アーカイブ香取遺産 Vol.231~240

更新日:2026年7月28日

アーカイブ香取遺産 Vol.231~240

Vol.231 間近で見るなら今のうち!香取神宮拝殿の塗り直し

 香取神宮では、12年に一度の式年神幸祭に合わせて修理事業などを実施しており、現在は令和8年4月の執行に向けて各種整備が仕上がりを迎えつつあります。
 そうした修理事業の一つに、香取神宮拝殿の塗り直し事業があります。丹塗りの楼門をくぐって正面にあたる拝殿は、多くの方が参拝を行い、中で祭事を行う建物です。
 香取神宮拝殿・幣殿・神饌所として国登録文化財であり、昭和15年に内務省神社局直営で造営されました。屋根は檜皮葺で、正面には千鳥破風と軒唐破風を付けています。足元から頭貫下部までの軸部は黒漆塗り、組物と蟇股は極彩色が施され、高欄などに金具が配されています。なお、この造営にあたり元々あった旧拝殿(県指定文化財)は東側に曳家で移され、現在は祈祷殿として利用されています。

 前回の式年神幸祭の前に拝殿・幣殿・神饌所の塗り直しを行ったところでしたが、雨や西日などによる劣化が正面左側(西側)を中心に進んでいたため、内部を除き正面側を中心に塗り直し等を行いました。具体的には、黒漆の塗り直し、彩色の補修、金具の取り外し修理を中心に実施しています。特に黒漆関係では、旧塗膜掻き落とし、下地作業、中塗り(2~5回)、上塗り、仕上げと、多くの行程を経て行われます。
 11月中には足場が取り外され、塗り直された拝殿を目にすることができるようになります。完成直後の黒漆塗りは、滑らかで艶やかな仕上がりとなっています。しかしながらこうした状態は数ヵ月しか持たないとのことで、年末年始の時期に参拝する機会があれば、今しか見れない艶を目にすることができるはずです。
 今回の式年神幸祭に向けて、香取神宮の参道沿いでは表参道赤鳥居、総門、手水舎、楼門、拝殿正面、本殿透塀で塗り直しや整備が進められました。ご参拝の際には各建造物にもご注目ください。

Vol.232 佐原囃子集成

 今を去ること78年前の昭和23年3月、佐原囃子の伝承における金字塔ともいえる『佐原囃子集成』が刊行されました。
 それまでは口伝による伝承方法でしたが、新たに数字を用いた楽譜を作成したのです。数字符は、邦楽に精通していた菅井誠太郎さんが考案したもので、横笛の吹き口に近い方から1、2、3と塞ぐ指孔を表し、数字一つで二分音符または四分音符を、アンダーラインの数によって八分音符、十六分音符として音の長さを示しています。採譜にあたった岡野全一郎さんは、昭和21年から昭和22年の1年間で各地の下座連を訪ね、50曲以上をノートに記録しています。
 編集にあたった小川智道さんは、その「はしがき」に「口伝の常として多大の日時を費やすことも大きな欠点であった。更に普及の点から考えてはもっと大きな難点になって来る。坐臥の間にして最奥の秘曲まで独習できるとしたら愛好者にとってどんなにか便利なことであろう。その意味からしてもこの編輯には是非とも心血を傾注しても完成しなければならないと思った。」と刊行に至った思いを綴っています。
 『佐原囃子集成』は、岡野さんが所属していた佐原囃子連中によって改訂を重ね、昭和39年に『限定版佐原囃子』が、平成10年には解説編を加えた『佐原囃子集成第三版(楽譜編・別冊解説編)』が刊行されています。
 佐原囃子には牧野・玉造・神里と大きく三つの系統があります。これまでの改訂は、牧野系に属する佐原囃子連中の流儀に基づいたものでしたが、平成14年には神里系に属する内野下座連、平成29年には玉造系に属する大戸下座連の楽譜が、また、令和6年には初版の復刻版が有志によって刊行されています。さらに、昨年、『佐原囃子集成第四版』が刊行されました。戦後、自転車で各地を回った一人の青年の熱い思いは、佐原囃子を志す人々の心に燎原の火となって広がっています。

