アーカイブ香取遺産 Vol.001~010
更新日:2016年2月1日
Vol-001~010
- Vol-001 千数百年の人々の物語がここにある 下総国の一宮 香取神宮
- Vol-002 縄文時代からのルーツを探る手がかり 香取の貝塚
- Vol-003 江戸幕府が作った牧場 佐倉油田牧の野馬込跡
- Vol-004 古代の繁栄をひもとく記録 香取の古墳
- Vol-005 千年の歴史を見守ってきた巨樹 府馬の大クス
- Vol-006 古代のアトリエ跡か栗山川上流域 コジヤ遺跡の瓦当笵
- Vol-007 国の重要無形民俗文化財 佐原の山車行事
- Vol-008 順天堂医院の開設者 佐藤尚中
- Vol-009 中世の供養塔婆 板碑
- Vol-010 歴史の道しるべ 道路元標
Vol-001 千数百年の人々の物語がここにある 下総国の一宮 香取神宮
香取神宮は、古来より下総国の一宮として、広く人々の崇敬を集めてきました。
主祭神である経律主神は、鹿島神宮の主祭神の武甕槌神とともに武徳の祖神といわれます。
香取神宮が鎮座する利根川南岸の丘陵は「亀甲山」と呼ばれています。亀の甲羅に似ていることからその名があるとも言われます。
現在その全体が「香取神宮の森」として県の天然記念物に指定されています。
以前は楼門から西方へ続く道が表参道でした。その起点は宮にあり、ここには現在も木製の浜鳥居が建てられています。
12年に一度、午年に行われる式年神幸祭では、ここで神輿を御座船に乗せて利根川をさかのぼり、佐原の街中などを巡行します。
香取神宮の創始
社伝によれば創始は神武天皇十八年と言われていますが、文献上では8世紀中頃に成立したと推定される「常陸国風土記」に香取神宮から分祀した社の記載があることから、これ以前に香取神宮は存在し、周辺地域に勢力を持っていたと考えられています。
香取・鹿島の両神宮は、大和朝廷の東国支配の拠点として祀られた社を創始とする説があります。これは古代においては香取と鹿島の間には、「香取の海」とも称される内海が広がっていて、外海にもつながる軍事的な要衝として見なされたことから、両社はその掌握のため置かれたとされています。
また、「海夫注文」という史料によれば、この内海にはおみがわの津・つのみやの津・さわらの津など多くの津が散在していました。そして津には「海夫」と呼ばれる漁民が存在し、香取神宮に魚介類を神饌として貢納し、神宮を航海や操船の神として信仰していたとされます。
天正18年(1590)に徳川家康が関東に入ると、翌年、朱印地として一〇〇〇石が寄進されました。
その後、江戸期を通じて社領に変化はありませんが、明治期になると旧幕府封地は明治政府に返上されることになったため、香取神宮も明治3年(1870)12月に社領を政府に上地しました。翌年5月には官幣大社の一つに列せられました。
貴重な文化財が多数
古くから正殿の遷宮造替が制度化されており、元禄13年(1700)には徳川幕府により大規模な造営が行われました。この際に建てられた本殿・楼門は、重要文化財に指定されています。
このほかにも香取神宮には多くの貴重な文化財が指定されています。特に国宝の海獣葡萄鏡は、8世紀に中国からもたらされたものとされ、正倉院御物や愛媛県の大山祇神社の神鏡と合わせ「日本三銘鏡」と称されています。千葉県の工芸品で唯一の国宝です。
(広報かとり 平成18年4月15号(PDF:777KB)掲載)
Vol-002 縄文時代からのルーツを探る手がかり 香取の貝塚
千葉県は世界的に見ても貝塚の集中が顕著な地域で、古くは明治時代から数多くの調査が実施されてきました。
香取市を含む利根川下流域は、縄文時代のある時期、現在の大小河川域に海水が流入し、大規模な貝塚群が台地上に形成されました。これらの中でも標識遺跡となった阿玉台貝塚(国指定)・良文貝塚(国指定)・下小野貝塚(県指定)などは、全国的にもよく知られています。
