アーカイブ香取遺産 Vol.201~210

更新日:2024年2月20日

アーカイブ香取遺産 Vol.201~210

Vol.201 大山詣りと石尊山

 市内の寺社や集会場などの人が集まる場所で大山や阿夫利などの文字が刻まれた石碑を目にすることがあります。佐原地域下川岸地先の国道356号沿いにある石碑には、参詣講が大山詣りをして願いが成就した記念に碑を建てたとあります。参詣講は旅費を積み立て、代表者を送りだす集まりです。

 江戸時代から近代にかけては、遠くの神社・仏閣を参詣することは、地元の外に出る貴重な機会でした。関東地域では、江戸時代中期から、大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)を参詣する大山詣りが流行しました。神社は関東の広い地域から見える大山にあり、「阿夫利」が示すとおり雨ごいや仕事の成功を祈願する人々が訪れます。山頂の自然石がご神体であるため、祭神は石尊権現と呼ばれました。関東の各地には、石尊権現を祭る山を石尊山と呼ぶ例がみられます。

 佐原地域下新町の南にある石尊山もその一例です。市街地側から鳥居をくぐり、石段を登り山頂に至ると阿夫利神社にたどり着きます。高さ2mほどの石が置かれ、手前の参道には、明治8(1875)年に奉納された手水鉢と明治14(1881)年に奉納されたこま犬一対があります。江戸時代末期の松沢村(現在の旭市清和乙)の国学者・宮負定雄による地誌「下総名勝図絵」では、佐原村の眺望図のなかに石尊山が描かれ、山の麓に鳥居、山頂には社殿があります。この頃には佐原村の大山として存大山詣りと石尊山在していたことが分かります。

 市内には、石尊山のほか大山詣りに関わるものが多くありますので、探してみてはいかがでしょうか。

Vol.202 文化財保存館リニューアル

 文化財保存館の展示が新しくなり、旧石器時代から中世までの通史的な展示になりました。

 旧石器時代(西和田古墳群出土)は土器を使う以前の時代で、食料を求め移動しながら生活をしていたと考えられます。ナイフ形石器や尖頭器を展示しています。

 縄文時代(良文貝塚他)は土器を作り、弓矢のほか多種多様な道具を使い定住生活を始めた時代です。当時の土器や貝を実際に触れるプチコーナーもあります。

 弥生時代(織幡ササノ倉遺跡)は、水田稲作が始まり、家族を越えて多くの人々が協力して谷津田等で稲作を始めたものと考えられます。

 古墳時代(城山1号墳他)は、三角縁神獣鏡や武器・武具・装身具・埴輪など多くの資料が出土しました。その豪華絢爛さから下海上国造の古墳と考えられます。また、香取の海周辺で多く出土する石枕も展示しています。

 奈良・平安時代(古屋敷遺跡他)は、天皇を中心とした律令制度のもと中央集権国家が作られた時代です。「山幡」と書かれた墨書土器により、正倉院に残された戸籍の郷名と思われ、この地の様子の一端がうかがい知ることができます。

 中世(大崎城)は、千葉氏一族の国分氏が築城し、低地からは、木製品(下駄、将棋の駒、卒塔婆等)をはじめとして様々な資料が出土しました。また、鎌倉時代を中心に石製の供養塔である下総型板碑が香取市を中心に造立されました。正元元(1259)年銘の板碑(県指定文化財)がいぶき館1階のガラスコリドーに展示してあります。

Vol.203 祐天上人名号跡

久保区に伝わる文化財に、祐天上人名号跡(市指定有形文化財・書跡)があります。写真のように特徴的な筆遣いで南無阿弥陀佛と記されています。

 祐天上人は、陸奥国磐城郡新田村で寛永14年(1637)生まれ、12歳で江戸・増上寺の壇通上人に弟子入りしましたが破門されました。それを恥じて成田山新勝寺で参篭した際に不動明王より知恵を授かり、以降才覚を発揮したといわれます。下総国大巌寺(千葉市)、同国弘経寺(茨城県常総市)、江戸・小石川の伝通院の住職を歴任し、正徳元年(1711)に75歳で増上寺36世住職となりました。正徳4年(1714)に隠居したのち、享保3年(1718)に82歳で入寂しました。奈良・東大寺大仏殿の再建や鎌倉大仏の再整備に力を注いだことで知られ、民衆から大きな支持を得ていたほか、徳川五代将軍の綱吉、その生母の桂昌院、六代家宣ら幕府関係者からも深い帰依を受けました。

