アーカイブ香取遺産 Vol.151~160

更新日:2020年2月26日

アーカイブ香取遺産Vol.151~160

Vol-151 仁井宿に造られた巨大古墳 浅間神社古墳 

 JR佐原駅から東へ1.2キロメートルほどの線路沿いに浅間神社があります。神社は、高さ5メートルほどの小山の上に建てられていますが、実はこの小山、佐原地区では最大級の古墳なのです。
 この古墳は「仁井宿浅間神社古墳」と名付けられています。昭和59年(1984)の社殿改修に先立ち、市の教育委員会が測量調査と試掘を行いました。その結果、全長約60メートルの前方後円墳であることが分かりました。後円部の直径は約32メートル、高さは4.8メートル、前方部の最大幅は21.6メートル、高さ2.6メートルでした。試掘の結果から、古墳の周りに掘られた堀の内側で70メートル、外側で90メートル前後の規模が推定されています。神社の参道から西側の畑の方を見ると、何となく後円部から前方部にかけてくびれている形がわかります。出土した埴輪などから、6世紀の中葉から後半に造られた古墳と考えられています。

 かつて、この辺りは、香取の海とよばれた内海が広がっていました。その香取の海と小野川の沖積作用によって陸地化が進み、縄文時代後期から人々の営みがあったと考えられています。
 仁井宿と呼ばれるこの一帯には、浅間神社古墳のほかにも、前方後円墳である変電所裏古墳、円墳と考えられている図能古墳や狐塚古墳、県立病院裏古墳など、今でも大小の古墳が身近に存在しています。平成17年(2005)に実施した変電所付近の確認調査では、新たに円墳の堀の跡が確認されたほか、8世紀後半から10世紀前半頃の集落跡が確認されています。また、昭和61年(1986)に小野川放水路工事に伴って行われた発掘調査では、中世の大きな井戸の跡が発見されたことでも注目を集めました。
 仁井宿は、香取神宮の古文書にみられる「いとにわ」の比定地とされています。14世紀の南北朝時代には「津」とよばれる港の機能を持った村で「井戸庭」と表記されていました。やがて、井戸庭村は佐原村に組み込まれて佐原の新しい宿となり、「にいじゅく」と呼ばれるようになりました。

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Vol-152 地域の境・気候の境 一ノ分目 境宮神社

 「小見川は雨だったが、佐原では大雪だった」、「佐原は晴れたが、小見川は雨だった」、地元での話や、実際に移動して感じたことはないでしょうか。こうした話では、国道356号線での移動中に、大倉地区付近で変わると感じることが多いようです。
 『千葉県の自然史 本編3千葉県の気候・気象』によると、県内の気候は図のように区分されます。香取市に当てはめると、佐原、栗源、山田の西側が4、小見川、山田の東側に加え北部が5に相当するでしょうか。各気候区の説明は次の通りです。
 4は、千葉県で最も内陸的な気候で、降水量は比較的少なく、冬の気温は低い。北西・北・北東の風が強く、耕地や宅地の防風林・防風垣が多い。台地上は秋から冬にかけて霧が出る。
 5は、気候全般については千葉~木更津周辺の21(冬は北寄りの風が強く、比較的降水量が多く、気温も高め)と大差ないが、冬はやや暖かく、年降水量も21よりやや多い。晴天の時には海風が発達する。台風来襲時は風が強く、塩害が発生しやすい。
 他の気候区の特徴はここでは割愛しますが、おおむね4は内陸性、5は海洋性の気候ということで、香取市内では対照的な気候が同居していることが分かります。市内東部と北部が海の影響を受けるのは、東部は海からの距離が近いため、北部はかつての海を干拓したことと標高が低いためと考えられます。大倉近辺で気候が変わるという話も、実際に気候の境目となっており、裏付けが取れるのです。

 また、この境界線上にあたる一ノ分目地区の台地上に、境宮神社があります。境宮神社は、かつての香取と海上の境界として置かれるようになったとも伝わる神社です。歴史的にも地域の境となっていることになります。平成27年に社殿等が焼失しましたが、地元で多くの協力を得て平成29年に新築した社殿が鎮座しています。
 毎年3月27日より前の日曜日(今年は3月24日)には、拝殿にて昼過ぎから十二面神楽が奉納されます。土地だけでなく気候の境となっているこの神社に思いを馳せながら、社殿と共に一新した用具を用いた神楽を見学してみてはいかがでしょうか。

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Vol-153 保存修理を終えた旧大宮司家の表門


旧大宮司家の表門(神徳館表門)

