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アーカイブ香取遺産 Vol.101~110

更新日:2016年2月1日

アーカイブ香取遺産

Vol-101~110

Vol-101 牧野大坂遺跡 近世の塚の地鎮跡

 牧野大坂遺跡は、牧野字大坂に所在します。観福寺の西約0.8キロメートル、標高約35mの台地にあります。都市計画道路の建設に伴い、平成23年に発掘調査を実施しました。

 遺跡のある台地上は、平らな地形でしたが、これは近代以降の土木工事で発生した残土を盛り上げたためによることがわかりました。この残土を取り除くと、今まで知られていなかった塚が姿を現しました。円形のものが2基、方形のものが1基です。県道をを挟んで東側にある源治社の境内に所在する塚群と一連のものと思われます。

 この内の1基から、築造する際の地鎮に使用された遺物が出土しました。この塚は直径約5mの円形で、高さは約1mと低いのですが、南へやや傾斜する位置にあるため、実際よりも大きくみえるように築かれています。

 調査は、塚の盛土の状況を観察するため、十字に土手を残して掘り進めました。盛土からは埋納品などの遺物は出土しませんでした。しかし、塚を築造するために整地をした面から、素焼きの皿5枚と銅銭12枚がまとまって出土しました。

 素焼きの皿は、口径約12センチメートルで、ほぼ同じ大きさです。約30センチメートル四方の範囲に、中央に1枚、東西南北に各1枚ずつ整然と置かれていました。

 銅銭は、北に置かれた皿の周辺に集中していました。6枚は江戸幕府により寛永13年(1636)に鋳造が開始された「寛永通寶」です。残る6枚は、今の中国である北宋で995年に鋳造が開始された「至道元寶」で、中世に日本に輸入された銅銭です。

 市内で発掘調査によって明らかになった塚の地鎮跡の貴重な事例です。

 塚の築造と地鎮には、地理的な位置関係から、観福寺の関与も考えられるでしょうか。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成26年11月15号(PDF:556KB)掲載)

Vol-102 山之辺のささら舞を伝える弥勒碑 ふりょうがまいるどれからまいる

 市の西部、玉造の住宅地を臨む台地の奥に、ひっそりとたたずむ石碑があります。この石碑は昭和12年の4月に地区の人たちによって建立されたもので、正面には「筰簓舞先祖越後国弥勒碑」と刻まれており、背面には昭和53年まで、この地に伝承されていた「ささら舞」についての起源が記されています。その内容は「神話の昔、香取の祭神である経津主命が豊葦原中津国を平定する際、陣中で踊らせたものが伝わったという。詳細を記した文書は嘉永年中に火災にあい焼失してしまった。言い伝えでは土御門天皇の時代(鎌倉時代)に香取神宮の神幸祭に供奉していたが、やがて時代とともに衰退し、徳川の時代になって、越後の国の弥彦神社の神主弥勒という人が来て調子を整えた。その弥勒塚と伝えるこの跡に一碑を建ててお祀りする」というものです。

 今は伝承が途絶えてしまっている、「ささら舞」とはどのような芸能だったのでしょうか。

 「ささら舞」はその名のとおり、「ささら」という2本の竹を摺りあわせる楽器を用いる舞(踊)のことです。ささらを持つのは14人の児童で、これに露払いの天狗、大太鼓、小太鼓、笛がつきます。ささらの踊りは、天狗を中心にささら役が輪になって囲み、手に持ったささらを大きく摺りながら踊歌に合わせて輪をすぼめて行くというものです。「山之辺のささら舞」は、ささらを使って囃はやしたてる行為がすなわち踊りになっているもので、その出で立ちや踊りの形からも中世以来の風流踊を伝えていました。

 「ふりょう(=風流)がまいるどれからまいるこうや駿河の国からまいる」という歌い出しは、この芸能の出自をなにより物語っているといえるでしょう。

ささら舞の起源が記された弥勒碑

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成26年12月15号(PDF:566KB)掲載)

Vol-103 山倉の念仏塚 江戸時代の名主の供養塚

 山倉の念仏塚は、山倉地区にある成田の森ゴルフ場脇の市道沿いにあります。一辺7m、高さ3mほどの方形の塚で、塚上には大日如来像を彫った石碑が建っています。

 江戸時代前期、山倉村では他領より高い年貢に苦しんでいました。明暦3年(1657)ごろ、さらに増税を課せられて困窮した村民たちは、当時の領主に対し強訴しました。強訴とは、江戸時代、農民がお上に対して順を踏まない違法な直訴をすることで、いわゆる百姓一揆にあたります。強訴の内容は、年貢の減免や村役人の交代などが多く、当時では重罪にあたる行為です。

