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アーカイブ香取遺産 Vol.131~140

更新日:2018年5月21日

Vol-131~140

Vol-131 鴇崎城跡と星宮神社 主郭跡に鎮座する妙見信仰の社

 鴇崎城跡は、佐原地区鴇崎に残る中世の城跡です。利根川に注ぐ大須賀川を望む台地に築かれました。

 城跡は南北約五二〇m、東西約三五〇mの範囲に、四つの郭があります。南側の先端部分が主郭(第1郭)です。その北側に第2郭・第3郭が続き、第3郭の東側に第4郭があります。

 主郭は、三方に腰郭が巡り、第2郭との間には二重の空堀が切られ、土塁が築かれています。第2郭から第4郭も、それぞれ空堀で区画されています。

 この地域は、中世には大戸荘に含まれ国分氏の領地であったことがわかっていますが、城跡に関する伝承などは残されていません。そのため、築城年代などは不明です。しかし、有力な在地豪族であり千葉五党に数えられる国分氏あるいは大須賀氏による城跡であると考えてよいでしょう。

 ここで、城跡の変遷を知る手がかりとして、小字名をみてみましょう。主郭には「タテ」、第3郭には「新タテ」の小字名が残っています。もともとは、主郭のみの単郭構造の城であったものが、十六世紀中頃以降に複郭構造の城に発展したものと考えられています。

 現在の城跡は、第3郭を除き良好な状態で保存されています。主郭跡には畑が広がり、その一角に、地元で妙見様と呼ばれ親しまれている星宮神社が鎮座しています。境内は旧西坂神社の境内地で、今より約二〇〇年前に末社を本宮として奉祀したと伝えられています。祭神は天之御中主神で、明治四三年に新タテ、つまり第3郭跡地から天神様である菅原道真公を招き合祀し、今日に至っています。

 現在の社殿は、平成3年11月2日に氏子諸氏の寄進により改築されたものです。その構造は、向拝がつく一間社流れ造りで、屋根は銅板葺きです。向拝には龍、蟇股には九曜星と牡丹が彫刻されています。

 妙見様は、千葉氏が守護神として仰いでいた神です。その妙見信仰の社が、今も城の主郭跡に鎮座し、地元の人々から崇敬を集めていることに、何か感慨深いものを感じます。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成29年6月号(PDF:295KB)

Vol-132 楫取魚彦の墓 江戸時代後期の国学者・歌人

 牧野にある観福寺の墓地には、伊能忠敬や伊能穎則の墓と共に、楫取魚彦の墓があります。

 楫取魚彦は、享保8年(1723)3月2日、佐原新橋本に生れました。本姓は伊能。江戸に出て後、生地の香取郡にちなんで楫取と名のりました。通称を茂左衛門といい幼名松之助、のちに景良から魚彦と改めています。

 6歳の時に、父景栄を亡くし、母に養育されていましたが、幼少から利発で読書と執筆を好んでいたといわれています。俳諧と絵画を建部綾足に学び、絵画では特に鯉と梅の図を好んで描いたことから「鯉の魚彦」といわれていました。

 明和2年(1765)42歳の時、江戸に出て国学者の賀茂真淵に国学と和歌を学びました。とくに万葉集を尊び、古典の研究から歴史的な正しい仮名づかいに関する研究『古言梯』を刊行しています。また、加藤美樹、加藤千蔭、村田春海とともに「県門の四天王」といわれ、門流を代表する歌人でした。 

 魚彦の歌は、師真淵が主張した万葉調を実践したもので、師以上に万葉風であると評価されています。真淵亡き後、魚彦のもとには200人を数える門人が集まったといわれています。

 佐原区の八坂神社境内には、「入日さす豊旗雲は わがこふる よしのの山や 越て来つらむ」の歌碑があります。この歌は、明和6年(1769)、47歳の時、夫人稚木と大和へ旅した折のもので、壮麗な自然を生き生きと詠んでいます。

 魚彦は、天明2年(1782)3月23日、60歳で亡くなりました。墓は昭和45年5月27日に市文化財に指定されています。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成29年7月号(PDF:316KB)

Vol-133 木内明神貝塚 縄文時代中期の大型貝塚

 木内明神貝塚は、木内地区にある木内大神周辺の台地斜面に形成された、縄文時代中期(4~5千年前)を中心とする貝塚です。明治23年に学会に紹介されて以降、多くの研究者がこの地を訪れ、小規模な発掘調査を行いましたが、正確な記録が残っていないため、どの地点を調査したのかはわかっていません。