縄文時代は、1万2000年前から2300年前の約1万年の期間を指しますが、長期間におよぶことから考古学上は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分されています。
数多くの貝塚群
縄文時代の貝塚形成の主な要因は、地球の温暖化による海水面上昇がもたらした結果であると推察され、一般的には「縄文海進」と呼ばれています。これが最も進行したのが城ノ台貝塚・鴇崎貝塚(市指定)が営まれた縄文時代早期、これに次ぐのは縄文時代中期です。
この縄文時代中期、黒部川を取り巻く洪積世台地には、ハマグリを主体にアカニシ・サルボウ・シオフキ・マガキなどの鹹水産貝種で構成される阿玉台・良文・木内明神・白井大宮台・向油田(市指定)の諸貝塚が作られて、漁撈活動が最も活発だったことを今に伝えています。
これ以降の縄文時代後期から晩期にかけては、貝塚数は減少し、次の弥生時代にはほとんど営まれなくなります。このことから推察すると、この時期に海水面が徐々に後退し、現在と同じような沖積地が開けた環境に変化したためと思われます。
縄文人を知る手がかり
貝塚は、縄文時代の人がどのような食生活や慣習を持っていたかを知る上で重要な遺跡です。通常の遺跡の場合、関東ローム層が酸性土壌であるため土器や石器以外の物を残しませんが、貝塚は貝殻のカルシウム分が上層から補給されるため、人骨・獣骨・魚骨などが良好な状態で発見されることが多いのです。
城ノ台貝塚の調査では、埋葬された人骨やイノシシ・ニホンジカ・シカ・イヌ・ニホンザルなどの獣骨、クロダイ・マダイ・ スズキ・サメなどの魚骨、さらに骨で作った針・釣り針・ヤスなどが発掘されています。
この香取地域の貝塚が物語るものは、後の奈良時代「香取の海」と呼ばれた広大な湖沼で活躍したであろう、また中世には「海夫」と呼称された漁民たちの原形となったのは、縄文時代に貝塚を作り続けた人々の系譜からつながってきたのではないのでしょうか。
(広報かとり 平成18年5月15号(PDF:748KB)掲載)
Vol-003 江戸幕府が作った牧場 佐倉油田牧の野馬込跡
市には、国・県・市指定文化財が178件あります。このうち分類として最も多いのは史跡になります。前回紹介した貝塚もこの史跡に分類されます。
市内の史跡は、この貝塚のほかに伊能忠敬旧宅(国指定)、香取神道流始祖飯篠長威斎墓・久保木竹窓遺跡・佐藤尚中生誕地・初代松本幸四郎墓(県指定)などがあります。ほかにも古墳や城跡、塚、伝承地、墓所などがあり、合計37件が史跡に指定されています。
今回紹介する、県指定史跡「佐倉油田牧の野馬込跡」(九美上字駒込、平成5年2月26日指定)もその一つです。
公的な牧場「牧」
牧とは、江戸時代に野馬の生産を目的として幕府により整理、開発された公的な牧場のことです。下総地域に多く設置され、西部に小金五牧、東部に佐倉七牧、合わせて12の牧が置かれました。
油田牧は佐倉七牧の一つで、市内九美上付近を中心とした一帯に広がっていました。野馬込跡は、この油田牧内に設けられた構築物の跡になります。
牧の周辺には野馬を囲い込むために土手が築かれていました。高さは3~4メートルほどで、底部の両側には堀も設けられていたようです。現在は畑地が広がっていますが、九美上、大根、下小野、岩部、高萩などには部分的に土手が残されていて、当時の風景が想像できます。
周辺の村々との境には木戸が設けられ、木戸番が寝泊りして野馬の番に当たっていました。今でも木戸脇、木戸口、木戸前、野馬木戸といった地名が残っています。隣接する村々は野付村と言われ、牧に関係する御用、例えば土手の修復や堀浚い、馬の水飲場の掃除、野馬追い込みの人足の負担などが課せられていました。本矢作・福田・大根・返田・下小野・伊地山・高萩・岩部・助沢の9村が油田牧の野付村で、さらに周辺の村々50村ほどが霞郷として補助的な負担を課せられていました。
最大行事 野馬捕り