生涯にわたり名号の書写を続け、広く人々の求めに応じて授与したと伝えらています。久保区に伝わる名号もその一つと考えられ、各号下部に「飯沼弘経寺三十世」(写真右)と記されていることから、弘経寺の住職であった元禄13年から宝永元年の間(1700-1704)のものと推定されます。

なお、元禄15年(1702)に五郷内地区・樹林寺所蔵の夕顔観音が桂昌院に求められ江戸城内で御開帳された際、祐天上人も列席していたといわれています。どのような経緯で久保区にこの書跡が伝わったかは不明ですが、その頃に当地とのご縁があったのかもしれません。

      
             花押など


Vol.204 香取神宮に伝来する八龍神像

 八龍神像は江戸時代まで香取神宮で行われていた八龍神信仰を伝える木造の神像で、像高90cm前後の像が8体揃っています。類例が少なく、それぞれの名称や性格なども、今のところよく分かっていません。
 各像の構造や作風から、No.1、2と、No.3~8の二つのグループに分けられます。前者は、主要体幹部を二材で合わせた寄木造りで、内刳を施しています。正統な仏師による江戸時代の作と考えられます。後者は一木造りで、髪から足底までの主要体幹部を一材から彫り出しています。現状の漆塗りの下に、さらに漆塗り、彩色が確認できること、部分的に布張り補修が施されていることなどから、前者よりも古い造像と考えられます。元禄13年(1700)の香取神宮の記録から、この時新調された2体と修復された6体と推定されます。


8体揃った八龍神像

 中世以前の神幸祭に関する資料に香取神宮神幸祭絵巻があります。神宮から津宮へ向かう行列の様子が、先頭の一御船木に続き、八龍神の持楯・二御船木と順に描かれています。神幸祭は水上交通と深く関わりのある香取神宮の重要な神事で、先頭近くに位置する八龍神には水神として祭典を守護する役割があったと考えられます。また、江戸時代以前の八龍神像は主要な建物である楼門や正殿の大床に安置されるなど、境内においても重要な役割を果たしてきたようですが、明治期の祭祀の改変によりその位置付けがなくなり、その後神庫に移されました。

Vol.205 一ノ分目遺跡と一ノ分目古墳

 一之分目遺跡は、JR成田線水郷駅付近から国道356号線に沿って細長く伸びる標高約3~5mの微高地にあります。この微高地には、利根川下流域で最大の前方後円墳である三之分目大塚山古墳を主盟とする豊浦古墳群なども所在しています。

 一之分目遺跡には、豊浦古墳群に含まれる一之分目古墳があました。一之分目古墳は径約10mの円墳で、大正7 年の開墾の時に木棺直葬と思われる主体部と副葬品が出土しました。副葬品は刀子と斧を模った石製模造品で、東京帝室博物館(現東京国立博物館)に寄贈されています。出土した石製模造品から5世紀前半の築造年代が考えられます。昭和27年ごろには完全に消滅したと伝わっています。

 一之分目遺跡は、一之分目古墳以外に具体的な遺跡の様相は不明でした。しかし、令和3年と4年に行った遺構や遺物の有無を調べる確認調査で、住居跡などが見つかりました。
 令和3年は、約20m四方の狭い範囲に竪穴住居跡が密集している状況を確認しました。住居跡の時期は平安時代と思われます。何らかの事情で限られた狭い範囲に、建て替えを繰り返してきたのでしょうか。

 令和4年は、古墳の堀と思われる溝跡を確認しました。溝跡が巡る形から前方後円墳の可能性があります。

 豊浦古墳群は円墳6基、前方後円墳5基が知られていますが、今回の調査は新たな古墳の発見となり、一連の確認調査から、貴重な情報を得ることができました。

 確認した遺構は埋め戻しをして保存することになりました。このような確認調査の積み重ねが、香取市の歴史を少しずつ明らかにしてくれます。

Vol.206 清水不動尊

 佐原野球場から南に500mほど行くと、不動明王が彫られた道標と「清水不動尊」の扁額が掲げられた鳥居があります。鳥居をくぐって160m坂道を下っていくと、小さなお堂が静かな谷間に佇んでいます。
 お堂内には、岩肌を掘りくぼめて安置された石造りの不動尊が祀られており、法界寺の奥の院とされています。法界寺は天正11年(1583)に僧天誉上人の開基とされる浄土宗の寺院です。お堂に掲げられた墨痕鮮やかな「不動尊」の扁額は、東久世通禧のものです。
お堂脇の岩肌から清水が湧き出ており、この湧き水は環境省の「千葉県の代表的な湧水」に記載されているものです。