 本貝塚の本格的な発掘調査が実施されたのは昭和33年です。当時、利根川下流域の貝塚を精力的に調査していた早稲田大学の西村正衛教授により、9日間の調査が行われました。その結果、貝層の厚さは最大2mで、調査面積は狭かったものの、一万点以上に及ぶ縄文土器片をはじめ、土偶、石斧などの石器、ヤスや耳飾りなどの骨角器、貝輪(貝製の腕輪)など、多数の遺物が出土しました。

 また、貝塚周辺の測量も行われ、台地平坦部を取り囲む斜面に4か所の貝層が馬蹄形に形成され、その範囲は東西約130m・南北約120mであることがわかりました。おそらくは、縄文人は台地平坦部に居住し、その周りの斜面に貝殻を捨てたのでしょう。

 縄文時代の海岸線は現在より高く、現在の利根川付近に広い内海があったことは良く知られています。出土した貝はアカニシ・ハマグリ・シオフキ、魚骨はクロダイ・スズキが多く、イノシシやシカなどの動物骨や鳥の骨も見られます。このことから、近くの内海で魚や貝を捕り、山野で動物や鳥を捕獲していたと推測できます。

 小見川地区の黒部川を取り囲む台地上には、本貝塚の他に、良文貝塚・阿玉台貝塚・白井大宮台貝塚・向油田貝塚・内野貝塚など、範囲が100mを超える大型貝塚が多く、県内有数の大型貝塚密集地域となっています。これらの貝塚は、台地平坦部を取り囲む斜面に貝層が形成されるものが多いのですが、同じく貝塚密集地域として知られている東京湾沿岸地域の大型貝塚は、台地上平坦面に土堤状に貝層が形成されるものが主体です。

 何故このような違いがあるのかはわかっていませんが、本地域の貝塚を特徴づける要素であることは間違いなさそうです。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成29年8月号(PDF:312KB)

Vol-134 下小野塚群 発掘された中近世の塚

 今から30年前、市道の拡幅工事により2基の塚が発掘調査されました。

 この塚は、佐原の市街地から東南へ約5.6キロメートルの台地上、下小野字中宿地先にありました。初めは2基の古墳と思われていましたが、発掘調査が進むにつれ、方形の周溝を巡らせた塚であることが判明しました。

 2基の塚は「ひさご塚」と「丸塚」と呼ばれていたもので、ひさご塚は一辺11.6m、墳丘の高さは1.25m、丸塚は東西14.5m、南北11.5m、墳丘の高さは1.9mほどの規模でした。

 塚に伴う遺物としては、ひさご塚からは宋銭の「元符通寳」1枚、丸塚からは明銭の「永楽通寳」1枚が出土したのみでした。埋葬施設を伴わないことから、中世から近世にかけて築造された信仰上の塚と考えらます。

 現在も、下小野地先には、墳丘を持つ遺構が多く残されています。千葉県の埋蔵文化財分布地図によると、字遠原に所在する「遠原古墳」、字新林に所在する「下小野新林古墳」、字松山に所在する「下小野松山古墳」、字一本松に所在する「下小野助塚古墳」、その他にも個々の名前はついていませんが、これらを包括して「下小野塚群」として分布地図に掲載されています。

 下小野の有志の方々によって刊行された「下小野郷土史」によると、遠原古墳付近の道路沿いには「八ツ塚」といわれ、数多くの塚が並んでいたと紹介しています。このことと、ひさご塚・丸塚の調査結果を踏まえると、遠原古墳一帯は、中世から近世にかけて、信仰上の目的で造られた「十三塚」の遺構ではないかと考えることができます。

 下小野地区は、昭和34年(1959)~昭和42年(1967)の明治大学による現地調査によって、寛文~延宝年間(1661~1681)に、北側の台地先端から現在地の地に集落の移動が行われたことが知られています。これらの塚群も、古代から近世にかけて連綿と続く下小野の歴史の証であるといえるでしょう。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成29年9月号(PDF:330KB)

