アーカイブ香取遺産 Vol.171~180

更新日:2021年7月5日

アーカイブ香取遺産Vol.171~180

Vol-171 城山1号墳の金銅製冠 

 県立小見川高等学校建設に伴い、昭和38年に発掘調査が行われた城山1号墳は、関東地方を代表する後期古墳として知られています。このコーナーでも、この古墳や出土品について何度か触れてきましたが、今回はタイプが異なる2点の金銅製の冠を紹介します。
 金銅とは、銅に鍍金(金メッキ)を施したり、金箔を押したりしたものです。古墳時代に大陸から伝来した手法で、装身具・仏像・建築金具などに用いられています。
写真(1)は、両端が欠損するため本来の大きさは不明ですが、現存長28.4センチメートル・最大幅1.8センチメートルの金銅板で、両端に向かって徐々に幅が狭くなっており、全体を円形に曲げたものです。表面は3本の線で帯状に区画し、それぞれの区画には、短い縦線や小さな円文を連続して配しています。鍍金が良好に残っていて、あたかも純金製であるかのようです。


城山1号墳出土の金銅製冠(1)

 写真(2)は、数10片に割れてしまった破片の一部で、左端の破片の高さは4.8センチメートルです。右の破片は冠の下端で、一部に鍍金が残っています。表面には渦巻文や円文などを打ち出し、右端には金銅板を接合するための小穴があります。中央上の2片は方形や唐草文状の透かし彫りの破片、左は菱形と宝珠形を組み合わせた突起状の飾りで、縁に沿って刻線と円形の打ち出し文が施されています。破片のため全体の形状は不明ですが、本来は、随所に透かし彫りを施して、上部に突起状の飾りを配した冠で、金色に輝く優品であったと考えられます。
 いずれも高度な技術をもった職人の作で、まさに王者にふさわしい装身具と言えるでしょう。これらの出土品は、市文化財保存館(小見川市民センターいぶき館2階)で常設展示しています。


城山1号墳出土の金銅製冠(2)

Vol-172 荒北砦跡と妙見神社 

 荒北砦跡は、荒北区の東側を流れる栗山川に面した台地の先端に位置しています。
伝承によれば、下総国東庄一帯を領した千葉一族東氏の居城、もしくは、同じく千葉一族である国分氏の本拠地であった矢作城の支砦であったといわれています。また、荒北区には国分氏の重臣であった永沢氏の屋敷がかつて存在するなど、千葉氏とゆかりのある地域です。
 砦の明確な築造年代は不明ですが、栗源町史では鎌倉時代とされています。構造は単郭で、三重の土塁が巡らされています。また、東側斜面の中腹には腰曲輪、南側の急斜面には出入口である虎口が確認できるなど、防御力を高める工夫が各所に見られます。

 中央部には妙見神社が鎮座しています。妙見とは、北極星や北斗七星のことであり、古来より信仰をあつめてきました。そして、千葉一族では妙見を一族の守護神として信仰していました。そのため、千葉氏の所領であった地域の寺社にも妙見信仰に関するものが残されています。市内では、岩部城跡の妙見神社跡や鴇崎城跡の星宮神社(妙見様)などがあり、東氏の拠点であった森山城周辺には複数の妙見神社が確認できます。また、荒北砦跡の妙見神社にある「妙見宮」の掛額の裏面には寛延四年(1751年)に奉納したことを示す刻名がみられ、千葉氏が去った後も地域の人々の間で信仰されていたことが窺えます。
 堀などの保存状態の良い砦跡ですが、私有地のため、見学する際はご注意ください。

Vol-173 幕末の志士を支えた砲術家 竹内東白

 江戸時代の末期、明治維新に向けた動きとして尊王攘夷の機運が高まっていた頃、その動きを支えた人物を香取市でも輩出しています。
 新里出身の竹内東白(秀明や賁とも、文政5年<1822>~元治元年<1864>)は幼少より学問を好み、夜遅くまで本を読みふけるような人物と伝わります。成人後、江戸の坪井誠軒のもとで蘭学や西洋医術を学びます。24歳の頃(弘化3年<1846>)、さらに医術の先端地である長崎へ向かいますが、途中大阪の緒方洪庵の「適塾」に惹かれ入塾しました。適塾は後に幕末・維新期に活躍する大村益次郎や福沢諭吉らを輩出した気鋭の塾でした。東白はそこで学びつつ、種痘所の責任者になるなど活躍します。その後は京都の廣瀬元恭のもとに寄宿し、蘭学や医術を学びながら医者として開業します。
 京都での開業後、嘉永6年(1853)『泰西王氏銃譜』を刊行します。これは蘭書の砲術書に解説をつけて翻訳したもので、以降『皇国火攻神弩図説』(安政5年<1858>)など砲術関係の書籍を多く刊行していきます。一方で、当時のアジアへ対する欧米の侵攻や黒船来航などに対する危機感を抱いていた東白は、砲術家として幕末の志士達と活動を共にするようになります。攘夷派の中心人物であった梅田雲浜(1815-1859)や頼三樹三郎(1825-1859)とは特に交流が深く、提言などを行っていました。