牧での最大の行事に野馬捕りがあります。これは毎年夏から秋にかけて成長した馬を捕獲するもので、近在から多くの見物客が集まったようです。現地役人である牧士と勢子人足により行い、良馬は幕府へ送られます。そのほかは農耕馬や荷を運ぶ馬として民間へ払い下げられました。この際に野馬を追い込んで選別する施設が野馬込(捕込、込とも呼ばれる)です。一辺が60メートルほど、高さが3メートルほどの土塁で囲まれた区域で、選別のために内部が3部屋に区画されています。
油田牧の野馬込跡は、木立や雑草が生い茂り外からはその様子を覗うことはできませんが、内部に入るとこの形状が良好な状態で残されていることがわかります(私有地のため無断で立ち入りはできません)。
県内には、ほかにも牧の遺跡がありますが、旧態をこれほど良好に残しているものは少なく、たいへん貴重な文化財といえます。
(広報かとり 平成18年6月15号(PDF:784KB)掲載)
Vol-004 古代の繁栄をひもとく記録 香取の古墳
「古墳時代」という名称は、古代の高く盛り上げられた豪族のお墓から名付けられたものです。古墳時代は3世紀末から4世紀初頭に開始され、7世紀後半には終わりを告げます。時期の区分には諸説ありますが、ここでは4世紀代を前期、5世紀代を中期、6・7世紀を後期とします。
時代ごとの特徴
4世紀代の前期古墳は数量的にも少なく、阿玉台北遺跡で発掘された007号 (全長約25mの前方後方墳)・山之辺手ひろがり2号墳(一辺8mの方墳)・大戸天神山古墳(全長約62mの前方後円墳)などが知られています。
5世紀代になるとそれぞれの地域で特徴的な古墳が出現します。利根川筋の低地部では全長約123mを誇り、大王や大豪族級と目される有力古墳に多用されたといわれる長持形石棺を持つ三ノ分目大塚山古墳(前方後円墳)、黒部川上流域では豊富な武器・武具の出土で知られる布野台3号墳(全長約28mの前方後円墳)、大須賀川流域では石枕や立花の出土で知られる山之辺手ひろがり3号墳(円墳)・大戸宮作古墳(長方墳)などがあります。
6世紀代になると古墳数は飛躍的に増大し、大須賀川流域では、禅昌寺山古墳・大法寺古墳、小野川流域では浅間神社古墳、黒部川流域では城山1号墳など60~70mクラスの前方後円墳を主墳として、古墳群が営まれるようになります。
7世紀代に入るとこの地域では、前方後円墳は造営されなくなり、変わって仏教の導入に影響されたといわれる方墳が営まれるようになり、古墳が持っていた豪族のお墓という概念も変質してきます。さらに646年の「大化の薄葬令」により、古墳そのものも急激に造られなくなり、やがて木内廃寺のような瓦葺の本格的寺院が7世紀末には建立され、古墳はその役割を終えます。
市域古墳の特徴
香取市域では、約400年で500基ほどの古墳が造営されましたが、特徴的なこととしては、5世紀前半から6世紀前半にかけて、遺骸の埋葬時に石枕と立花を使用する葬送儀礼の盛行があります。
また、埴輪を樹立する葬送儀礼は5世紀中ごろの三ノ分目大塚山古墳が最古となり、6世紀後半まで続きます。
『国造本紀』によれば、香取市を含む千葉県北東部は「下海上国造」が治めていたと記されており、6世紀後半に国造が存在していたとすれば、本格的な横穴式石室を持ち、三角縁三神五獣鏡をはじめ、豊富な副葬品で知られる城山1号墳がふさわしいものと思われます。
(広報かとり 平成18年7月15号(PDF:808KB)掲載)
Vol-005 千年の歴史を見守ってきた巨樹 府馬の大クス
府馬の大クスは、府馬字山ノ堆に鎮座する宇賀神社の境内にあり、古くから、「府馬の大楠」「山ノ堆の大楠」と呼ばれ、当地域髄一の巨木として親しまれてきました。場所は標高約40mの台地上で、眼下には利根川や黒部川によって形成された広大な田園地帯、遠くには筑波の山々を望むことができます。
大クスはタブノキ
大正15年、大クスは国の天然記念物に指定されました。指定された時は、クスノキとして告示されましたが、昭和44年の調査でクスノキではなく、タブノキであることが明らかとなりました。当時は、地元でもイヌグスと呼ばれていたことから、種目を間違えて告示されたと考えられます。今ではこれも、大クスにまつわる逸話の一つとなっています。