 香取神宮の参道から総門を正面に見て、右手にある大きな門が、旧大宮司家の表門で、現在は神徳館表門と呼ばれています。
 江戸時代までの香取神宮では、両社務と呼ばれる大宮司と大禰宜を筆頭に100人余に及ぶ神職が奉仕していました。
 その中でも社家総裁の家柄であり、対外的な役割を担った大宮司家は、齋館としての機能を兼ね備え、その表門は、勅使参向の際の出入り口に使用することから「勅使門」とも呼ばれていました。
 大宮司家の格式を示すこの門は、発見された棟札から天明元年(1781)11月、当時の大宮司・大中臣森房が建立したもので、建ちが高く大規模な構造で、桁行3間、梁間2間の切妻造、屋根は茅葺で両袖塀が付属しています。
 間口は21尺(約6.36m)にも及ぶ大規模なもので、四脚門の間口を広げ、本柱筋(棟通り)を3間としたような構成です。本柱筋は、中央の間に扉を構え、両脇間は額縁付板壁とし、潜戸は付設されず、南北両側には、こけら葺屋根付の袖塀(今回の修理によって銅板葺に改めた)が付属し、その南方袖塀に開戸が設けられています。
この門の構造形式は複雑で随所に絵様・繰形を付けています。規模の割りにはやや木柄が細く、構造・意匠ともよくこの時代を表しているといわれています。

また、この建物には、現在も赤色顔料や胡粉が部分的に残され、創建当初は彩色が施されていたことが確認されるほか、蟇股に近世大宮司家の家紋である巴九曜紋が丁寧に彫り込まれているといった特徴もあります。
 大宮司家の邸宅は、神宮に伝わる寛政3年(1791)の絵図面により、わかりますが、残念ながら、昭和21年(1946)頃に火災により焼失し、昭和34年(1959)には「香取神宮御鎮座2600年祭記念事業」として、その跡地に集会等の施設として神徳館が建設され、現在に至っています。
 唯一、火災から免れたこの門は、建立後の、文化14年(1817)と昭和38年(1963)に屋根葺替工事が行われています。

 香取神宮の大宮司家の格式を示す門で数少ない社家建築の遺例として重要であることから、平成7年6月1日に市指定有形文化財となっています。
 この度、経年劣化により、茅葺屋根や躯体の損傷が認められたことから平成29年度から30年度かけて保存修理工事が行われ、往時の姿に復元されました

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Vol-154 山倉大神の石像狛犬

 香取市内の神社には50対を超える石造狛犬が奉納されています。このような石造の狛犬が神社などの参道に奉納されるようになったのは近世になってからです。その後、昭和初頭にかけて様々な石工によって意匠を凝らした狛犬が作られました。市内では鮭祭りで有名な山倉大神に3対の石造狛犬が残されています。
 まず、二の鳥居前には「半身構え」と呼ばれる形態の狛犬があります。この形態は片方が身構えた姿勢をとる狛犬です。千葉県内では、2躯とも座った姿勢が主流の地域もありますが、香取市では片方が身構え、もう片方が歩行しているような形態が主流となっています。この狛犬の石工は不明ですが、製作年代は慶応元年(1865年)で香取市内に残されている「半身構え」の中では特に古いものの1つです。

 次に拝殿前の狛犬は「江戸流れ」と呼ばれる形態で、明治32年(1899年)に奉納されています。「江戸流れ」は派手さを求める江戸っ子文化によって生まれた形態で、参拝者からも見えるように尾を腰の所で巻いたりせずに、垂れるようにそのまま足元へと流れた形になっています。石工は芝新門前町(現在の東京都港区)の植田金治郎と鈴木悦造で、正に「江戸流れ」の本場からやってきた狛犬です。特に鈴木悦造は東京都内にある複数の狛犬で銘文を確認することができます。
 この他に、力石の後ろには年代等は不明ですが、2匹の狛犬が追いかけっこをして
いるように見えるユニークな像も見ることができます。市内で同じ場所に3対もの古い石造狛犬があるのは山倉大神だけですので是非見学してみてください。

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Vol-155 鴇崎天神台古墳

 鴇崎天神台古墳は、市西部の鴇崎地区にあった古墳です。大須賀川を見下ろす台地先端に築造された東西40m・南北32mの円墳で、円墳としては市内有数の規模を誇ります。山砂採取事業に先行して昭和48(1973)年に発掘調査を行った結果、墳丘の中央から粘土槨と呼ばれる埋葬施設が発見されました。