 先の二人が獄死した安政の大獄以降は表立った活動はできなかったようですが、砲術関連の書籍は高く評価されています。並木栗水よる碑文に「嗚呼君有奇偉非常之才」とあるように並外れた立派な人物として評された東白は、その活動から幕末の志士達を支えたことが伺えます。

Vol-174 朱があざやかな 香取神宮楼門


香取神宮楼門

 香取神宮の楼門は、元禄13(1700)年に幕府により造営されたもので、本殿とともに重要文化財となっています。緑に囲まれる中で、鮮やかな朱色の姿は壮麗であり、奥に見える黒色の社殿と見事なコントラストをなしています。
 二階建、入母屋造、平入の建物で、柱間が3つ、中央に扉がついた出入口のある、いわゆる三間一戸の楼門です。全体に丹塗りが施され、上層と下層の間には、高欄付きの廻廊をめぐらせています。香取神宮に残る元禄13年造営時の棟札には「京間・桁行四間、梁間二間一尺一寸二分」とその規模が記されています。屋根は銅板葺ですが、これは昭和15年の修理で葺直したもので、かつては栩葺(板葺)であったようです。
 また、正面「香取神宮」の掲額は、日露戦争で連合艦隊を率いた東郷平八郎の揮毫になるものです。

 楼門には2躯の随身像が安置されていますが、正面向って右は「武内宿禰」、左は「藤原鎌足」と伝わります。随身裏手の木彫りの狛犬は、昭和9年に寄贈されたもので、香取神宮の杉で作られました。江戸時代後期に著された小林重規『香取志』などによれば、古くは八龍神が楼上に安置されていたと伝わります。境内を鎮護する役割を担っていたのでしょうか。また、元禄造営時にかつての境内の様子を描いた古絵図には、左右に仁王像が控えた楼門を見ることができます。
 以前は、その楼門前に鳥居が建てられていました。香取神宮の一ノ鳥居とされ、そこから西の方向に伸びていた旧参道への石段の先に、二ノ鳥居が続いていました。
 新年の初詣は混雑を避け、ゆっくりと建物見物も兼ねて参拝してはいかがでしょうか。

Vol-175 大正時代の面影を求めて

 三菱館の保存修理工事も半ばが過ぎ、耐震補強と外観の修理がほぼ完了しました。まもなく、足場が取れて、創建当時の「川崎銀行佐原支店」の姿を見ることができます。


三菱銀行佐原支店旧本館 保存修理立面図

 これまでと大きく変わったのは、屋根です。修理前は銅板葺でしたが、創建当時の天然スレート葺に戻しています。天然スレートとは、粘板岩と呼ばれる岩石のことで、古くから屋根材として使用され、耐久性に優れています。現在、国内での採掘は行われていないことから、カナダ産の天然スレートを使用しました。一枚一枚、反りや厚みに違いがあり、熟練の職人さんの手によって選別され、丁寧に葺かれています。また、ドームやドーマーと呼ばれる丸い窓、塔型の装飾などは、一部を残して新しい銅板に葺き替えました。黒い天然スレートと、まだ赤みを残した銅板とのコントラストは、大正時代の人々と、私たちだけが見ることのできる姿です。

 ここまでの保存修理では、実に多くの職人さんによって支えられてきました。限られた幅に正確に穴を開ける人、複雑な銅板を葺く人、手間のかかる漆喰を扱う人、今は手に入らない金物の作成に取り組む人。木工、鉄骨、板金、左官、塗装、煉瓦、タイルなどなど、現代の職人さんと百年前の職人さんとの真剣勝負が続いています。
 文化財を修理する技術者がいなくなってしまえば、文化財そのものを残すこともできなくなってしまいます。どのようにして技術を残していけばいいのか、この保存修理をとおして、あらためて考えさせられました。
 まずは外観から、大正時代のたたずまいと、現代の技をご覧ください。