タブノキは、クスノキ科に属し、海に近い温暖な地に多く分布する常緑樹で、材はやや硬く、家具や船材などに古くから使われてきました。
このタブノキは、樹高約16m、根周約27.5m、目通り幹周約15mで、樹齢は明らかではありませんが、1000年とも1500年とも言われ、根は隆起して、幹は起伏に富み、神秘的な形状を呈しています。
大クスと子グスの根はひとつ
北側約7m離れたところに「子グス」と呼ばれるタブノキがありますが、もともとは、大クスとつながっていました。これは、大クスの枝の一つが地上に垂れて根を張り、成長したものです。かつては枝伝いに渡って行けたそうですが、明治末年ころに枝は枯れてしまいました。
枝がつながっていたころの様子は、江戸時代後期に刊行された『下総名勝図絵』でうかがえます。絵には、大クスの根元にいくつかの祠が置かれている様子が描かれており、今でも根元には正徳元年(1711)銘の石祠が深くくいこんでいます。
北西側に隣接する公園の一部は、平成16年に発掘調査が行われ、弥生時代から奈良時代の竪穴住居跡や、中世の府馬城に関わると考えられる建物の柱穴が見つかり、約1800年前から人々が生活を営んでいたことが明らかになりました。大クスは、この地にしっかりと根を張り、時代の移り変わりを見つめてきた生き証人と言えるでしょう。
しかし、ここ数十年の間に、枝枯れや幹の腐朽が目立つようになり、その都度、支柱の設置や腐朽部の補修などが行われてきました。平成15年度から本格的な樹勢回復工事が実施され、現在は、地元の人たちによって大切に守られています。
(広報かとり 平成18年8月15号(PDF:685KB)掲載)
Vol-006 古代のアトリエ跡か栗山川上流域 コジヤ遺跡の瓦当笵
市内の伊地山・助沢・高萩・山倉地先などを源とし、太平洋に注ぐ栗山川。この川を望む台地上には、各時代の遺跡が多く存在し、また、低地に立地する栗山川流域遺跡群は縄文時代の丸木舟を出土することで知られています。
今回はこのさらに上流、旧栗源町岩部地区から出土した市指定文化財「瓦当笵」(平成13年12月18日指定)を紹介します。
希少な「瓦当笵」
昭和60年10月、岩部字コジヤ地先の畑(県道成田小見川鹿島港線と東総有料道路交差付近)から、耕作中に偶然、陶製の「瓦当笵」が発見されました。
瓦当笵とは、瓦屋根の軒先を飾る軒丸瓦や軒平瓦などの瓦当面をつくるのに使用する「型」のことで、瓦つくりの道具の一つです。日本では、奈良県の飛鳥寺など6世紀末ごろから瓦がつくられますが、これまで瓦当笵は一例も発見されていませんでした。それは、多くの瓦当笵が木製品であるために、長い年月の間に土中で腐ってしまい残らなかったものと思われます。コジヤ遺跡から出土したものは、陶製であったために、今日まで腐らずに残ったのです。いずれにしても、陶製瓦当笵は極めてまれな存在であり、現在のところ、全国で2例だけです。
奈良時代の瓦当笵
コジヤ遺跡から出土したのは、軒丸瓦の瓦当笵です。直径は12・2cm、高さは5・0cm。窖(トンネル)窯で還元焔焼成されているために、堅く焼き締まり、青灰色をしています。表面を平滑に仕上げ、中央にハスの花を図案化した「有軸素弁八葉蓮華紋」を陰刻しています。紋様の特徴から奈良時代のものと考えられていますが、もう少し時代を古くする意見もあります。残念ながら現在のところ、この瓦当笵からつくられた軒丸瓦は一例も発見されていません。
コジヤ遺跡は瓦工房跡か
日本の古代において、瓦は一般庶民の家屋に使用されることはなく、もっぱら寺院や官衙(役所)など特別な建物に利用されていました。近隣の岩部大関遺跡や岩部遺跡からも古瓦が出土していますが、瓦を葺くような建物跡は発見されていません。
コジヤ遺跡の重要なところは瓦つくりの道具である瓦当笵が出土したということです。道具が発見されたということは、この近辺に瓦工房があった可能性も十分に考えられます。近年の調査で、岩部地区より、もう少し上流の福田地区で7世紀前半ごろから須恵器生産が開始されたことが分かっています。窯業技術に精通した工人集団がこの周辺に居住していたのです。