Vol.233 一里の道標ー銚子道の足跡ー

 市内には、江戸時代に佐原・津宮・小見川など物流や交通の要所である河岸があったことは広く知られています。これらの河岸は銚子から江戸をつなぐ利根川の水運に接した地の利により発達したものです。
 一方で利根川の右岸(南側の岸)には銚子道と呼ばれる側道があります。木下河岸(印西市)から飯沼(銚子市)に通じるもので、とくに滑川(成田市)と飯沼の間は滑河観音(龍正院)から飯沼観音(円福寺)への巡礼道として使われていました。江戸時代の作家十返舎一九の旅行記「金草鞋 十編 坂東巡礼之記」(1817)では滑川から香取市域を経ての飯沼観音への巡礼が紹介されています。
 現在は道の傍らに1里(おおよそ4キロメートル)ごとに石の道標が存在し、かつての銚子道の経路を示しています。道標は天明3~4年(1783~1784)にかけて椎柴(銚子市)出身の僧真永が建てたもので、上部には観音像が浮き彫りされ、下部には飯沼観音までの距離が示されています。飯沼から滑川までの道のりは13里であり、香取市域では阿玉川、下小堀、大倉、佐原イ、森戸、西部田の6基全ての道標が現存しています。厳密に1里ごとではなく、村の境界や寺院など目にしやすい場所に置かれており、巡礼者への配慮がみられます
 なお、佐原から滑川までは道標によると4里ですが、これは十返舎一九が旅行記で示した距離と一致しており、この道標を参考に旅をしたのかもしれません。

Vol.234 本命寺の寺宝と武家の信仰


男神坐像


 本命寺は、大崎北部、水田に面した谷の一角にあります。創建は正暦年間(990~994年)、正応年間(1288~1292年)に中興開山と伝わる古寺です。
 中世においては、千葉六党の一つである国分氏の祈願所であり、正中年間(1324~1325年)には300石の寺領を誇っていました。また国分氏の居城であった大崎城に寺域が接しており、落城の際には、城内にあった妙見祠の厨子が寺内に移されたと伝わるなど、その関係の深さがうかがえます。
 千葉氏は妙見菩薩を信仰しており、市内では荒北砦跡の妙見神社(香取遺産Vol.172)など、その信仰の痕跡が多数見られます。また道教の真武神の影響を受け、長い髪を垂らし鎧を着た姿の軍神として、妙見信仰を形作っていきました。
 本命寺の「妙見菩薩立像」も、その例の一つです。総高39センチメートルで、本体は桧一木造、玄武を表現する台座の亀は桧と別材を矧いでいます。周辺地域に伝わる妙見像の容姿との比較から、室町期の製作と考えられます。
 その他に、「男神坐像」2躯も伝わっており、袍を着たものは榧製で鎌倉期、狩衣を着たものは桧製で室町期の製作と推定されます。ともに像高21.5センチメートルの小像ながら、優れた出来栄えの木像として貴重です。
 これらは3躯とも、市指定文化財となっています。
 16世紀末に国分氏が当地の支配を終えた後も、本命寺は江戸期に大崎村を支配した旗本の一人である中山三郎兵衛の帰依をうけたことが元禄7(1694)年の古文書に記されています。この中山三郎兵衛も、一説には妙見菩薩を守護神としていたとのことです。
 貴重な文化財とともに、武家の信仰の歴史を今に伝えるお寺です。

Vol.235 縄文人は魚とりの名人だった!?

 貝塚では、貝殻の持つ炭酸カルシウム成分のおかげで魚骨などが良好な状態で残されています。
 特に頭や顎の骨は比較的頑丈なため、骨格標本と比較して部位や種類を同定することができます。この作業を通して初めて縄文人がどのような魚を捕獲して食べていたのかが判明します。
 市内に所在する大倉南貝塚(市指定)、阿玉台貝塚(国指定)、良文貝塚(国指定)をはじめ、多くの貝塚が早稲田大学考古学研究室によって調査されました。貝塚から出土した魚骨は、当時早稲田大学で講師を務めていた金子浩昌氏が同定を行っています。
 スズキやクロダイはほぼ全ての貝塚から出土しており、縄文人にとって身近な存在であったといえます。縄文時代後期(約4000~3000年前)には、フグの出土事例が急増するなどの変化が確認されており、縄文人も気候変動による魚種の変化に対応して漁を行っていたと推察できます。
 それでは縄文人は一体どうやって魚を獲得していたのでしょうか。大倉南貝塚で出土したスズキの鰓えらの部分にあたる骨には複数の穴が空いている事例があり(図1)、動物の骨や角から作った刺し突とつ具ぐ を使用し、捕獲していた可能性が指摘されています。
 その他に土器片錘や石錘と呼ばれる錘が遺跡から出土します。土器の破片や石の縁辺に刻み目や溝をつけたもので、網に着けて使用されたと考えられています(図2)。網漁によってイワシなどの小魚が捕獲されたと推定されています。
 以上の点から縄文人は魚の種類や特徴に合わせて捕獲方法を変えていたと考えられます。縄文人は、魚とりの名人といっても過言ではなさそうです。