弥生時代の一軒家 大崎内野遺跡

 大崎内野遺跡は、佐原区大崎地先に所在します。この地域は下総台地が広がり、小河川による谷が複雑に入り込んだ地形をしています。遺跡は、小さな谷に南側を除く三方を囲まれた台地上にあり、およそ南北250メートル、東西150メートルの広さです。
 調査は遺跡の北側約三分の一、およそ1万平方メートルを対象に調査を行いました。その結果、弥生時代後期の竪穴住居跡が2軒みつかりました。しかも、台地の北西隅の狭い範囲に寄り添うようにしてありました。その他に住居跡などはありませんでした。2軒の住居跡は南北に隣り合い、その間隔は12mです。屋根を葺きおろしていたとすると、その間隔はさらに狭くなります。

 北側を1号住居跡、南側を2号住居跡としました。1号住居跡は半分が残っていました。大きさは長さ6メートル、幅4メートル前後です。2号住居跡は径約3メートルの小さな円形です。2軒とも、中央に日を焚いた炉の跡がありました。出土した土器から2軒は同じ時期に建っていたと考えられます。その大きさと位置関係から、まるで母屋と離れのようで、広い台地の一画に孤立した一軒家を連想させます。

 この地域では、広い平野を望む台地には弥生時代の集落跡はほとんどみられず、小河川の上流域の小さい谷に面して、小規模な集落跡が点在するようです。これは水害の危険が少ない狭い谷水田を営んでいたためと思われます。やがて時代が降り、古墳時代後期になると、遺跡の規模と数が増大します。その背景には、水田などの耕地面積の拡大があり、技術面や社会面での変化が考えられます。

 たった二軒の住居跡の調査でしたが、地域全体にあてはめて俯瞰することで、発掘の結果からみえてくるものがあります。

Vol-177 城山1号墳の金銅装馬具

 馬具とは、人が馬に乗るときに必要な装備の総称で、古墳時代に、乗馬の風習とともに大陸から伝来しました。小見川地区の城山1号墳からは、豪華な金銅装の馬具一式が出土しています。
 金銅とは、銅に鍍金(ときん)(金メッキ)を施したり、金箔(きんぱく)を押したりしたものです。城山1号墳の馬具は、鉄の地金に金銅板を重ねて貼り付けた「(てつ)()金銅張(こんどうばり)」という技法で作られています。

写真(1)は(くら)の飾り金具で、上が後輪(しずわ)、下が前輪(まえわ)に付けられたものです。写真(2)は口に装着する(くつわ)で、口にかませる(はみ)とその両端に付く円形の鏡板(かがみいた)からなります。

写真(3)~(5)は、面繋(おもがい)胸繋(むながい)尻繋(しりがい)といった(かわ)帯に付けられた飾り金具です。(3)(4)は革帯が交差する部分を固定する金具で、(3)を雲珠(うず)、(4)を辻金具(つじかなぐ)と呼びます。(5)は尻繋や胸繋に付けた杏葉(ぎょうよう)という飾りで、環状の内部に斜格子(しゃこうし)文が透かし彫りされています。また、径2.5センチメートル前後の金銅製の鈴もあり(写真(6))、胸繋などに付けた馬鈴の可能性があります。

 古墳から出土する馬具の場合、木や革の部分は腐朽し、金属部分が残っているのが大半です。そのため、どのように馬に取り付けたか不明な点もありますが、馬の埴輪(はにわ)に馬具が表現されている例から、その装着方法を復元することができます。

 本古墳の馬具は、一部に鍍金が残るのみですが、本来は金色に輝く豪華なものでした。甲冑(かっちゅう)を身にまとい、金色の馬具を装着した馬にまたがる姿は、まさに王者として、当時の人々の目に映ったことでしょう。出土品は、市文化財保存館(小見川市民センターいぶき館2階)で常設展示しています。

Vol-178 学びの場と筆小塚

 江戸時代、現在のような公立の学校はなく、寺に設けられた寺子屋や塾が当時の子どもたちの学びの場でした。また、そこで学ぶ者は筆子と呼ばれ、読み書きやそろばんなどを学びました。そして彼らが成長した頃、教えを受けた師が亡くなると、皆で費用を出し合って筆子塚と呼ばれる供養塔を造り、師の経歴や人徳を刻み込んで感謝のしるしとしました。香取市内では、約280基の筆子塚が確認できます。これらは、単なる供養塔ではなく、寺子屋や塾が設けられていたことを知る手掛かりとなります。
 岩部の安興寺や大乗寺には、江戸時代の中頃から明治時代にかけての筆子塚が合わせて7基あります。銘文には西田部や助沢だけでなく、多古町喜多などの筆子が確認でき、様々な地域から子どもたちが集まり、学んでいたことがうかがえます。