将来、コジヤ遺跡の近くで、この瓦当笵でつくった軒丸瓦を焼いた瓦窯跡が発見されるかも知れません。
(広報かとり 平成18年9月15号(PDF:771KB)掲載)
Vol-007 国の重要無形民俗文化財 佐原の山車行事
市内の伝統的な祭りのうち最も大きな祭りは、夏と秋に行われる佐原の大祭です。
佐原の街は小野川を境に、東岸10町内を本宿、西岸15町内を新宿と総称し、本宿では7月中旬に八坂神社の祇園祭、新宿では10月中旬に諏訪神社の大祭が行われます。
この両祭礼の附祭として行われているのが「佐原の山車行事」です。各町内が意匠を凝らした大きな山車を曳き廻す行事は、平成16年2月に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
山車の構造
山車の本体は、最上部の露台とその下の囃子台の二層構造になっています。土台部には、ハンマと呼ぶ寄木造りの4つの車輪が付いています。山車により異なりますが、本体の高さは4m程になります。囃子台には下座連と呼ばれる囃子方が乗り込み、山車の運行に合わせて佐原囃子を時に華やかに、時には優雅に演奏します。
露台の上には大きな飾り物が据えられています。鯉や鷹の藁細工もありますが、多くは神話や歴史上の人物をモチーフにした大人形で、山車全体で9m近くにもなります。この大きさと町内特有の飾り物が山車の最大の特徴です。
両祭礼に関する起源や変遷などは、不明の部分が多いのですが、少なくとも江戸時代の中頃には現在の山車行事につながる練り物の祭りが行われていました。 その後、徐々に発展する過程で山車が登場し、その上に職人の手による大人形が飾られるようになったのは江戸時代末期ころと考えられます。
水郷佐原山車会館には、かつて旧関戸町の飾り物であった「猿田彦」人形が展示されています。頭部(全高93・4センチメートル)と両手部で、製作年代はわかっていません。昭和10年(1935)に旧関戸町が東西に分かれた際に、諏訪神社へ奉納され保管されてきましたが、山車行事の歴史的変遷を表すものとして、昨年度、市の有形民俗文化財に指定されました。
大人形の登場
古文書によると、それまで飾り物はこれと決まったものではなかったのを、享保18年(1733)に、新宿の有力家であった伊能権之丞家から夜着を借り受けて、猿田彦(大天狗)の飾り物を出したところ、これが大当たりとなり、それ以来関戸は飾り物を猿田彦にしたとされています。
元文4年(1739)ころには、猿田彦の御頭が出来たと伝えられており、この時から猿田彦は現在の山車人形に近い大きさに変化していたとも考えられます。
また新宿の祭礼では、山車行列が神幸列を先導するスタイルをとっており、関戸町が触れ頭として行列の先頭に立つのが決まりでした。最前列に立つ大きな猿田彦人形は、さぞかし見物の人々を圧倒したことでしょう。往時の猿田彦は格別に大きなもので、かつては潮来からもその姿が遠望できたという話も伝わっています。
市指定の猿田彦は長年の使用と劣化で、各所に損傷が見られます。また、ここかしこにモルタルや鎹などで補修された跡も見受けられます。一見すると痛ましい姿に思われますが、それこそが山車行事の歴史を物語るものといえます。
(広報かとり 平成18年10月15号(PDF:782KB)掲載)
Vol-008 順天堂医院の開設者 佐藤尚中
佐藤尚中は文政10年(1827)に小見川藩医山口甫僊の次子として内浜に生れました。山口家は代々内田藩医を務め、父甫僊は潮来の北城家から養子に入った人で、母エンは新浜の田村家から嫁ぎました。尚中は幼名を竜太郎、成人後は舜海と名のりました。
少年時代から学問に優れ、11歳で上京して寺門静軒に漢学を学び、鳥羽藩医安藤文沢に医学を学びました。天保13年(1842)、16歳の時に文沢の薦めで、名医として評判の高かった佐藤泰然の和田塾に入門し、蘭方医学を学びました。