Vol.236 大六天遺跡

 大六天遺跡は、小見川の一ノ分目に所在した古墳時代から中世の遺跡です。発掘当時、遺跡の大半は失われていましたが、約1万2000平方メートルを調査しました。
 遺跡は利根川を望む台地の先端を占め、昔は眼下に香取の海が広がり常陸国や鹿島灘を一望できた場所です。香取の海を行き来する舟もつぶさに把握できたことでしょう。そのためか中世の戦乱期には城館が築かれました。その際の土木工事でより古い時代の遺構や遺物の多くが消失しましたが、平安時代までは集落が展開していました。
 土木工事は、平坦たん面の削り出し、堀の掘削や溝を伴う柵の設置、土塁の構築、斜面部の整形などです。計画的に区画し、居住区、物見台、広場を配置したことが分かります。居住区は、広く削り出した平坦面の中央です。建物跡が複数あり、少なくとも二時期の変遷が確認できます。物見台は、居住区の南に隣接し、一段高くなっています。櫓などの跡は見つかりませんでした。広場は作業空間と考えられますが、合戦時には兵だまりなどにも使用したのでしょう。また、土塁と斜面部の整形は、平坦面との境に段差を付け、防御性を高めています。斜面部の整形はまるで腰曲輪のようです。
 城館跡の年代は、14世紀から16世紀です。特に15世紀の遺物が多くあることから、この頃を最盛期として16世紀になると徐々に縮小し、以降は一部の区画が埋葬の場となり終焉を迎えました。
 14世紀は鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の内乱期が始まります。室町幕府は関東を管轄する鎌倉府を置くなど、情勢が大きく動いた時代です。一方、香取神宮と千葉一族との間で社領をめぐり、鎌倉府も巻き込んだ騒動もありました。
 15世紀に入ると、鎌倉公方とその補佐役である管領との対立が続き、1454年には、鎌倉公方が管領を殺害し、関東の戦国時代の始まりである享徳の乱が勃発しました。
 このような不穏な空気を背景に、防御性を高めた構に発展させたのでしょう。

Vol-237 香取神宮文書 重要文化財として答申

 香取神宮で所有している「香取神宮文書」が、重要文化財として指定するよう、令和8年3月26日の文化審議会で答申されました。
 香取神宮では多数の古文書を有しており、そのうち中世文書を中心に指定されます。今回の指定資料は、明治期に各社家に伝来していた重要資料を香取神宮で集めた本所古文書や、各社家からの奉納などによって集積した古文書です。
 明治以前、香取神宮の社職は100以上にのぼり、代々相伝されてきました。そして各社家ごとに古文書が伝来しており、特に両社務と呼ばれる大宮司家と大禰宜家、三奉行と呼ばれる録司代家・田所家・案主家に多くの資料が伝わっています。こうした香取神宮関係の社家に伝わってきた文書群は「香取文書」と総称され、江戸時代より徳川光圀をはじめ、幕府や地元の研究者などが調査を行っていました。
 ところが、明治維新後の神仏分離政策により、香取神宮をはじめ全国の社寺はそれ以前とは異なる体制となりました。香取神宮としては独自の中世文書を保有していなかったため、各社家の重要文書を集めたものが「本所古文書」です。また、一部社家からの奉納や香取神宮で集めた中世文書があり、それらが一括で指定されます。
 本所古文書の内訳は、社殿の造替や社領に関する文書のほか、公的な文書として、鎌倉時代以降の「藤氏長者御教書」や宣、室町時代の東国支配に関する鎌倉府発給文書などがあり、総じて下総国一宮としての地位の高さを示すものです。
 中世文書はそもそも総量が少なく、香取神宮関係で体系的かつ多様な原本が伝来していることは、特に中世に動乱が多かった関東において大変貴重です。香取文書は「関東中世文書の宝庫」として研究者に知られており、「香取神宮文書」はその中核をなす重要な資料です。