    清水不動尊

   お堂内の不動尊像

 その来歴をご住職にうかがうと、石橋山の合戦に敗れた源頼朝の家臣、清水某が鎌倉へ向かう途中に、この辺りで鳥が木立の中に降りて行くのが見え、道をそれてたどっていくと、この湧き水があったということです。
 湧き水を発見した清水某にちなんで「清水不動尊」と呼ばれるようになったとのことです。また、矢傷を負った清水某がこの湧き水で傷を洗い、治癒したことから「矢筈の不動尊」とも呼ばれるようになったということです。江戸時代になると「乳出し不動尊」と呼ばれるようになり、子育て不動尊として信仰を集めるようになりました。この不動尊の湧き水を飲むと母乳がよくでる。難病が治るとされています。毎月二十八日の午前中に縁日が開かれています。
 夏の暑い日に訪れた時も、清らかな湧き水は冷たく、心まで洗い浄めてくれるようです。

Vol.207 令和生まれの山車

 佐原の大祭で賑やかに曳き廻される山車。その躯体は、土台から梁まで6本又は8本の柱が立ち、上下の貫で連結する軸組み構造になっています。新上川岸区は、躯体部分の痛みが著しいことから、その保存修理方法について佐原山車行事伝承保存会と協議を重ねてきました。保存会では、学識者から構成される評議委員会に諮問し、度重なる現地調査と審議を経て「躯体については新調すべき」との答申を受けました。これにかかる修理費用については、文化庁と保存会が協議した結果、令和3年度補正予算事業文化芸術振興費補助金の交付を受けることができました。


 復原新調に際しては、元の躯体と同じ大きさ、同じ工法を原則としつつ、構造的に弱い所は補強をするなど、一部に改良を加えています。

 躯体の原材料は、木目の美しい厳選された国産のケヤキを使用しています。特に、正面は新潟県長岡市山古志産の四方柾の柱となっています。また、下高欄には虎の毛並みのような木目の虎杢、擬宝珠柱や土台には木目が同心円の形になっている玉杢が使われています。

 先代の躯体は大正4年に再建されたもので、その一部に江戸時代の製作と伝わる先々代の部材を使用していました。このことから、今回の躯体の根太と土台の一部に先代の部材を使用することとしました。令和に生まれた新しい山車。そこには山車の歴史そのものが刻まれているのです。これからの百年、新上川岸区の皆さんの思いとともに、山車行事の歴史を歩んでいくことでしょう。

Vol.208 香取の海と新田開発

 香取市北部の広大な水田地帯には、かつては香取の海、香取浦、香取内海などと呼ばれた海がありました。中世頃までは図のように、霞ケ浦、印旛沼や手賀沼を含めた、奥行きのある広大な内海が存在し、漁業や内陸水運が盛んでした。
 徳川家康が関八州を治めることとなった天正18年(1590)年、佐原と対岸の牛堀・潮来の間は、敵対する常陸国の佐竹氏との境界紛争地でした。小見川の代官・吉田佐太郎は、沖之島(島状に点在していた土地の総称)を起点に新田開発を進めて領有を主張し、佐竹氏に所領を奪われた江戸崎城主・土岐氏の旧家臣団を帰農土着させ、新田の開発及び境界の監視にあたらせました。
 家康は関東入国にあたり新田開発を喜び、「沖之島北はすの新田」を「新嶋」と命名しました。年貢の一定期間免除などの特権を与え、寛永17年(1640)までに開発された十六の新田村は新島十六島、十六島新田等と呼ばれています。

 その後、利根川の東遷や浅間山噴火などにより土砂の流入量が増え、新田開発がさらに進み、かつての「香取の海」一帯は水田地帯となっていきました。
 次第に「水郷」と呼ばれる景勝地となり、東国三社詣と共に、多くの観光客や文人墨客が訪れるようになります。昭和2年、新聞社主催のアンケートで日本新八景を選定するイベントがあり、水郷之利根保勝会などが投票活動を展開しました。八景には入らなかったものの40万票を集め、利根川として二十五勝に選ばれました。同会は昭和11年に開通した初代水郷大橋のたもとに記念碑を建てました。現在はあやめパーク入口東側に移設されています。

