 旧暦の大晦日は、今の暦では2月3日に当たります。市内でも多くの寺社で節分会、節分祭が行われています。檀家や氏子が協力し合い、年中行事の一つとして、地域社会のつながりを守る力にもなっています。近くの寺社の節分会・節分祭へ参加してみると、地元についての新しい発見や再発見があるかもしれません。そして、夕暮れには家庭でも豆まきを。
 厄を払い福を呼び込み、令和2年が良い年となりますよう「鬼は外、福は内」。

赤れんがは語る

 佐原三菱館の保存修理工事が昨年から始まり、現在、煉瓦の壁に耐震補強のための鋼棒を挿し込む穴を開ける作業が終了しました。
 穴を開けるための工具を据え付けるために屋根の一部を解体したところ、積み上げられた一番上の煉瓦に刻印が見つかりました。

 れんがの刻印には、会社名や平仮名、片仮名、「☆」「○」といった記号やアルファベットなどを用いています。刻印は、煉瓦の長手面(積み重ねる面)に押されるため、完成された建物では、なかなか見つけることができません。
 慎重に調査を進めていくと、数か所の煉瓦から二種類の刻印が確認できました。一つめの刻印は、写真(1)のひし形にした井桁の中に片仮名の「サ」の字があるもの。二つめの刻印は、写真(2)の「〈」の下に「本」の字があるものです。「山本」と解釈できます

 これまで、三菱館の煉瓦はイギリスから輸入されたものとされてきましたが、これらの刻印から、日本国内で焼かれた煉瓦であることがわかりました。
 煉瓦の刻印も種類が多く、同じデザインの刻印を複数の煉瓦製造会社で使用しているため、製造場所を特定するにはいたっていません。しかし、化粧タイルに覆われた大正時代の赤れんがが、静かにその生い立ちを語りはじめました。

城山1号古墳の人物埴輪

 城山1号古墳の豪華な出土品は千葉県の有形文化財に指定され、香取市のみならず関東地方を代表する古墳として、このコーナーでも何度か紹介してきました。古墳の上には、円筒・人物・馬・犬・家などの埴輪が並んでいましたが、そのうち人物埴輪には、明らかに作りの異なる2種類が見られます。城山1号古墳の豪華な出土品は千葉県の有形文化財に指定され、香取市のみならず関東地方を代表する古墳として、このコーナーでも何度か紹介してきました。古墳の上には、円筒・人物・馬・犬・家などの埴輪が並んでいましたが、そのうち人物埴輪には、明らかに作りの異なる2種類が見られます。

 左の写真は高さ71.3センチメートルの男子半身像で、半円形の頭部に楕円形の装飾をつけた帯を巡らせ、左右のこめかみに扇形の板、その下に美豆良(みずら)と思われる髪と耳環(みみわ)があります。首には丸い粘土玉を貼り付けて首飾りを表現し、腰には大刀(たち)が付いています。この埴輪の大きな特徴は、色調が赤茶色で、両腕は小さく、両脚が省略されていることです。このような特徴をもつ埴輪は千葉県北部に分布し、下総型人物埴輪と呼ばれています。
 これに対し、写真右の埴輪は基台と両脚が残るだけですが、色調は淡い褐色で、足の甲まで忠実に表現されています。現存する高さは71.0センチメートルで、両脚の前面には脛当(すねあて)と思われる表現があり、三角形を連続させた文様を描いて、その中を赤く塗っています。膝から上は残っていませんが、残っている両脚の大きさから推定すると、高さ1.5m以上の武人の全身像と思われます。


城山1号墳出土の人物埴輪

 古墳時代の埴輪は、専門の工人集団がそれぞれの工房で製作していたことがわかっています。このような作風の違いは、作った人(工人集団)の違いと解釈でき、城山1号古墳を造った際、古墳に並べる埴輪を複数の工房から調達したのでしょう。
 埴輪は東日本大震災で破損しましたが、修復が終わったものから順次、市文化財保存館で展示しています。

又見古墳の災害復旧

 香取神宮より西へ約500mの位置に鎮座する又見神社の社殿横には、市指定史跡である又見古墳の石室が残されています。石室は筑波山周辺で採れる雲母片岩を板状に加工したものを組み合わせた横穴式石室です。現状では遺骸を安置する玄室部分の奥壁1枚、左右側壁が各2枚、玄門2枚、天井石2枚が残されています。この他に、玄室の傍らには板石が数枚残されていることから、玄室に通じる羨道が設けられていた可能性があります。

 この古墳の一番の特徴はコの字形にくり抜いた板石を組み合わせた玄門です。このような類例は千葉県の下総地域には無く、筑波山周辺にある岩谷古墳(石岡市)や佐都ヶ岩屋古墳(つくば市)など限られた古墳のみです。このように、使用する石材や石室の構造から筑波山周辺地域とのつながりを窺い知ることができます。
 このように、とても珍しい石室ですが、先の令和元年東日本台風(台風19号)による雨の影響で大きく傾いてしまいました。このため、所有者の香取神宮と市で協議した上で、玄室部分の修復作業を実施しました。その際に、遺物等は発見されませんでしたが、玄室の石を固定する裏込めと呼ばれる粘土を確認することができました。
 修復された又見古墳をこの機会に見学してみてはいかがでしょうか。

疫病退散を願う疱瘡神の石碑

 近頃は新型コロナウイルスの感染拡大が社会に大きな影響をもたらしていますが、かつて流行した疫病に関する石造物として「疱瘡神」の石祠があります。
 疱瘡とは天然痘のことを指し、古くより日本にも存在し、かつては一生に一度はかかる致死率の高い伝染病でした。
 疱瘡神は天然痘の脅威を神格化したもので、心安く鎮まってすみやかに去ってもらいたいと願いを込めて祀ったものと考えられます。

