アーカイブ香取遺産 Vol.181~190

更新日:2022年6月28日

アーカイブ香取遺産 Vol.181~190

Vol.181 大戸白幡遺跡

 大戸白幡遺跡は、佐原地域大戸字白幡に所在する集落遺跡です。また、10基以上の古墳が確認されており、白幡古墳群としても古くから知られています。
 昨年、この遺跡内で側溝設置工事が行われましたが、その際に出土した墨書土器を紹介します。幅1メートルに満たない細長い土木工事のため、全容を明らかにするには至りませんでしたが、直径1.8メートル前後と思われる以降の一部が確認され、この遺構の底からは平安時代の土師器坏が複数重ねて置かれた状態で見つかりました。
 そのうちの2点に「大力」と墨書したものがあります。遺構に堆積した土を観察すると、一度埋め戻しており、祭祀や儀式に関係するものと考えられます。墨書のある坏は縁の直径が12センチメートルほどで、両手の掌に納まる大きさです。1点は内側に細い筆跡、もう1点は外側に太く力強い筆跡で書かれています。


墨書土器「大力」

 当時の読み方は正確にはわかりませんが、現地で「大力」の文字を発見した時は「タヂカラ」の読みが瞬時に浮かびました。「手力男命」を祭神とする大戸神社の社伝に、最初は大戸字白幡周辺に鎮座し、孝徳天皇元年(654)に現在地に遷座とあるのです。社伝の遷座の年代と墨書土器とでは、土器のほうが少なくとも100年ほど新しいのですが、当遺跡が神社の故地であることと関係する遺物とも考えられます。しかし、この他に「タヂカラ」と読めそうな墨書土器と神社との関連をを示唆する遺物はなく、現時点で可否を決定することはできません。幸い遺跡のほとんどは、今も地中に保存されているので、今後はこの点にも注意を向けながら調査に当たることができます。
 皆さんは、「大力」についてどんな仮説を立てますか。

Vol.182 おかめさんは文化元年生まれ!

 「おかめさん」の愛称で知られる本川岸町の天鈿女命の大人形。町内の皆さんの調査によって、御頭内部に「文化元年申子五月吉日 江戸人形町 鼠屋五兵衛 福」(「申」は「甲」の誤字)の墨書銘が確認されました。これは、銘が確認できるものでは佐原最古のものです。文化元年は西暦で1804年ですので、おかめさんは今年で217歳になりました。さらに、おかめさんの大人形は、視線が水平方向であることや、御頭が大変重いことなどがわかっています。このことから、もともと高い位置に飾ることを想定していなかったと考えられます。

 また、八日市場町や佐原古文書学習会の皆さんの一連の史料調査では、新しい事実が明らかにされました。その一端をご紹介します。浜宿町は、安永8年(1779)に造った関羽の人形を再興させるため、文政5年(1822)に江戸の原舟月に関羽・周倉・馬の飾り物を製作しており、同じ年に下仲町は屋台(当時の表記。以下同じ。)を造っていることがわかりました。さらに、天保11年(1840)には、八日市場町が漆塗総彫物の屋台を新しく造り、彫物師は府馬の安産大神の彫り物で知られる古内村(旧山田町)の鈴木多門の手によることが明らかとなっています。(多門の彫物は、大天井の龍、側面の花鳥、下高欄の獅子です。)
 このように、地元有志の皆さんの努力によって、新発見の史料が発掘され、地域の祭礼文化史が解き明かされています。

Vol.183 大戸通崎遺跡 -謎の大型遺構-

 大戸通崎遺跡は、大戸地先の谷地を望む見通しの良い台地上に存在した遺跡です。近くには、古代に政治的に重要な役割を持った香取神宮と関係が深い、大戸神社があります。
 遺跡は昭和61年(1986)に発見され、急遽行われた発掘調査では、奈良・平安時代の竪穴住居跡12軒と奈良時代の円形遺構1基が確認されました。円形遺構は直径4.9メートル・深さ3.3メートルの大型のもので、すり鉢状の掘り込みがあり、下部は段堀りされ、底は直径1メートルの平らなところに火を焚いた痕跡がありました。発見された当時は、このような遺構の存在は、あまり知られておらず、謎の遺構となっていました。

 近年では、各地の発掘調査の成果により、類似した大型の円形遺構が、関東から東北で、古代の主要な政治拠点や交通路近辺から発見されることが明らかになってきました。これらの遺構は円形有段遺構と呼ばれ、その性格については様々な議論が行われています。