Vol.209 明治時代、流れを変えた利根川

 明治中頃まで物資の運搬の中心は主に舟による運搬であったため、河川の維持・改修は、内陸舟運路維持のために川底の土砂を取り除く浚渫などを行う低水工事が中心でした。しかし、明治25年鉄道敷設法により、全国に鉄道網を張り巡らせる計画が進むと、物資の運搬の中心は舟から鉄道へと変わり始めます。その頃、大きな洪水が全国各地で頻発したため、明治29年に河川法が制定され、舟運に必要な河川の浚渫工事から、水を早く安全に海へと流れさせ、洪水を防御する高水工事(河川の氾濫防止のために最高水位を計算して堤防の高さを決める工事)へと治水工事の方向性を大きく転換しました。これにより、流路の直線化と高い堤防が造られることになります。

利根川では、銚子の河口から烏川合流付近(群馬県高崎市)まで約200kmの改修工事が明治33年から昭和5年まで3期に分けて行われ、それまでの流路を大きく変える大規模な工事となりました。

 当時香取市付近の利根川の流路は大倉付近からそのまま東へ直線方向に流れ、外浪逆浦で北浦と霞ヶ浦からの流れと合流していました。そこで第1期改修工事では、香取市の台地に沿うように南東方向に流れを変えて利根川として独立し、北浦と霞ヶ浦の水をもって常陸利根川としました。今でも当時の堤防が一ノ分目新田付近で見ることができます。整然と水田が区画された中に斜めにやや湾曲しながら一段高い地形の様子が今でもはっきりと残っています。
 第2期改修工事では、石納付近で大きく北方向に蛇行していた流路を直線化しました。それにより本来は地続きであった地域が、利根川を挟んで南北に二分されてしまいました。
 香取市は、水郷という風光明媚な自然美とは裏腹に水害の危険性を常にはらんでいました。地域に残された地形からも様々な歴史を知ることができます。

注釈:明治前期手書彩色関東実測図(一財)日本地図センターに加筆

ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。(広報かとり 令和6年2月号)(PDF:327KB)

Vol.210 堀之内4号墳の円筒埴輪棺

 堀之内4号墳は、佐原区の西部田地区に所在していました。当時広がっていた「香取の海」を臨む台地に築かれた古墳です。開発事業に先立ち、昭和49年に発掘調査が行われました。
 4号墳は、墳丘がほとんど残っておらず、死者を埋葬した主体部も失われていました。調査が進むと、墳丘に沿って掘られた周溝がみつかり、径約21mの円墳であることがわかりました。
 北側にあたる周溝の限られた範囲から、埴輪が集中して出土しました。人物や鶏などをかたどった形象埴輪、筒状の形で外面に複数の凸帯をめぐらし、対になる透孔をあけた円筒埴輪、円筒埴輪の上部が大きく開く朝顔形埴輪です。
 埴輪は、本来古墳の表面に並べ立てるものですが、東側の周溝から円筒埴輪を横にたおして棺に代用したものが出土しました。これを円筒埴輪棺と呼んでいます。

 棺は周溝の底部に掘られた長さ134cm、幅101cm、深さ27cmの方形の穴に納められていました。棺の内部からは、人骨や副葬品は出土しませんでした。
 棺本体は2個の円筒埴輪を継ぐように重ね合わせ、両端の開口部と透孔は、別の円筒埴輪2個分の破片で蓋をするように覆っていました。これらの円筒埴輪は、その特徴から6世紀代のものです。
 使用された円筒埴輪は、高さ約47cm、最大径約29cmです。最小径は一つが約15cm、もう一つが約19cmです。棺本体は、重ね合わせた状態で長さ約77cmです。棺に納められた人と4号墳本来の被葬者との関係などは不明ですが、棺本体の大きさから成人ではない可能性がありそうです。
 円筒埴輪棺は、主に茨城県、栃木県、埼玉県など北関東で出土例が報告されています。香取市内での出土は、堀之内4号墳の一例だけですが、「香取の海」を介した北関東との交流や影響を示すものと考えられます。
 発掘調査報告書は、昭和56年に『千葉県佐原市 堀之内遺跡』として刊行されています。

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