Vol-135 忠敬の測量器具 江戸の職人たちの機械製作技術

 伊能忠敬が正確な日本地図を作ることができた要因のひとつに、精密な測量器具とそれらを製作する職人たちの貢献がありました。忠敬は、京都の金工職人・戸田東三郎や大阪貝塚の眼鏡職人・岩橋善兵衛、江戸の時計職人・大野弥五郎、弥三郎父子など各地の職人たちに特注して、より使いやすく、より正確な計測を可能とするさまざまな器具を調達しています。これら測量器具には、輸入品はひとつもなく、すべてが職人たちの手作業によって製作された国産品です。忠敬の測量には、こうした江戸時代の職人たちの存在が不可欠でした。

 忠敬が使用した天体望遠鏡は、月や木星、その周りを回る衛星などを観測するための本格的な望遠鏡です。この天体望遠鏡を作製したのは、大阪貝塚の眼鏡職人・岩橋善兵衛です。眼鏡職人としてレンズの研磨や加工技術に長けた善兵衛は、精巧なレンズを備えたオランダ製の天体望遠鏡に関心を持ちます。本業の傍ら望遠鏡の試作を重ねた結果、外国製品に引けを取らない精度の高い国産望遠鏡を作り上げます。善兵衛の望遠鏡は、当時の天文学者たちに数多く使用され、江戸時代の天文学の発展を支えました。

 一方、振り子時計や製図用具などを製作したのは江戸神田の時計職人・大野弥五郎と弥三郎の親子です。大野父子は、忠敬だけでなく江戸幕府天文方のお抱えの職人として、天文方の学者・技術者たちの高度な要望に応じた精密器具を製作しています。このようにして機械製作技術を磨いていった大野家はその後、弥三郎の子である規周が、幕府留学生となってオランダに留学して、西欧の機械製作技術を学び、帰国後は、大阪造幣局の技師として活躍することになります。時計職人大野家は、日本における近代的機械製作技術の発展に尽力した存在と言えるでしょう。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成29年10月号(PDF:319KB)

Vol-136 豊玉姫神社 大山柏の神号額と良文貝塚

 豊玉姫神社は、市の南西部、貝塚地区に鎮座する古社で、祭神は豊玉姫尊です。
社伝では、景光天皇の皇子日本武尊の東征の際、相模の国から総の国へ船で向かう途中、海上安全を海神に祈ったところ、無事に上陸できたことから、当地に海神の姫である豊玉姫尊を祀ったことが由緒となっています。

 古くは、編玉郷の総鎮守として大宮大明神を称し、地区内の高台に鎮座していましたが、風害のために康和2年(1100)に現在地へ移転、新宮大明神とあらため、明治5年(1872)になり豊玉姫神社と改称されました。

 本殿内には、慶長7年(1602)、慶長15年(1610)、元和5年(1619)などの棟札が残されているようですが、現在の本殿は宝暦7年(1757)に改築されたもので、その後、昭和55年(1980)に大修理を行い、屋根も茅葺きから銅板葺きになりました。

 祭典は4月8日の例祭や10月19日の流鏑馬祭などがありますが、特に盛大なのは20年毎に催行される式年銚子大神幸祭です。銚子みゆき、大みゆきとも呼ばれます。康和4年を起源とし、東大社(東庄町宮本)、雷神社(旭市見広)とともに、銚子の外浦まで神輿渡御する祭です。現在は自動車を用いますが、かつては沿道各区の人々により神輿は担ぎ継がれていたそうです。ちなみに、前回は平成22年(2010)4月10日から12日までの三日間行われました。

 ところで、拝殿正面にかかる神号額には「豊玉姫神社 従三位公爵大山柏謹書」とあります。これは、大山巌元帥の次男で、大正・昭和期の考古学者であった大山柏により。昭和3年10月、揮毫・奉納されたものです。大山柏が代表を務めた大山史前学研究所と地元有志により、昭和2年と同4年に良文貝塚の発掘調査が行われ、多くの土器や骨格器などが発掘されました。その成果により、良文貝塚が国史跡に指定されています。

 なお、この時に出土した県指定文化財の「香炉形顔面付土器」は、今も地元保存会で保管されています。通常は非公開ですが、この11月3日には豊玉姫神社にて公開されます。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成29年11月号(PDF:325KB)