 溜井戸説、貯蔵庫説、ごみ捨て穴説のほか、朝廷に献上する氷の保管庫に似ていることから氷室説、火を焚いた痕跡が認められるものがあることから狼煙の点火施設とする説などがあります。
 遺跡は既に消滅していますが、記録保存されているため、発見当時には不明だった遺構の性格を、新たに得られた情報から検討することができます。今後の調査研究の成果から謎が解明されるかもしれません。

Vol.184 小見川城と粟飯原氏

 小見川城は、利根川の西側に面した標高約40メートルの台地の先端に位置しています。伝承によれば、千葉一族である粟飯原朝秀が建久年間(1190~1199)に築いたと言われています。そして、戦国期を通して、小見川の地を粟飯原氏が統治していました。

 構造は、曲輪が連なるように配置された連郭式です。開発により多くが失われていますが、北側の城山第2浄水場に隣接している部分で土塁や空堀が良好な状態で現存しています。また、堀には横断する通路として設けられた土橋が設けられています。1人がやっと渡れる幅で、敵の進入路を直線的かつ限定的にすることによって防御力を高める工夫がなされています。また、城山公園の中央にある赤橋が架かる部分も空堀が残されています。

 天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めでは、当主粟飯原俊胤は北条方に加わったため、小田原城と同様に、小見川城も落城しています。その後は、徳川家康の関東移封に伴い、小見川の地に松平家忠が入封しています。以降は、徳川家と近しい人物が当地を支配していきます。

 これからの季節は、遺構が観察しやすくなりますので、散策してみてはいかがでしょうか。

Vol.185 佐原市街地の用水路跡

 江戸時代、佐原の市街地には用水路が整備されていました。今は狭い路地にその面影を見ることができます。延宝3年(1673)に市街地から見て小野川上流部に堰を設けて水を引き、佐原村中心部を通り、岩ケ崎方面までに至る用水路が整備されました。用水路は整備に携わった名主の伊能三郎右衛門家の敷地(現伊能忠敬旧宅など)を横切る形で分岐し、小野川を本宿側から新宿側に大樋で越えるものでした。

 当時の小野川河口は海水が混じる汽水域であったことに加え、増水時に水量を制御することが困難でした。仮に大きな河川から直接用水路を引くと、水位が低いため用水路沿いに増水した水が流入しやすく、市街地に大きな被害を出しかねません。そのためか佐原の用水路は標高約3メートルにあたるところを通っています。

 佐原市街地の用水路は時代によって変化していますが、小野川下流から仁井宿方面や岩ケ崎方面にまで、安定した水資源を供給しました。また、かつて小野川をまたぐ大樋は、農閑期など水の需要が減る時には水を小野川に落水させていました。現在その風景が再現されています。

 延享2年(1745)の絵図を基に現在の地図に用水路を反映した図では、現在では道路となっているところも多くあります。本宿側では佐原小学校校舎前から荒久方面へ、新宿側では伊能忠敬記念館入口脇の道や、佐原駅方面へと続く一方通行路などとして辿ることができます。また、市街地が拡大する前は、用水路より低い所は水田、高い所は畑地等に利用されました。普段は狭いと感じる道でも、その歴史に思いを馳せると印象が変わってくるのではないでしょうか。

Vol.186 千葉氏ゆかりの獅子頭

 千葉一族中興の祖と言われる千葉常胤の六男胤頼が東氏を名乗ったことで始まった千葉東氏、市内岡飯田地区の森山城跡はその居城の一つとされます。承久の乱(1221)の後、東氏は美濃国郡上郡山田庄(現岐阜県郡上市)に移り住みますが、森山城跡のほど近く、下飯田原宿地区の星宮(妙見)神社には、東氏ゆかりの獅子頭が伝えられています。
 星宮神社祭礼で奉納される獅子舞の獅子頭で、いつ頃製作されたものかは不明です。東氏の郡上移住に伴い、守護神の妙見菩薩を彼の地に勧請し明建神社が建立されましたが、その際に雄獅子を持って行ったとの言い伝えがあります。星宮神社の獅子は雌獅子で、明建神社のそれとは雌雄一対と言われます。

 原宿地区では、毎年1月第3日曜日(本来は1月20日)に星宮神社で祭礼が行われ、獅子舞が奉納されます。昭和50年代頃に一時奉納を中断した時期もあったようでしたが、その後復活し現在にいたっています。