 現在のところ市内の神社境内などで26基が確認されていますが、宝永8年(1711)以降、各所で疱瘡神の祠が建立されていったことが伺えます。特に18世紀後半に造立されたものが多いようです。罹患した人に治療を施すともに、疱瘡神の石祠を建立してその快癒を祈っていたことでしょう。

 江戸時代後期頃の日本では、すでに種痘と呼ぶワクチン接種が試みられていましたが、その後、世界的に天然痘ワクチンの接種による予防方法の確立などにより、その発生数は減少し、ついには1980年5月にWHO(世界保健機関)が天然痘の世界根絶宣言をしました。
(注釈)広報掲載時に写真キャプションで八坂神社(府馬)と表記しましたが、正しくは八坂大神でした。訂正してお詫びします。

Vol-168 香取神宮の檜皮葺屋根

 市内には30棟を超える文化財建築がありますが、その屋根には様々な種類を見ることができます。
 一般的に瓦葺、茅葺あるいは銅板葺などが知られていますが、珍しいところで檜皮葺の屋根があります。檜の樹皮を利用したもので、油分を多く含むため雨による浸食に強く、古くから社殿など格式のある建築に使われてきました。全国の国宝・重要文化財等の建築の多くにこの檜皮葺が残されていますが、香取神宮の本殿や拝殿もその一つになります。

 薄い檜皮で優美な曲線を表現できる一方、植物系の素材のためやや耐久性に劣り、30年ほどの周期での葺き直しが適当とされています。神宮本殿は、近年では昭和52年、平成25年に葺き直しを行っています。
 その葺き方は、平葺箇所では、幅12~15センチ×長さ75センチのサイズに揃えた檜皮を、1.2センチずつずらして葺き重ね、竹釘で留めます。平葺用の竹釘は3.6センチの寸法で、職人はこの竹釘をたくさん口に含み、一本ずつ取り出しながらテンポ良く檜皮に打ち付けていきます。

 軒先を見ると、重ね幅が広く重厚感がありますが、これは軒積みといって特に厚く重ねて葺いたもので、屋根全体の厚みではありません。
 記録によれば、神宮本殿の屋根は慶長12年(1607)の造営までは檜皮葺でしたが、その後破損してこけら葺(板葺の一種)となり、最後の造営となった元禄13年(1700)の際も、こけら葺(栩葺とも)のまま造り替えられました。その後、昭和15年(1940)の大改修で檜皮葺に改められ現在に至っています。
 ご参拝の折には、少し足をとめて、この歴史ある独特な屋根を眺めてみてはいかがですか。

Vol-169 御城城跡

御城城跡は、西田部区に所在する中世の城館跡です。太平洋に注ぐ栗山川を望む台地にあり、古くから西田部の集落が広がっています。
 城跡には、単郭構造で郭・腰曲輪・露台・塚が保存されています。塚には、西田部区、西田部郷土史会によって昭和58年に「御城史」の碑が建立されました。

 碑文には、「御城史 嘉応年間(1170年ごろ)千葉氏郎党田部次郎師時がここに城を築くとするも里伝衰え確証することはできない。しかし田部郷内19戸が師時の配下であった。源平争乱後、源氏兄弟が争った時、義経に親しい片岡常春の海上郡佐貫城(現在の旭市)を頼朝麾下の千葉常胤が攻めた時、常春に属する師時は討ち死にをした。時に文治3(1187)年9月18日。貞応元(1222)年千葉一族が再びここに城を築いたと云う。後、北条氏の領有となり天正末期(天正年間は1573~1591年)北条氏と共に城は滅亡した。城跡に貞応の古碑があり、明治以降消失したが、大永元(1521)年に築かれた塚があり、里人はこれを姫塚と称し往時の領主の姫を葬むりし墳墓と伝える。城域は東西150間、南北120間と云う」といった内容が記されています。

 栗源町史にも「御城址」として記載があり、領主の娘を祀った姫宮神社の創建や田部氏の菩提寺である西光山延命院地福寺についての記述もみられます。しかし、師時が主筋である千葉常胤が攻めた片岡常春側であったとの記述はありません。いつか里伝が絶えてしまう前に碑文として地元に残したことは、大変意味があります。

 保存されている城の遺構は私有地のため、訪れる際は事前に問い合わせください。

Vol-170 歴史を語る火事の傷跡

 佐原三菱館を象徴する半球状のドーム屋根。修理のため、覆われていた銅板を取り外し、下地を丁寧に解体していくと、表面が焼け焦げた小屋組(ドーム屋根を支えている骨組み)が現れてきました。解体作業をさらに進めていくと、小屋組はすっかり焼け焦げ、葺かれていた銅板も、表面は不自然に歪み、内側は煤けていました。このことから、かつて三菱館が火事にあい、そして、火事にあった小屋組をそのまま残し、銅板なども再利用して修理を行っていたことが分かりました。
 焼け跡の観察から、火は最初にドームの北西隅から燃え始め、次第にドームの内側へと広がっていったようです。ドーム以外に激しく焼けている場所はなかったことから、火事はドームに集中したものであったと思われます。

 修理されていたため、創建当初の作り方を知ることができました。今回の保存修理も創建時の部材・工法を保存することを第一に考え、小屋組みは構造的な補強を行い、火事の記録と併せて残していくことにしました。銅板は再利用が難しいことから、別に保存して新しいもので葺き替える予定です。
 建物は自らの体にさまざまな傷跡を残して今を生きています。その傷跡を注意深く観察し、あえて残すことも、文化財を後世に伝える大切な作業の一つです。

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