Vol-137 大崎の大和神楽 大崎の鎮守と「白幡神社」と奉納神楽

 白幡神社は、大崎の鎮守です。祭神は、譽田別尊(「ほむたわけのみこと」又は「ほんだわけのみこと」)です。譽田別尊とは、第十五代応神天皇の諱です。

 香取市立竟成小学校から南東に伸びる道を進むと切通しの場所があります。神社は、その左手の台地上に鎮座しています。

 木々に囲まれた短い石段の上に建つ明神鳥居をくぐり、石灯篭の並ぶ参道を抜け、さらに石段を上がると拝殿と本殿の前に出ます。本殿は、銅板葺の一間社流造です。

 白幡神社の創建年代は不明ですが、古老のいい伝えによると「国分胤道が矢作城を築いた際に、守護神として奉祀された」といわれています。胤道は千葉介平常胤の第五子で、国分氏の始祖です。胤道は、現在の本矢作の地に城を築き居城しました。今の「本矢作城跡」です。

 その後、国分氏第五代泰胤が、鎌倉時代の終わり頃、大崎城に本拠を移したとされています。   

 弘化3年(1846)の「矢作古城跡之図」に、大崎城跡の様子が描かれており、大崎城が古くは「矢作城」と呼ばれていたことがわかります。国分氏は、代々の居城を「矢作城」と通称としたといわれています。この絵図には、現在地と同じ位置に「白幡大明神」の書き込みがあります。

 白幡神社では、毎年4月第一日曜日(以前は4月3日)の祭礼日に大和神楽が舞われます。この神楽は、江戸時代中期に伊勢地方からやってきた神楽の集団によって、この部落の長子のみに伝承されたものです。江戸時代には、笛・太鼓に合わせて舞いながら百戸余りの氏子を何日もかけて巡り歩き、厄を払い、五穀豊穣を祈願しました。

 戦後、途絶えた時期がありましたが、昭和50年、区長及び役員をはじめ地元の方々の努力により、「大崎大和神楽保存会」が結成され、伝統の神楽を復興しました。
一匹の獅子による布舞い、幣束舞い、鈴舞いの三通りの古風にして優雅な舞を、毎年神前に奉納しています。

 大崎の大和神楽は、昭和52年6月1日に、市の無形民俗文化財に指定されました。
来年の祭礼日は、4月1日の日曜日です。春の訪れを感じながら、伝統の奉納神楽に足を運んでみてはいかがでしょうか。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成29年12月号(PDF:368KB)

Vol-138 出羽三山供養塔 遠く離れた山々への信仰

 月山・羽黒山・湯殿山などと書かれた供養塔を各地の神社やお寺などで見かけた方は多いと思います。

 この三山は出羽三山と言われ、山形県の中央部に位置しています。地形的には一つの山ですが、そこにある三つの峰を三山としています。中央にそびえる月山が最も高く、羽黒・湯殿の両山がその左右にあります。

 出羽三山は、おおよそ1,400年前、祟峻天皇の第一皇子の蜂子皇子が開山したといわれ、古くから山岳修験(山伏)の霊場として知られています。三山はそれぞれ現在・過去・未来を表し、羽黒山は現在の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)と言われています。生きながら若々しい生命をよみがえらせることができるという信仰は、江戸時代に「生まれかわりの旅」となって、西の伊勢参りとともに東日本一円に広まりました。

 三山詣では、五穀豊穣・海上安全・家内安全・無病息災を祈願してくるもので、男子で十五歳あるいは三十歳を越えた者は一生に一度必ず参詣に行くものだと決めている地域もあります。また、三山の信仰集団は、三山講、湯殿山講、湯殿講、権現講、奥講などと呼ばれています。通例、これらの講集団は地域ごとに組織されており、毎年くじ引きなどでその年の参詣者(代参者)を決めます。代参者は出発前の一定期間精進潔斎を行った後、鎮守に参拝し帰村したときも鎮守に参拝し、道中の無事を祈願し、また礼参りも行いました。

 千葉県は三山から遠隔の地でありながら強く出羽三山信仰が根をおろした、関東地方では最も盛んな県となっています。特に房総半島西部には、今でも三山信仰にかかわる行事が行われている地域があります。

 市内各地区の神社やお寺などにも、江戸時代後期から幕末にかけての三山の名が書かれた供養塔が多く見られ、信者が参拝記念に造立したものと思われます。

 江戸時代の出羽三山参詣は、途中の神社仏閣や観光地をまわり、40日を超す長旅のうえ、出羽三山での滞在はわずか3日という大変なものでした。農作業の忙しい時期に、多額の費用をかけてまで参詣した出羽三山は、地域の人々にとって特別な場所であったのでしょう。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成30年1月号(PDF:391KB)

