アーカイブ香取遺産 Vol.121~130

更新日:2018年5月1日

アーカイブ香取遺産

Vol-121~130

Vol-121 本川岸町山車の天幕 ヒゲタ醤油創業家深井吉兵衛の軌跡

 佐原の大祭で曳き廻される山車には、大人形の他に、彫刻や玉簾など様々な装飾が施されています。その一つが天幕です。天幕は、山車の上部(大天井)を囲うように張り巡らされた幕のことです。

 中でも、本川岸町の山車に用いられていた天幕は、正絹地に金糸や銀糸の刺繍があしらわれた重厚で豪奢なものとして知られます。この天幕の保管箱の裏には「大正三年九月新調 深井吉兵衛 製」と墨書があり、深井吉兵衛という人物がスポンサーとなり作成されたものであることがわかります。

 深井吉兵衛家は、近江(現在の滋賀県)日野出身で、佐原・銚子・波崎に出店を構えた商人です。初めは銚子に質屋と古着店を開きましたが、その後、醤油醸造業へと進出していきます。佐原店は宝永年間(1716~1735)に醤油醸造の工場として設立され、大正3年には現在の山野病院の裏手のあたりにあったと考えられます。佐原店で製造された醤油の商標は「カギダイ印」。幕末期の関東醤油醸造家番付では鶴屋弥重郎の名で「東大関」にランクされ、明治5年には1300石を製造する佐原第一の醸造家でした。

 大正時代に入ると、個人経営の伝統的な手工業であった醤油醸造にも機械化・大規模化の波が押し寄せ、合併・会社設立の動きが広がります。大正3年9月、本川岸町の天幕作成とまさに同じ時、深井家も銚子の田中玄蕃家・濱口吉兵衛家と合併して銚子醤醤油合資会社を設立。これが現在のヒゲタ醤油株式会社です。本川岸町の天幕は、江戸時代から200年以上、地域と共に生きた近江商人深井家の終わりと新たな旅立ちを告げる贈り物だったのかもしれません。

 大正3年作製の旧天幕は、劣化と傷みが激しくなったため、平成15年に復元新調されました。現在の天幕からは、往時の輝きをしのぶことができます。

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Vol-122 一茶も認めた俳人・今泉恒丸の墓碑 蘆花半輪これ俳諧の一大事

 市の北部、日蓮宗浄国寺(佐原イ)隣の前原共同墓地の一角に江戸時代の後期に活躍した俳人、今泉恒丸の墓碑があります。恒丸は、宝暦元年(1750)に陸奥国田村郡常葉村(現福島県田村市常葉町)に生まれました。通称を与右衛門といい、名を一といいました。「恒丸」は俳号で、この他に石厳山人、葛斎などの号があります。

 恒丸は42歳の時に家督を息子に譲り、諸国行脚に出かけます。やがて江戸浅草川に移り住むようになりますが、文化三年(1806)に寓居が火災に遭ってしまいます。これを機に、下総小南(現香取郡東庄町小南)の青野太※の勧めで、佐原の篠塚六兵衛方に身を寄せ、浜宿の延寿寺隣の持宝院に「葛斎」という草庵を造って住むようになりました。延寿寺・持宝院も今はなく、その跡地である千葉萌陽高校駐車場には、持宝院を偲ばせる観音堂が祀れているのみとなっています(※竹冠にエと卩)

 恒丸は文化七年(1810)九月、佐原の葛斎にて60歳で没します。佐原在住はわずか四年ですが、この期間に、宗匠として下総地方を中心に四千人もの門人を育てたといわれています。

 同時代を代表する俳人小林一茶とは、多くの句集に名を連ねるなど、互いに認め合う仲であったと言われています。恒丸が亡くなる一年前には、佐原の葛斎庵を一茶が訪ねています。

 墓碑には恒丸の辞世の句である「蘆花半輪これ俳諧の一大事」が刻まれ、碑の背面には「石厳山人葛斎翁碑」と題した久保木清淵の撰文による碑文が刻まれています。墓碑のかたわらには、妻で俳人の素月尼(今泉もと)の墓石が寄り添うように建てられています。