 祭礼当日は、朝から獅子が地区内の各戸を回り悪魔祓いを行った後、星宮神社に戻り祭礼を執行し、獅子舞を奉納します。次いで、当番引継ぎ行事が行われます。かつては、その夜に受番(新当番)宅に行き、幕を張って本格的に獅子舞を奉納していたようですが、現在それは行われていません。演目は、鈴の舞、幣束舞、剣の舞、筑波の舞(筑波山)のなどが継承されていて、他におかめひょっとこなどの余興芸も行われます。残念ながら、諸般の事情により昨年から奉納は中断されています。
 下飯田原宿地区と郡上市では、このような東氏のつながりから、さまざまな事業を通じて相互に往来するなど交流が続けられています。

Vol.187 城山1号墳に副葬された挂甲

 昭和38年に小見川地区の城山で全長70mの前方後円墳の発掘調査が行われました。三角縁神獣鏡など多くの副葬品が出土した城山1号墳です。6世紀の終わり頃の築造で、7世紀の初めまで追葬がおこなわれていました。古墳時代の後期にあたります。この時代、香取地域の大半は下海上国造の統治下にあったと考えられます。棺を収めた石室の規模、副葬品の質や量から被葬者は、国造もしくはその一族の有力者と推定されます。今回は副葬品の中から甲を紹介します。

 古墳時代の甲には,短甲と挂甲があります。短甲は方形や三角形の鉄板を革紐や鋲で留めて作られ、おもに前期・中期の古墳から出土します。挂甲は細長い短冊状の板を紐で連結したもので、おもに後期の古墳から出土します。短冊状の板を小札、連結する紐を縅紐といます。小札は鉄製・木製・革製があり、大きさや形状、紐を通す縅孔の配列から分類できます。城山1号墳から出土した小札は鉄製で、破片に壊れているものもあり、正確ではありませんが800枚を超えると思われます。出土した小札は幅約2から3センチメートル、長さ約4から9センチメートルのもがあります。

 縅孔は上端に縦一列に並ぶものと縦二列のものがあり、それぞれ付随する孔の有無や数の違いがあります(写真1)。また、波状に湾曲した小札(写真2)は腰札といい、凸面を内側にして一周させ、腰紐で締めていました。腰札から下の部分である草摺りの最下段の小札を裾札といいますが、この裾札に腰札と同じ形状のものを使用する例があり、最も新しい形態と考えられています。

 城山1号墳からは籠手も出土していますが、籠手以外に襟甲・肩甲・胸当・臑当・肘甲などの付属品が伴うかは、まだわかっていません。現在、分類作業をおこなっており、裾札の形状や付属品の有無も判明すると思われます。

Vol.188 令和へつなぐ建物の音

 時は昭和。「カタ、カタ、カタ」と音を立て、三菱銀行佐原支店の窓のシャッターが下りていきます。街の人はこの音が聞こえると「おっ、もう3時か」と思ったというのです。建物の音が生活の中に溶け込んでいたのですね。

 現佐原三菱館のこのシャッター、よく見ると「第七九三五号 特許大野式防火巻上戸 東京市神田区新石町五番地 大野式特許品合資会社」と右書きの銘板が貼り付けられていました。特許庁のホームページで検索すると「第七九三五号 明細書 出願明治三十七年八月十四日 特許明治三十七年十月二十九日」とあり、以下「防火戸」と題した大野正による説明と図面を見ることができます。
 大野正は明治から大正期に活躍した発明家で、大野式特許品合資会社を設立した人です。明細書は専門的で難解な文章ですが、特許を請求する発明を(1)速度調整装置 (2)自重による降下装置 (3)巻き上げ把手格納装置 としています。三菱館には(3)の装置はありませんが、(1)と(2)の装置が壁の中に埋め込まれています。速度調整・自重降下とは、ストッパーを外すと、シャッター自身の重さによって閉まり、その際、何もなければ閉まる速度がだんだん速くなるのですが、(1)の装置によって、最後まで一定の速度を保ちながら閉まるというものです。

 三菱館の「特許大野式防火巻上戸」は建設当初、19カ所に設置されていましたが、その後の改修で5カ所が失われ、現在残っているのは14カ所です。この特許装置を持った大野式防火戸は、なんと108年経った今も稼働します。現在、メンテナンスを終え、現役復帰を待ち望んでいます。