Vol-139 仲川岸の山車 明治の佐原が追い求めた究極の一台

 仲川岸の山車は明治29年(1896)の建造と伝えています。白木造りで、材料に九州産ケヤキの一本取り玉杢材を使用しています。佐原の山車は、六本柱が基本的な構造ですが、三方正面と呼ばれる八本柱の構造となっています。八本柱構造になると、柱と柱の間の空間が増えることになりますが、その空間をさらに彫刻で埋めることによって、より重厚さを増す効果が得られます。仲川岸の山車には69枚の彫刻がはめ込まれ、日本神話から太閤記などの軍記物まで幅の広い題材となっています。山車1台を使用して、日本の古代から中世にかけての歴史を示すとともに、下高欄周りに米づくりの春秋を配することで、日本の歴史を支えてきたのは稲作によることを諭しているようです。彫刻師は後藤直政で、醸造業を営んでいた町内の八木善助宅に、3年間住み込みで製作にあたったと伝えています。箱書から、明治29年(1896)の製作であったことがわかります。

 山車正面に掲げられている扁額は、明治の三筆の1人、巌谷修の書による「博如天(博きこと天のごとし)」であり、その周囲を天皇家の紋章である菊花と桐花を配し、中央には王家の象徴である鳳凰を配するという構図の彫刻で飾られています。

 飾り物は明治31年(1898)製作の神武天皇で、橿原宮で即位した様子を表現していると伝えています。原作者は不明ですが、作風から鼠屋もしくはそれに連なる工人の作ではないかと考えられます。その後、昭和3年(1928)、昭和39年(1964)、平成11年(1999)と、三度修復が行われています。威厳に満ちた面差しは、どことなく明治天皇を連想させることから、原作者は明治天皇をモデルにしたのではないかとの推測もありますが、その真意は定かでありません。

 仲川岸の山車は、その規模、質において、佐原型山車の到達点を示す名台といえるでしょう。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成30年2月号(PDF:576KB)

Vol-140 城山6号墳 最後の前方後円墳

 城山古墳群は、小見川の「城山」と呼ばれる台地上にあります。現在のところ28基の古墳が確認されていますが、他にも未調査のまま消滅した古墳があったようです。昭和38年、県立小見川高校建設による造成工事中に調査された城山1号墳は、横穴式石室内から三角縁神獣鏡をはじめ、多くの副葬品が出土したことから、全国的に知られています。

 その後の整地工事中の昭和39年に、新たに発見された石棺7基が、さらに、小見川中学校建設により昭和41年に城山6号墳が調査されました。いずれも早稲田大学考古学研究室によって行われ、ブルドーザーによる整地工事の合間に実施された短期間の調査でした

 城山6号墳は整地工事で半分近くが削られていましたが、調査の結果、推定全長42mの前方後円墳で、埋葬施設は後円部中央に設けられた横穴式石室であることがわかりました。石室は、遺骸を安置する玄室と、外部からの通路である羨道からなり、全長3・3m、玄室長2・4m、玄室幅2・4m、羨道長0・7mです。古くに盗掘を受けて開口していたため、わずかに鉄鏃や鉄釘などが残っていたのみで、鉄釘は木棺に使用されたものと推定できます。

 横穴式石室は砂岩の切石を使用し、玄室の平面形は四隅が丸く、奥壁・側壁とも弧を描く「胴張り」形です。また、それぞれの壁面は天井に向かってすぼまるように積み上げ、断面形はドーム状となっています。発掘調査では築造年代を示す遺物は出土しませんでしたが、埴輪を持たないこと、切石による横穴式石室であることなどから、7世紀の初めごろと推定されます。おそらくは、1号墳に葬られた人物の次の首長の墓と考えられます。

 このような胴張り・ドーム状の石室は千葉県内では類例がなく、現在のところ、本古墳が唯一です。しかし、「胴張り」の石室は埼玉県を中心とする武蔵地方に多くみられ、この地方の影響を受けた可能性が考えられます。

 前方後円墳は、古墳時代の初めから首長墓として全国各地で築造されましたが、7世紀に入ると各地の有力者は方墳を採用するようになり、前方後円墳は終焉を迎えます。城山古墳群でも6号墳以降の前方後円墳は確認されておらず、最後の前方後円墳と思われます。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成30年3月号(PDF:532KB)

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