 昭和45年5月27日に市の史跡に指定されました。

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Vol-123 松永呑舟の墓 江戸中期の高僧

 津宮の千佛寺境内には松永呑舟の墓碑と安永八年(1779)建立の寿蔵碑があります。墓碑には「嵯峨後学和漢両派及第松永友也源宗弼之碑」と刻まれています。

 呑舟は元禄十一年(1698)11月飯岡村下永井(現旭市)に生まれました。父は水谷勝国、のちの寺門与右衛門、母は俳人松永貞徳の姪でカメといいました。母は産後まもなく他界し、父も3歳の時に世を去りました。

 孤児となった呑舟は近隣の人にしばらく育てられていましたが、七歳の時、同地観世寺(飯岡長妙寺)の小僧に引きとられました。しかし、まもなく佐倉藩に仕えていた松永操雪を頼り、名を松永友也、字を宗弼と改めています。

 九歳の時(一説に13歳)、江戸におもむいた呑舟は林家の門に入り、朱子学に精通します。その後、才覚が認められ山城(京都府)の越智氏に仕えて禄二五〇石を与えられますが数年で辞しています。

 享保十二年(1727)三十歳で豊山派の総本山神楽院長谷寺に入り、字を呑舟・北溟と号しました。

 34歳の時、京都で和漢両派を学んだ後、全国を遍歴して学問に専心したと伝えられています。

 元文三年(1738)津宮村の名主久保木太郎右衛門を訪ね、その斡旋で香取神道山根本寺の住僧となります。

 根本寺では、酒杯を友とし閑寂な隠遁生活を送ったといわれていますが、世事にこだわらず喜怒を表面に表さない呑舟に多くの人々が敬服したといわれています。門人には、久保木竹窓などがいます。

 呑舟の著書や諸記録は相当数あったようですが、安永九年(1780)当時としては長寿の83歳で亡なる前に、全部焼いてしまったといわれています。そのため墓碑と寿蔵碑は呑舟を知る上で貴重なものとなっています。

 昭和45年5月27日に市文化財に指定されました。

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Vol-124 布野台3号古墳の甲冑 墳時代武人の象徴

 布野台古墳群は、布野字台地先にあり、黒部川による沖積平野を見下ろす台地上に立地しています。現在のところ、前方後円墳1基、円墳3基、計4基の古墳が確認されています。

 3号墳は、全長約28m、高さ約2.5mの小型の前方後円墳です。昭和63年に確認調査を行った結果、前方部北側にある張り出し部から木棺直葬と思われる埋葬施設が検出され、衝角付冑・短甲・頸甲・肩甲・鉄剣・直刀・鉄矛・鉄鏃などの武具・武器が出土しました。

出土写真
左上:短甲(後銅)、左中央:短甲(前銅)、左下:衝角付冑、右2点:頸甲、肩甲

 衝角付冑は、桃の実を半分に割ったような形で、後頭部や頬を防御するための錣が取り付けられています。衝角とは、古い時期の軍船の船首下方に突き出した部分で、体当たりして敵船にダメージを与えるためのものです。冑の正面(真向)がこの衝角に似ていることから名付けられました。

 短甲は、鉄板をはぎ合わせて革紐や鋲で留め、上半身の形に合うように作ったもので、主に古墳時代前期から中期に用いられます。古墳時代後期になると、小さい鉄板(小札)を革紐で綴じた、桂甲と呼ばれる動きやすい甲が使われるようになります。
本古墳の短甲は、横長の鉄板を使用して鋲留めした横矧板鋲留短甲という型式です。前胴(腹側)と後胴(背側)に分離していますが、本来は一体となっていたもので、右前胴に蝶番を付け、そこを開閉して装着したものです。