翌年、佐藤泰然は老中堀田正睦の招きで佐倉に移り、西洋医学を教授する順天堂を開きます。舜海は順天堂で頭角を現しましたが、嘉永2年、22歳の時に母、1年後に父を亡くします。家督を継ぐべき兄、甫仁は病弱なため、小見川藩は舜海を後継者とする意向を示し、舜海は生家と医学修業と二者択一を迫られ悩みます。舜海は弟、星海の成人を待って山口家の相続者とします。
佐藤泰然は舜海(このころに尚中と改名)の卓越した能力を認めて嘉永6年(1853)に養子縁組をして後継者と定めます。この時尚中は27歳で、すでに妻サダを迎えていました。
長崎で西洋医学を学ぶ
万延元年(1860)に西洋医学を学ぶため長崎へ向かい、約1年間にわたって医学の学習に励みます。指導にあたっていたオランダ軍医ポンペは「日本の未熟な外科医の中に、尚中のような優れた医師がいることは例外であり、驚異である」と賞賛しています。
明治2年(1869)、尚中は新政府から出府命令を受け、ドイツ医学を導入するために大学東校(後の東京大学医学部)の主宰者となり、翌年には大典医に任ぜられて明治天皇の侍医となりました。
明治4年には、大学大丞兼大博士大典医に任命されますが、いくつかの理由があり明治5年にその職を辞します。
順天堂医院開院
明治6年、念願だった民間人のための順天堂医院を下谷区練塀 (台東区)に創設しました。ここは患者が殺到し手狭となったため、翌年湯島(文京区)に土地3千坪を求めて新病院を建設しました。これが現在の順天堂大学本郷・御茶ノ水キャンパスの始まりです。
尚中はこのころの奔走と資金の借入など心労が重なり、肺結核を発病し、7年後の明治15年大喀血をして死亡、享年56歳でした。遺骨は谷中墓地に葬られました。
谷中墓地の入り口に、尚中の1周忌に建立された高さ6mの顕彰碑があります。これは全国の門弟350余名の醵金によるものです。そして地元内浜の出生地は山口家から寄附され、郷土の医聖尚中の偉業を後世に残すべく、昭和11年に香取郡医師会により誕生地記念碑が建てられ「千葉県指定史跡佐藤尚中誕生地」内浜公園として地元の人々の憩いの場となっています。
(広報かとり 平成18年11月15号(PDF:778KB)掲載)
Vol-009 中世の供養塔婆 板碑
鎌倉時代以降、仏教や民間信仰の普及により、さまざまな石造物が全国各地でさかんに造立され、現在も路傍や墓地などに数多く残っています。今回は、これら石造物のうち、供養塔婆の代表と言える板碑を紹介します。
板碑は板石塔婆とも呼ばれ、鎌倉時代から室町時代にかけて盛んに造立されました。通常、板状の石材を使用し、頭部を三角形にして二条の線を入れ、その下に天蓋・主尊・蓮台・三具足(仏前に供える香炉・花瓶・燭台)とともに、偈頌(経典などにある詩文で、教理を述べたり、仏を讃えたりしたもの)・願文・年号・造立者名などが刻まれています。主尊は、仏を梵字で表したもの(種子)が多く、仏の画像を刻んだものも見られます。
また、板碑は、東北地方から九州まで広く分布し、その数は、関東地方だけで五万基、全国では十万基におよぶとされ、各地域で産出される石材の特性や信仰の差などによって、地方色豊かな板碑が造られました。
関東では、緑泥片岩を使用した武蔵型板碑、千葉県下の下総地方には粘板岩や雲母片岩を使用した下総型板碑、神奈川県には安山岩を使用した相模型板碑などが見られます。
最古の下総型板碑
香取市は、下総型板碑の分布の中心にあたり、数百基から、千基近くの板碑が分布していると考えられます。現在確認されている最古の下総型板碑は、谷中地区にある正嘉2年(1258)銘のもので、鎌倉時代中期にあたります。
上の写真は、上小堀地区の長泉院墓地で発見されたもので、初期の下総型板碑の代表例です。高さ240cm、幅58cmで、頭部は三角形に整形され、その下に二条線があり、天蓋・主尊種子・蓮台が刻まれています。主尊種子はバク(釈迦如来)です。下半部には、般若波羅密多理趣経の偈頌や「右志者為過去主君道阿弥陀仏御聖霊成仏得道也」という願文、「正元々年八月廿四日」の紀年銘、「施主定阿弥陀仏」という造立者名が見えます。主君である道阿弥陀仏の供養のため、正元元年(1259)に定阿弥陀仏なる人物が造立したものであることがわかります。この「道阿弥陀仏」は、木内領主・木内胤朝の戒名「道阿了称」であろうと考えられています。