Vol-238 小見川祇園祭の屋台と風流

 小見川地区小路に所在する須賀神社は、戦国時代には統治者である粟飯原氏が祈願所としていたと伝わり、江戸時代になり領主が変わってもその時々の領主に信仰されてきました。現在は小見川の黒部川西側6町の鎮守として親しまれています。
 7月中・下旬に開催される小見川祇園祭は、屋台が曳き廻される地区を代表する行事です。
 現在の小見川地区には6台の屋台が存在します。いずれも4輪で上下に重なる2層の高欄を持ち、上部の高欄の上には唐破風屋根が設けられています。曳き廻し中は下部の高欄と屋台の中で囃子が演奏され、時折屋台を停止させると囃子に合わせて曳き手による踊りが披露されます。上部の高欄で歌謡などの芸能が披露されることもあります。芸能の披露が終わると囃子の演奏が始まり、曳き廻しが再開されます。

 小見川地区は明治13(1880)年・20(1887)年・21(1888)年に大火にあっており、そのためか資料が少なく祇園祭に屋台がみられるようになった時期は不詳ですが、江戸時代後期と考えられています。建造年が分かる最古の屋台は明治19(1886)年建造の川端のものです。6台の屋台の大まかな構造は佐原の山車の特徴を取り入れていることが明らかです。大きな違いは小見川の屋台は上部の高欄が屋根を持つ芸能の舞台となることであり、佐原の山車は屋根がなく、人形などの飾り物を置く場であることです。小見川の屋台と同様に屋根を持つ屋台は多古町、東庄町に見られ、佐原の山車のように人形を飾る山車は茨城県潮来市、鹿嶋市、行方市などに見られます。各地では最上部の屋根の有無、使い方などの独自の発展があり、それぞれの風流が伝承されています。
 小見川祇園祭の屋台については、令和5年に「須賀神社・小見川祇園と小路町屋台」が出版され、小路の屋台を中心に全ての屋台と祇園祭について資料がまとめられています。

Vol-239 創業二百年の老舗、正上醤油店

 小野川沿い、忠敬橋から少し北へ向かうと、格式ある外観の正上醤油店が現れます。
 寛政12年(1800)創業の佐原でも有数の老舗であり、醤油醸造業は天保3年(1832)から営んでいます。安政5年(1858)の「関東醸造家番付」では、二段目に「油屋庄次郎」として名を連ねており、商品が好評であったことが見て取れます。
 近代に入ってからは、大正3年(1914)刊行の『佐原案内』で、「加瀬醤油製造場」として2500石の醸造高があったことが述べられています。また大正5年刊行『大正三年千葉県統計書』では、年間2800石の醸造が記録されているほか、昭和5年刊行『佐原町誌』によれば、醸造高は3270石と、年々規模を拡大させていたようです。
 経営についても、大正12年(1923)にヤマサ醤油が作成した『房総醤醸地視察報告』によれば、香取郡で当時唯一、圧搾工程に水圧機械を導入するなど、設備投資に積極的であり、その先進性が評価されています。
 現在は川魚の佃煮を串に刺した「いかだ焼き」などのお土産品の製造・販売を中心に行っており、販売所の隣にある店舗・土蔵は県指定有形文化財(建造物)となっています。
 店舗は天保3年の建築であり、2階正面、また1階土庇下に格子が組まれ、屋根は軒を大きく出した「せがい造り」となっています。また1階の戸の内側には、防犯の役割をはたした鎧戸(揚げ戸)が建てこんであるなど、様々な意匠がこらされています。
 土蔵は明治初期の建築であり、1階と2階にそれぞれ通りへ向け、観音開きの窓がついています。
 なお、店舗の外壁は、かつて全面をベンガラで塗られていたようであり、令和7年度には、南側面が塗り直されました。
 二百年続く老舗が、佐原の町並みとともに、歴史を物語ります。

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