 北総地域では、幕末以降になると寺子屋や塾が急激に普及し始め、一部の古刹だけでなく、広い範囲で見られるようになり、岩部に隣接する高萩、助沢、荒北でも筆子塚を確認できます。

 荒北の浄伝寺には堀越小兵衛の筆子塚があります。彼が亡くなった8年後の明治25年に子弟らによって造られ、懇切善良な性格で、学問を好み、近隣に推挙され家塾を開き、子弟たちに学問を教え導いたと刻まれています。地元の要請で塾を開いたことが読み取れる数少ない事例で、小兵衛の人徳の良さや当時の子弟教育に対する需要の高まりが伝わってきます。現在でもこの筆子塚には花が手向けられており、地元で大切にされています。

―水運の物流拠点― 佐原駅の開通と佐原河港

 日本で初めて鉄道が開通したのは明治5年(1872)のことで、新橋・横浜間に開通しました。近年、品川駅や高輪再開発の際に当時の遺構が発見され、その取り扱いが注目されています。千葉県では、明治27年に市川・佐倉間に開通し、その後、成田鉄道株式会社が明治31年(1898)に佐倉から佐原まで延伸しました。

 当時の佐原は利根川水運の要衝でしたが、鉄道の開通を機に鉄道輸送が増加します。大正14年(1925)の年間乗降客数は約48万人、同年の貨物発送量は約4万3千トンでした。主に米・醤油・酒・木材などを扱い、貨物発送量は当時県内第3位で、貨物ターミナルとしての性格が強い駅でした。特に輸送の多くを占めた米などの農水産物は、新島地域および茨城県の潮来・鹿島・稲敷方面から船などで集荷し、佐原駅で貨物車両に積み替えて輸送しました。

 こうした盛況を受け、昭和22年から26年(1947-51)にかけて、佐原駅の北口に佐原河港(佐原港)が整備されました。長さ200m、幅60mに及ぶ内陸港で、荷物の積み替えの便を図るため設けられました。しかしながら、この間に道路交通網が大きく発展し、市内でも昭和11年(1936)に国道51号に初代水郷大橋が開通するなど、陸上輸送が主流となっていました。
 取扱量が伸びなかった佐原港は昭和50年(1975)に埋め立てられ、跡地は佐原コミュニティセンターや市営駐車場などとして使われています。現在、佐原駅の北口バスターミナル付近から歩道橋にかけて、道路脇にあるコンクリート堤や、市営駐車場との境が、かつての駅構内と港の名残と考えられます。

姫宮大神祠碑 小見川火災の記録

 小見川の市街地を流れる黒部川の西岸、新田橋からほど近くの新田地区に姫宮大神が鎮座しています。祭神は天鈿女命で、創建は不詳ですが、言い伝えでは寛永年中に小見川村の他地区より遷座されたもので、その場所に姫宮古跡と称する地名が残ると言われます。明治42年(1909)には同所にあった大宮大神を合祀しています。

 その境内に火災にまつわる記載のある石碑があります。「姫宮大神祠碑」と題された石碑で、明治25年1月に建立されたものです。碑文は久保地区で無逸塾を開いた渡邉存軒の撰文によるもので、そこには「罹祝融之災悉属灰燼、實明治十三年十二月二十五日也」と刻まれています。祝融之災とは火事のことで、明治13年12月25日に火事に遭い跡形もなくなってしまった、といった意味になります。

 小見川の中心市街地は、江戸時代には小見川藩の城下として、また黒部川河口の河港商業町として発展し、黒部川両岸や通りなどを中心に町並みを形成してきました。現在も、その面影を残す商家の建物などが残り、七月の祇園祭で屋台が曳き廻されるなど、その賑わいの一端を見せていますが、一方で過去には大きな火災にも見舞われてきました。正確な時期は不明ですが、新田地区では明治13年12月から1月ころ大火が発生しています。156戸が被害を受け、その火は黒部川対岸の小学校まで及んだとされます。あるいはこの時の火災により姫宮大神は焼失したのでしょうか。

 石碑によれば、その後明治24年に、阿玉川大工棟梁大八木五郎左衛門の手により姫宮大神は再建され、9月1日に遷宮式が行われています。

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