 頸甲と肩甲は、首から胸と肩を防御するもので、左右一対がそろっています。これらの甲冑や武器類の様相などから、5世紀後半頃のものと考えられます。

 古墳から出土する甲冑は、全国的に見ると、甲または冑が単独で出土する例が大半です。本古墳のようにセットで出土するのは稀で、その意味では貴重な発見となりました。

 この甲冑は、市文化財保存館(小見川支所2階)で展示しています。

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Vol-125 横利根閘門と中川吉造胸像 近代の土木遺産

 市の北部を西から東へ流れる利根川は、「坂東太郎」の異名を持つ全国屈指の河川です。

 古くは江戸湾(東京湾)へ注いでいましたが、江戸時代初頭から大規模な河川改修を行い、東へ向かわせ現在のように銚子で海へ注ぐようになりました。

 これにより利根川の中下流域には肥沃な穀倉地帯が広がりましたが、その一方で大雨による氾濫にも悩まされました。

 このため、近代になると政府による大規模な「利根川改修工事」が行われます。工事は明治33年(1900)から3期に分けて、主に洪水を防ぐための築堤や河床の浚渫、湾曲した箇所の直線化、水門などの設置などが行われ、昭和5年(1930)に竣工しました。

 この第2期工事で建設されたのが横利根閘門です。日本で最大級の規模を持つ煉瓦造閘門です。横利根川と利根川の合流点(稲敷市西代地先ふれあい公園内)に位置しています。霞ヶ浦氾濫の主要因であった利根川高水時の逆流を防止し、かつ高水時の船の通航を可能とする目的で設けられたものです。内務技師で内務省東京土木出張所利根川第二期改修事務所長中川吉造を中心に建設が進められ、大正3年8月に起工、同10年3月に竣工しました。

 横利根閘門は、水位調整時の停船場となる閘室と、その両端で門扉を収容する閘扉室からなる、複式閘門複扉式という形式です。大小4枚、計8枚の開き戸式鋼製門扉で水をせき止め、船の交通を確保します。全長は130mほどにもなります。船の通行数は減ったものの現在も使用されており、平成12年に重要文化財に指定されました。

 この閘門の附指定として、対岸の利根川堤防には利根川改修工事、横利根閘門建設に尽力した中川吉造の胸像所があります。中川吉造は明治4年(1871)、奈良県高田町(現大和高田市)に生まれ、明治27年に帝国大学卒業後に内務省に入省し、東京土木出張所長などを歴任、昭和3年(1928)に内務技監になりました近代事業河川土木技術事業の先駆者です。

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Vol-126 妙光山蓮華院観福寺 近在きっての古刹

 観福寺は、佐原地区の牧野にある新義真言宗豊山派の寺院です。新義真言宗は、真言宗中興の祖「興教大師」(1095~1143)の教義を基に新しく打ちたてられた宗派で、豊山派の総本山は奈良県の長谷寺です。

 観福寺は元々、牧野字小山にあり、辻坊と称されていたようです。弘法大師空海が、弘仁年間(810~824)の東国巡錫の際に、この辻坊に泊まったことから、真言宗になったとされています。その後、寛平2年(890)に僧尊海が堂宇を建て、寺号を改めたと言われています。
 
 やがて、観福寺は千葉氏の祈願所となり、以降、多くの武将の帰依をうけました。江戸時代には、幕府から子の年、午の年ごとに、年始の拝謁において独礼寺の寺格を許され、守札を献上していました。

 境内には、元禄年間の建立とされる観音堂、大師堂、講堂、不動堂、毘沙門堂、薬師堂、陀羅尼堂の堂宇と山門、鐘楼、庫裏があり、その伽藍は荘厳ささえ感じさせます。
観音堂には、寺伝に平将門の守護仏であったとされる木造聖観世音菩薩立象(市指定文化財)が安置されています。 

 木造聖観世音菩薩立象の他にも、木造愛染明王坐像、観福寺文書、両界曼荼羅、常光明会曼荼羅、釈迦三尊十六善神象、弥勒曼荼羅、伊能忠敬墓などが市の文化財に指定されており、その制作・建立の時代も古代から近世に及びます。