 初夏の風が吹くころ、「カタ、カタ、カタ」一定のリズムを奏でる建物の音に、耳を傾けてみてはいかがでしょうか

Vol.189 かくれ卵塔 時代に翻弄された仏塔

 かくれ卵塔と呼ぶ仏塔が、沢地区の道の駅くりもと東側の小高い一画にあります。

 卵塔とは最上部の塔身部分が卵のように丸い仏塔で、この部分が継ぎ目のない一つの石から作られることから無縫塔とも呼ばれます。主に僧侶の墓塔として使われます。


かくれ卵塔(中央)

 かくれ卵塔は、僧である日講(1626~1698)が日向国(現在の宮崎県)で長期間におよぶ大がかりな読経を成しとげた事績を留めるために日講の死後、弟子が建てたものです。日講は京都の出身ですが、僧の学校である飯高檀林(匝瑳市)と中村檀林(多古町)で学んだ後に、野呂檀林(千葉市)では講師を務めた千葉県域と関わりが深い人物です。しかし、野呂檀林で講師をしているときに、属していた宗派・不受不施派が幕府に禁じられ、日講は教義を変えなかったため日向国へ追放され、その地で亡くなります。弟子は、かくれながら日講の教えを受け継ぎ、宝永2年(1705)にこの卵塔を建てました。

 その後、卵塔は禁じられた宗派のものであったため火で焼かれ、割られて埋められてしまいます。明治時代になるまで不受不施派は禁止されました。

 現在、卵塔は近辺の信徒により掘り起こされ、割れた石材が金属の囲いで束ねられています。このように時代の流れに翻弄されながらも守られてきた卵塔は、今も地域で大切に保存されています。

Vol.190 水郷を訪れた文人たち 江戸から明治にかけて

 利根川下流域に広がる風光明媚な水郷は、江戸時代から多くの文人墨客が訪れました。

 江戸時代、この地を旅する目的は主に香取神宮・鹿島神宮・息栖神社を巡る三社詣での旅でした。享和元(1801)年十返舎一九『諸国道中金草鞋』、亜欧堂田善『総州真景図藁』(文化10(1813)年刊)、高田与清『鹿島日記』(文政5(1822)年刊)、文政8(1825)年渡辺崋山『四州真景』等が水郷の地を訪れています。また小林一茶は文化6(1809)年に佐原在住の俳人今泉恒丸を訪ねています。

 明治になると、外輪蒸気船(通運丸他)が就航し、鉄道も明治31(1898)年に佐原まで開通、水郷観光が本格化します。徳冨蘆花は、明治29年11月1日午後8時、蛎殻町から蒸気船に乗り銚子に向かいました。数日間銚子に滞在した後、息栖、潮来、十六島、浮島にかけてめぐり、水郷の自然を描写し、「水國の秋」『青山白雲』(明治31年刊)に美文を残しています。「舟は蘆の茂りし中洲に沿ひ、また左の岸に沿いつゝ、深きに揺櫓し、淺きに棹し行く。水村の趣何處も同じことながら、此あたりは景色殊にすぐれ、川水の鏡の如く光りたるに、空行く白雲、汀の枯蘆、蘆間隠れの茅舎、屋後の林、繁ぎし小舟、汲水に菜洗ふ村の女まで残りなく影を映し舟脚の行くまゝに水ゆらゆらと揺ぎて、蘆影柵影人影舟影一時に伸びつ縮みつ。」


 また、与謝野晶子は明治44年に銚子、香取を訪れ「かきつばた 香取の神の津の宮の 宿屋に上る板の仮橋」と詠みました。その他明治時代には、明治34年大町桂月「北総の十六島」、明治36年尾崎紅葉「銚子記行」、明治40年竹久夢二「涼しき土地」、明治40年頃志賀直哉「過去」、明治41年長田幹彦「水郷の夏」、等、多彩な文人達が水郷を訪れ、紀行文や作品を残しています。

ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。(広報かとり 令和4年6月号)(PDF:263KB)

PDF形式のファイルを開くには、Adobe Acrobat Reader が必要です。お持ちでない方は、Adobe社から無償でダウンロードできます。 Get Adobe Acrobat Reader DC (新規ウインドウで開きます。)

このページの作成担当

生涯学習課 文化財班
〒287-8501 千葉県香取市佐原ロ2127番地 (市役所5階)
電話:0478-50-1224 
ファクス:0478-54-5550

このページの作成担当にメールを送る

本文ここまで