鎌倉時代後期から室町時代には、板碑の造立数が爆発的に増え、月待や庚申といった民間信仰による板碑も建てられるようになります。やがて、戦国時代に入ると、板碑の造立は下火となり、近世以降はほとんど造られなくなります。
板碑の造立は、仏教、特に浄土信仰の浸透と深く関わっており、当時の人々の宗教観を反映しているといえます。また、そこに刻まれた銘文は、文字資料の少ない中世という時代を知るための貴重な手がかりとなります。
(広報かとり 平成18年12月15号(PDF:822KB)掲載)
Vol-010 歴史の道しるべ 道路元標
日本の道路の起点が東京日本橋にあることは知られていますが、これとつながるように、かつて全国の市町村に道路元標という石柱が設置されていました。
道路元標とは、大正8年(1919)に制定された旧道路法および施行令により設置が義務付けられた道路の起終点を示す石造物です。施行令には「道路元標は各市町村に一箇を置く」とあります。府県や市町村間の主要道路の距離を表す際に、その基点の役割を果たしていたようです。
市内17カ所に設置
大正8年当時、香取市域には、佐原・香取・小見川の3町と、香西・東大戸・津宮・大倉・瑞穂・新島・豊浦・神里・森山・良文・府馬・八都・山倉・栗源の14村があったので、道路元標は市域の17カ所に設置されたことになります。
県内の設置場所は、大正8年11月14日および同9年1月9日の千葉県告示で定められています。
現行の道路法(昭和27年制定)では特別の設置義務もないため、移設または撤去されたものもあります。
告示に記された地番を手掛りに、市内の道路元標を調べたところ、現在11基の所在が確認できました。多くは主要道路上の、交差点や公的な施設の入口などにあります。
佐原町は香取街道と横宿の交差点、大倉村は大倉小学校東側の国道沿いの信号脇、豊浦村は小見川北小学校前の国道沿いの信号脇、神里村は神里郵便局東側の交差点、八都村は八都郵便局前の交差点、山倉村は山倉保育園近くの信号脇に残されています。
津宮村も国道沿いにありますが、少し見つけ難く、津宮郵便局から100m程西の路地に隠れるようにして建っています。また香西村も県道沿いになりますが、切手神社北側の児童公園内にあります。
栗源村のものは、元々県道沿いの旧役場入口付近にあったようですが、昭和61年の新庁舎(現栗源区事務所)建設後、平成元年に敷地内に移されました。
神社の前に設置されたものもあります。香取町では、香取神宮の旧参道から境内地に入る石段脇にあります。また東大戸村も元々の設置場所は大戸神社付近であったようですが、現在では国道沿い大戸駅入口信号脇に移されています。
形状・様式も定められています。大正11年内務省令には「道路元標には石材その他の耐久性材料を使用すへし」、また「道路元標は別記様式に依るへし」とあり、簡易な図が付されています。この図によれば、高さ60センチメートル、縦横25センチメートル角の石柱で、頭頂部にやや丸みを持たせ、正面には「何々市町村道路元標」と記すよう規定されています。市内に残るものはこの図とほぼ同じ規格で、石材は御影石が使われています。
石造物としての道路元標は画一的なものであり、設置者や年代なども刻まれていないため、あまり面白味のあるものではありません。しかし、その設置場所には地域的な特色がよく表れています。人の往来が盛んな道筋、役場や郵便局などの公的施設近く、あるいは宗教施設の入口付近などさまざまです。歴史的に見れば、その場所が地域にとっては中心的な場所であった、ということになるのではないでしょうか。
※設置場所は交通量の多い場所なので、確認する場合は充分注意してください
(広報かとり 平成19年1月15号(PDF:1,153KB)掲載)
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