 また、国の重要有形文化財である銅造の懸け仏4体は、もと香取神宮の本地仏で、明治時代の廃仏毀釈の混乱を経て、観福寺に納められたものです。

 観福寺は、古代・中世・近世の各時代を感じることができる、近在きっての古刹です。
折をみて訪ねてみてはいかがでしょうか。

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Vol-127 大洞山光福寺 臨済宗妙心寺派の名刹

 光福寺は寺内字広長に所在する臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は大洞山といいます。本尊は釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩の三尊になります。

 寺伝によると創建は平安時代後半、延久四年(1072)で、当初は天台宗であったようです。鎌倉中期の建治年中(1275~78)、現在の臨済宗に改宗し、京都妙心寺の末寺となりました。その後、後醍醐天皇の勅願寺として、また足利氏・千葉氏・国分氏など中世武士の帰依をうけています。

 主尊の釈迦如来は、鎌倉期の作と伝わる木造寄木造りの座像で、高さは65センチメートルになります。右脇侍の文殊菩薩は、片足を他の膝頭に乗せて腰かける姿の半跏像で、宝冠をつけ、獅子にのっています。座高は38センチメートルです。また左脇侍の普賢菩薩も半跏像で、白象に乗り宝冠をつけています。市内では、この種の仏像は類例がなく、昭和45年5月に市指定有形文化財となりました。また、寺宝の後水尾天皇から下賜された藕糸(蓮の糸)の袈裟、後醍醐天皇の綸旨・足利氏・千葉氏・国分氏関係の制札などの古文書、領主松平丹後守信圭が寄進した木造十六善神像などの3点は昭和59年9月に市指定有形文化財となりました。

 境内には、本堂・庫裏・山門などがあるほか、本堂裏などに鎌倉時代以来の板碑が存在しています。本堂は間口十間、奥行七間の大きさで、幕末の安政五年(1858)に再建されています。昭和25年、27年に茅葺きの総葺替えがなされ七万束を要したといわれています。昭和49年から50年にかけて、今の銅板葺きになりました。

 光福寺は開基以来、天皇はじめ諸武将などの厚い帰依をうけた由緒ある寺院です。古くは周辺地域が寺領であったことから、「寺内」の地名が残ったともいわれています。

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Vol-128  ユネスコ無形文化遺産「日本の山・鉾・屋台行事」

 なぜ、「山・鉾・屋台行事」なのでしょうか?

 今日、祭礼などで曳かれる造形物を「山車」と呼び、何の疑問も持たずに使用しています。しかし、この「山車」の歴史をみてみると、意外なことがわかります。まずは、「山」「鉾」「屋台」について整理していきましょう。

 京都の祇園祭の山鉾は、中世に行なわれていた風流拍子物と呼ばれる行事を直接の母胎にしているといわれています。風流拍子物では、目印となる先端に飾りの付いた笠鉾と笛や太鼓の囃子という構成で行なわれていました。やがて、この笠鉾の先端の飾り(目印)が横に展開したものが「山」、縦に展開したものが「鉾」になり、囃子の部分を主体として展開したものが「屋台」となって造形的な発展を遂げました。

 肝心の「だし」とは何かというと、鉾の先端にある依り代としての目印のことを呼びます。つまり、「だし」とは鉾の部分名称だったのです。

 近年、この分野の研究が進み、祭りに出される造形物は、囃される「山」「鉾」と、囃す「屋台」の三つに分類されました。また、一般的に使われている「山車」の語は、実は明治中期以降に定着した造語だったことも分かっています。江戸の天下祭りで出されていた「出し」に「山車」の字をあてたことから、関東圏を中心に祭りで曳かれる造形物を「山車」と呼ぶようになったそうです。しかも、明治時代に出版された国語辞書に「山車」(だし)は「だんじり」の東京方言とされていました。

