忠敬の足跡
更新日:2022年4月27日
佐原時代
延享2年(1745)、上総国山辺郡小関村(現九十九里町小関)に生まれた忠敬は、17歳で佐原の伊能家に婿養子に入り、50歳で江戸へ出るまで佐原の名主・村方後見を務め、家業では醸造業等を営んでいました。
▲ 伊能忠敬出生の碑
忠敬の生誕の地です。生家は残っていませんが、徳富蘇峰による記念碑が昭和12年に建てられました。千葉県指定史跡です。
▲ 伊能忠敬測量公園
忠敬生誕250周年(1995)を記念して、「伊能忠敬出生の碑」の脇に記念公園がつくられました。天体観測を行った象限儀(中)とともに銅像が建っています。
▲ 成長の碑
6歳で母が亡くなり父・兄・姉が父の実家(神保家)に戻りました。忠敬は10歳で神保家に戻り、17歳で伊能家に婿養子に入るまでの青年期をすごした場所です。
▲ 伊能忠敬旧宅
忠敬は17歳から50歳までこの家で、主な家業である醸造のほか村のため名主や村方後見として活躍しました。店舗・正門・書院・土蔵は国指定史跡(昭和5年4月25日)です。
旧宅の詳細はこちらをご覧ください。
▲ 八坂神社
忠敬は、佐原本宿地区鎮守(八坂神社)の例祭附け祭りである山車祭りでの揉め事を収めました。
▲ 佐原村河岸一件
佐原に河岸役という税金をかける幕府の政策に対し、村を代表して折衝にあたり、賦課されないように努力しましたが、結局忠敬と同族の二人で支払うことを願い上げています。
▲ 奥州紀行
5~6月に松島へ旅行しました。行きは太平洋沿い、帰りは内陸を通り、約1カ月の旅行でした。途中、松尾芭蕉、藤原定家、西行等の歌を書き留めています。
▲ 竹駒神社
宮城県岩沼市にあり、社伝では承和9年(842)、奥州鎮護を祈願して創建されました。日本三稲荷のひとつにも数えられます。松尾芭蕉も参詣しました。
▲ 芭蕉句碑
芭蕉が奥の細道で詠んだ句「桜より松は二木を三月越し」の句碑を竹駒神社に見て、それを書き留めています。
▲ 家訓書
第一 仮にも偽をせず、孝悌忠信 にして正直なるべし
第二 身の上の人ハ勿論、身下の人 にても教訓意見あらば急度相用堅く守べし
第三 篤敬謙譲にて言語進退を寛裕ニ諸事謙り敬ミ、少も人と争論など成べからず
▲ 旅行記
佐原にいる頃から暦学を独学で学んでいました。隠居の前年に伊勢神宮へ旅行した時には、すでに方位や緯度を測り始めていました。
全国測量
55歳で北海道南岸の測量を行い、以後計10回に及ぶ日本全国の測量を71歳まで行いました。忠敬は73歳で亡くなりますが、彼の没後3年にして日本全図は完成しました。
▲ 伊能忠敬住居跡碑
深川黒江町、この地に50歳から69歳まで住み全国測量へ向かいました。出発前には必ず近くの富岡八幡宮に詣でてから出発しました。(江東区登録史跡)
▲ 函館山忠敬レリーフ
通常、平地から山の方位角を測る忠敬にしては珍しく、函館山に登り方位を計測しました。それを記念したレリーフが昭和32年に作られました。
▲ 最東端到達記念柱
第1次測量では、蝦夷地南岸を測量しました。忠敬にとって、最北・最東端である西別まで測りました。平成16年に別海町により記念碑が建てられています。
▲ 横芝光町北極出地の碑
享和元年(1801)第2次測量の時、生まれ故郷近くで北極出地を計測しました。その記念碑です。
▲ 星座石
享和元年(1801)釜石市唐丹を測量し、地元の葛西昌丕が記念して文化11年(1814)星座石と測量の碑を建てました。(岩手県指定史跡)
▲ 象潟
享和2年(1802)、松島と同じ海に小島が浮かぶ美しい景勝地、象潟を測量しました。しかし、翌年の大地震で海底が隆起し、現在は松の小山のような景観となっています。
▲ 坂部貞兵衛の墓
文化10年(1813)、測量隊で最も信頼の厚い坂部が亡くなり、「鳥の翼を落としたようだ」とたいへん悲しみました。墓は五島列島福江島宗念寺にあります。
▲ 伊能の碑
文化9年(1812)、3月~4月の約1ヶ月かけて屋久島の測量を行いました。忠敬にとって最南端の測量です。碑は平成12年に上屋久町により建てられました。
▲ 茅場町忠敬住居跡
日本全図完成のため、黒江町から引越しましたが、全図完成を待たずに73歳で亡くなりました。全図はその3年後弟子たちによって完成しました。
▲ 高輪大木戸跡
東海道を測量するのに、便宜上起点とした場所です。(国指定史跡)
▲ 源空寺墓
忠敬の遺言により、師高橋至時の隣に葬られました。墓碑には交友のあった佐藤一斎による忠敬の生涯が刻まれています。(国指定史跡)
▲ 観福寺墓
伊能家の菩提寺である佐原観福寺には、遺髪と爪が埋葬されていると言われています。(香取市指定史跡)
伊能図の完成
伊能図には、1821年完成の「大日本沿海輿地全図」のほか、測量ごとに作った地図や名勝地を描いたものなど、多くの種類があります。いずれの地図も実際に測量してつくられたので、とても正確であるとともに、芸術的な美しさを備えています。
▲ 麁絵図
測量経路を含む風景を描いたものです。
▲ 下図
測量したデータを基にした下書きの地図です。この段階で誤差補正が行われ、伊能図の元地図となります。
▲ 大図
完成した下図に朱色の側線、藍色の海、黄色の砂浜、緑色の山岳を描き、提出用伊能図(大図)が完成します。さらに縮尺して中図、小図を作成します。
▲ 小図
1次~4次測量の成果をまとめて幕府に提出したときの東日本の地図です。
▲ 琵琶湖図
名勝地の地図として特別につくられました。
▲ 安芸国厳島図
名勝地の地図として特別につくられました。
地図の世界
世界から見た日本、日本人が理解した日本の姿を紹介します。
▲ 改正日本輿地路程全図
実測された地図ではありませんが、江戸時代後期から広く出版され、幕末まで日本地図として利用されました。
測量器具
▲ わんからしん
道を測る導線法の測量に用いる測量器具です。角度1度まで読むことのできる方位盤です。
▲ 半円方位盤
導線法の測量誤差を補正するために、交会法の測量に用いた測量器具です。山などの角度を計測した方位盤です。
▲ 象限儀(中)
天体観測を行う測量器具です。全国測量約3700日の期間中、1,000ヶ所以上の場所で天体観測を行いました。
▲ 象限儀(小)
垂直の角度を測る器具です。坂道では斜辺長を測るため、そこでの垂直角度を測り計算により地図に必要な水平距離を算出しました。
▲ 御用旗
幕府の公用であることを示して全国を測量しました。
▲ 垂揺球儀
振り子が1日約59,000カウントすることを利用して、経度測量に用いました。
そのほか
▲ 測量日記
忠敬は、55歳から71歳まで約17年間の測量中、毎日日記を書き留めていました。それにより、10回に及ぶ詳細な測量経路がわかります。
▲ 山島方位記
導線法による誤差補正のために交会法が用いられましたが、山や島などの方位角を記録した資料です。全67冊にも及びます。
▲ 雑録
緯度一度を確定するため、各地点の測量成果が記されています。