 粘土槨は、遺骸を納めた木棺の周りを粘土で覆ったもので、古墳時代の前期から中期にかけて用いられた埋葬方法ですが、千葉県内では数少ない事例となっています。本古墳では、長さ6.5~8.2mの粘土槨が3基並んで検出され、粘土の厚さは約50センチメートルです。木棺は腐朽して残っていませんが、棺を覆う粘土の断面形から、丸太を縦に割って内部を刳り抜いた「割竹形木棺」であったと考えられます。また、人間の身長に対して、このように長い木棺を使うのは、古い時期の古墳の特徴です。
 棺内からは、鉄剣や滑石と呼ばれる軟らかい石で作った刀子(ナイフ)・斧・臼玉などが出土しました。これらの出土遺物から、本古墳の築造年代は、5世紀前半ごろと考えられます。
 周辺には、大戸地区の大戸天神台古墳(4世紀)、森戸地区の権現前古墳(5世紀後半)・大法寺古墳(6世紀前半)、大戸川地区の禅昌寺山古墳(6世紀中葉)といった前方後円墳があり、大須賀川流域を支配した歴代の首長墓と考えられています。鴇崎天神台古墳は前方後円墳ではないものの、市内有数の大型円墳であることから、大戸天神台古墳の次世代の首長墓かもしれません。

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Vol-156 油田牧の野馬込跡(のまごめあと)が国指定史跡に

 6月21日、国の文化審議会は、九美上地区及び福田地区にある油田牧の野馬込跡を「下総佐倉油田牧跡(しもうささくらあぶらだまきあと)」として国の史跡に指定することについて、文部科学大臣に答申しました。香取市では、良文貝塚・伊能忠敬旧宅跡・阿玉台貝塚に次いで、4件目の国指定史跡となります。
 ここでいう牧とは、江戸時代に軍馬養成のために幕府によって整備された牧場で、県内には佐倉七牧・小金五牧・嶺岡五牧が設置されました。油田牧は、このうちの佐倉七牧の一つで、現在の佐原地区南部から栗源地区北部の範囲にあたり、馬が逃げないように牧の外周を囲む野馬除(のまよけ)土手跡、牧の内部を仕切る勢子(せこ)土手跡、馬を集めて選別する野馬込跡などが今でも残されています。

 今回、国の史跡に指定されるのは、野馬込跡とその隣接地6,432.09平方メートルです。野馬込跡は、平面形が一辺約60mの三角形で、周囲を高さ2~3mの土手で囲い、内部は土手によって3つの区画に分かれています。毎年行われる野馬捕りでは、牧の馬をここに追い込み、選別しました。3つの区画は、馬を捕える「捕込(とっこめ)」、幕府に送る馬や農耕馬として払い下げる馬を入れる「溜込(ためごめ)」、繁殖のため野に返す若い馬を入れる「払込(はらいごめ)」にあたります。この行事は牧の最大行事で、近在から見物人が集まり、大いに賑わったようです。
 国は「近世における馬牧の様相を知る上で貴重な遺跡」と評価しており、今後、官報告示により正式に史跡指定となります。現在、樹木や雑草が繁茂しているため見学は困難ですが、市としては、国・県と協議しながら史跡整備を進めていく予定です。

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Vol-157 八坂神社の旧神輿

 佐原本宿地区の八坂神社では7月中旬に祇園祭が執り行われます。その祭礼の神輿は昭和38年(1963)に作られたものですが、これ以前の旧神輿も残されています。四角形の神殿をかたどった神輿で、今のものより大型です。
 神輿の構造は、大きく下から台輪(台)、胴(本体)、屋蓋(屋根)からなります。台輪は四面に右三つ巴紋をあしらった約128センチメートル幅の黒漆塗りで、2本の轅(担ぎ棒)が差し込まれています。台輪の上に乗る胴は四方に鳥居が建ち、周囲は井垣で囲まれていて、全体に朱塗りに仕上げられています。屋蓋は一辺約170センチメートル四方の方形造り、黒漆塗りで、頂部に大鳥(鳳凰)、四隅の蕨手には小鳥(燕)が飾られています。台輪下から鳳凰を含めた総高は230センチメートルほどで、轅を含めた重量は720kgにもなるようです。

 屋蓋四面には三つ重ねた輪宝紋がついています。輪宝とは、元は車輪の形をした古代インドの武器で、仏教に取り入れられ転輪聖王の所有する宝の一つとされます。仏教にゆかりのある紋ですが、明治以前は神仏習合であったことに関係があるのでしょうか。
 ほかにも、胴四隅の龍の彫り物、屋蓋に下がる瓔珞、随所に施された飾り金具類など、全体に手の込んだ造りとなっています。
 製作年代は不明ですが、神社に残る嘉永4年(1851)の古文書には、新規に神輿を仕立てる旨のことが記されているので、あるいはこの時の神輿かもしれません。
 昭和40年(1965)に市指定文化財となり、現在は水郷佐原山車会館に展示されています。

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Vol-158 三菱銀行佐原支店旧本館 保存修理工事 -創建当初の姿を求めて-