 全国各地の祭礼に出される造形物は、「だし」の発展形だけではなく、その地域が何に楽しみを求め、何を趣向の主体としたかにより、「山」「鉾」「屋台」の中から、様々な形の造形物を造り出したのです。したがって、全国的な名称には、それぞれの本質をもって「山・鉾・屋台行事」とされたのです。

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Vol-129 城ノ台貝塚 縄文時代早期の代表的貝塚

 城ノ台貝塚は、木内字城ノ台地及び虫幡字横畑にあります。標高44mの台地の南斜面と北斜面に貝層が形成され、それぞれ城ノ台南貝塚・城ノ台北貝塚と呼ばれています。明治37年に「桑畑の貝塚」として学会に紹介されて以降、多くの研究者によって発掘調査が行われてきました。

 南貝塚は昭和14年と19年に東京大学人類学教室、平成元年と2年に千葉大学考古学研究室によって発掘調査されました。その結果、貝層は東西約15m・南北約20mの範囲で、縄文時代早期の中頃(約6~7千年前)の土器をはじめ、石器や貝殻制ナイフなどが出土しました。また、平成2年の調査では縄文早期の数少ない2埋葬人骨が検出され、注目されました。

 北貝塚は昭和24年と25年に吉田格氏、昭和63年に小見川町教育委員会、平成4年に香取郡市文化財センターによって発掘調査されました。貝層は東西約8m・南北約15mの範囲で、縄文時代早期の中頃(約7~8千年前)の土器や石器、骨針・ヤスなどの骨角器が出土しています。特に昭和24・25年の調査では、この時期の土器が層位的に発掘されたことから、現在でも縄文早期の土器研究の指標となっています。写真の土器はこの調査で出土したものです。底が尖っていることから、地面に突き刺して使用したと考えられます。

 縄文時代の海岸線は現在より高く、現在の利根川付近に広い内海があったことは良く知られています。発掘調査で出土した貝類は、ハマグリやカキなど海水産のものが主体であることから、城ノ台貝塚が形成された頃には、既に近くまで海水が入り込んでいたのでしょう。

 縄文時代早期の貝塚は全国的にも数が少なく、鴇崎地区の鴇崎貝塚や神崎町西之城貝塚とともに、利根川下流域を代表する早期の貝塚です。

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Vol-130 初代水郷大橋 千葉・茨城両県の架け橋

 国道51号を北に向かって、利根川を渡るところ、本市と茨城県稲敷市の境に水郷大橋が架かっています。

 橋長は535.25m、幅員は25.5mの規模の大橋で、昭和52年(1977)3月に竣工しました。当初は片側一車線の暫定開通でしたが、昭和58年の第二期工事により、現在のような四車線(片側二車線)となりました。中央の塔から斜めにケーブルを張って支える斜張橋の形式を持つ橋です。

 実はこの水郷大橋は架け替えられた二代目の橋で、それ以前は、250mほど下流付近に初代の水郷大橋が架けられていました。

 橋長は553m、有効幅員は6m、二本の主塔を持つトラス橋で、遠くの筑波山と同じような二つの山形が特徴的な橋です。昭和9年(1934)2月20日着工し、同11年3月3日に完成しました。

 当時、陸上交通が普及しつつある中で、利根川には、我孫子市布佐の栄橋より下流に橋がなく、千葉と茨城の往来に支障をきたしていました。このため、旧佐原町を中心に、大正時代末頃から架橋の必要性が唱えられ、運動が行われました。

 架橋にあたっては、はじめ千葉県では費用が掛かることで難色を示していました。そこで利根川の改修工事に携わっていた内務技官の中川吉造氏(香取遺産第124号参照)に相談し工事費を見積もってもらったところ、県の見積もりより安く建設できることがわかり、事業化されるようになったようです。

 実際の工事費は45万円で、国庫補助15万円、千葉県15万円、茨城県10万円に加えて、佐原町では5万円を負担して建設されました。

 利根川両岸の産業、経済、文化の交流に寄与した初代水郷大橋は、架け替えによりその役目を終えましたが、現在、その入口にあった親柱と橋の銘板が県立大利根博物館大利根分館に保管されています。

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