 今から105年前、佐原上仲町の大通り沿いに、銅板葺のドームを配した煉瓦造りのモダンな建物が姿を見せました。その建物は、清水満之助商店(現:清水建設)が設計・施工した川崎銀行の佐原支店でした。
 川崎銀行は、水戸の川崎八右衛門が明治13年(1880)に創立したもので、佐原には当初から営業所が置かれ、明治31年(1898)には支店に昇格しています。
 現在は市の所有となり、佐原三菱館として親しまれている佐原支店は、東日本大震災以降8年の間、内部の公開は控えています。その間、耐震診断・基本設計・実施設計を行ってきました。実施設計には、香取市で初めて技術支援者として施工者が早期に関わるECI方式を採用しました。技術支援の過程で行われた様々な調査では、煉瓦で積まれた暖炉の基礎や煙突の穴、設計図とは異なる螺旋階段の基礎などが確認されました。今後、それらの成果をもとに、創建当初の姿へと復原していきます。
 耐震補強工事は、45センチメートルほどの厚さの煉瓦壁内に、直径5センチメートルの穴を天井から床付近まで垂直に開けていきます。その中に直径1.7センチメートルの鋼棒を差し込み、コンクリートを流し込んで固める特殊な工法を採用しています。それにより、内外部の意匠・景観を損なうことなく、耐震補強が行えるのです。
 7月からは本格的な保存修理工事が始まりました。工事期間中は覆い屋に隠れるため、その姿をお見せすることはできませんが、完成のあかつきには、川崎八右衛門がこだわり、清水満之助商店が手掛けた川崎銀行佐原支店の姿をお見せすることができるでしょう。

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Vol-159 上中宿区 山車保存修理

 佐原の山車行事は、国の重要無形民俗文化財、ユネスコ無形文化遺産として、今や世界に知られる伝統行事となりました。25台ある佐原の山車のなかでも、上中宿区の山車は「嘉永5年」(1852)の建造と伝わる古いものです。その姿は、黒漆・透漆・朱漆を塗り分け、御簾の額縁などに螺鈿を施し、華麗に仕上げられています。また、彫刻は全部で57枚あり、山車全体で源頼朝の富士の巻狩りの一場面を表す趣向になっています。山車正面上部に掲げる扁額も富士山の彫刻です。彫刻・扁額は「嘉永4年」(1851)の完成と伝えられています。
 保存修理計画は、学識経験者からなる佐原山車行事伝承保存会評議委員会の審議の後、平成29年度から「国宝重要文化財等保存・活用事業費」の国庫補助金を受け実施すことになりました。実に、建造から165年を経て、初めての大規模保存修理です。計画では、部材の再利用という文化財保存修理の基本に沿って行い、新規材の使用は、腐朽などにより再利用のかなわない部位に限ります。漆は、下地からの塗り直しです。作業は、平成29年10月の例祭後に着手しました。平成30年は行事を休止し、三年に一度となる令和元年の本祭に間に合うよう作業を進めました。この9月までに、山車の最終組上げを行い完了しました。


保存修理後の上中宿区の山車(飾りつけ前)

 今月の新宿諏訪神社本祭では、修理を終えた山車が曳き廻されます。山車の老朽化で久しく行われなかった「のの字廻し」も披露されます。一年休止してでも、嘉永5年建造の山車で、行事を伝承する決断をした上中宿区の強い思いが、皆さんにも伝わることでしょう。

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Vol-160 克復館養気園の門柱

 市内ではかつて、明治時代中頃に地域住民の中等教育への要求から、小学校卒業生を対象とした私塾が多く設立されました。その1つに布施亀次郎が山田地区の古内に設立した克復館があります。
 亀次郎は、螟蛉塾(佐原)や二松学舎などで漢籍を学んだあと、明治38年(1905年)に克復館を設立しました。大正5年(1916年)には、大正天皇の大礼記念として克復図書館を開設しました。漢籍を中心に3千冊を超える書籍があり、多くの人が利用しました。また、私塾でありながら養気園という運動場もあり、そこには富士山を望む築山があったと言われています。

 当時の若者達からは「良文の無逸塾か、古内の克復館か」と言われる程の人気でしたが、後継者がおらず昭和の初めごろには私塾としての役目を終えます。後に建物は山田町公民館府馬分館として使われていましたが、火災で失われてしまいました。しかし、運動場の入口に立っていた門柱は現在でも残されています。
 昭和8年(1933年)に建てられたこの門柱には、漢詩が刻まれています。そこには夕日に染まる雪山の様子や朝日に照らされた雲の様子について書かれており、富士山を連想させる内容のようです。わずかに私塾の面影を残す門柱ですが、ここから当時の若者達が学んだ情景を思い浮かべてみてはいかがでしょうか。

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