 強訴は領主によって鎮圧されましたが、時の名主・長兵衛は強訴を抑えることができなかったとして遠島の刑に処せられ、その地で生涯を終えました。長兵衛の死後、村民は、自分たちの代わりに刑に処せられた長兵衛を偲び、塚を築いて香華を手向け、念仏を唱えて供養したと伝えられています。

 塚上の石碑には「奉納大乗妙典六十六部日本廻国/享保十四己酉十月吉日/山倉村/苻馬長左衛門」と刻まれています。これは廻国塔あるいは六十六部廻国供養塔という碑で、大乗妙典と呼ばれる法華経を66部書写して、全国66カ所の霊場を巡礼して納めたことを記したものです。碑に刻まれた享保14年(1729)は強訴の約70年後にあたり、長左衛門は長兵衛の子孫といわれています。長兵衛の菩提を弔うために巡礼したのでしょうか。

 山倉村の強訴に関する史料は残っていないため、すべて伝承によるものですが、名主など村の代表者が監督不行届の責で処罰されることは、江戸時代では多々あったようです。

 他に近隣の畑とゴルフ場内にも廻国塔が建つ塚があり、計3基の塚が「山倉の念仏塚」として市の文化財(史跡)に指定されています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成27年1月15日号(PDF:594KB)掲載)

Vol-104 光明院阿弥陀堂 源満仲ゆかりの古刹

 多田地区に所在する光明院は、平安中期の武将で、多田源氏の始祖である源満仲にゆかりのある真言宗の古刹です。本尊は大日如来で、八幡山西福寺と号します。

 寺伝によれば、天慶のころ、下総国で反乱を起こした平将門を追討するために下向した満仲が、亀甲山(香取神宮)付近に陣を構えたところ、そこから見える地勢が故郷の摂津国多田荘に似ていることから、この地を多田と名付け、八幡宮を勧請するとともに一寺を建立したとされます。

 境内には、満仲供養のためといわれる塚があります。高さ2mほどで、周囲に墓域や擁壁などがあり、その形状は明確ではありません。塚上に高さ約1・8mの五輪塔が立っています。ただし、この五輪塔は、頂部に宝篋印塔の宝珠や九輪が載るなど、本来の形状とは異なります。いつの時期か石塔を組み直した際に誤ったものと思われます。塚は傍らの八幡宮とあわせ、市指定史跡となっています。

 塚の北東側には、県指定文化財の阿弥陀堂が隣接します。方三間の寄棟造、茅葺屋根の仏堂で、近年は前面屋根の劣化が始まっています。四周に縁を廻らし、建具は前面中央に嵌め殺しの格子戸、前面両脇間および側面手前二間は引き違いの板戸となっています。周囲に配された十二支が彫りこまれた蟇股や組物などには胡粉や彩色の痕跡が残り、かつての彩り鮮やかな姿が想像されます。また、内部は天井や組物間の琵琶板に彩色画が施されています。

 このほか、軒下の組物、柱の粽(上下端をすぼめた箇所)、須弥壇、格天井など、禅宗様の建築の特徴が残っています。

 この阿弥陀堂は多田対馬守平胤秀という人物が、祖先の冥福を祈り天正6年(1578)に建立したと伝わりますが、以前実施した保存修理の調査では、棟札などの建立を裏付ける資料は確認できませんでした。ただし、各部分の様式的特徴から、少なくとも近世初期に遡るものと推定されます。

塚上の五輪塔

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成27年2月15日号(PDF:578KB)掲載)

Vol-105 荘厳寺 人々に支えられた寺

 諏訪山不動院荘厳寺は諏訪台字天王台に所在する真言宗の寺院で、牧野観福寺の末寺から単立となりました。以前は北横宿にありましたが、昭和26年(1951)に現在の位置に移転しました。

 創建は寺伝によると江戸時代初期の寛永18年(1641)となっていますが、境内には永仁7年(1299)・文明・天文などの紀年銘をもつ板碑が存在しており、これらが本寺のものだとすれば鎌倉時代にさかのぼるものと考えられます。

 寺には、不動明王、十一面観音菩薩などが安置されています。この不動尊は明治初年、佐原の佐藤氏が実家である新潟県蒲原郡菅谷村(現・新発田市)から勧請したことから、「菅谷不動」とも呼ばれています。また、同氏は同年、神仏分離によって廃寺となった香取神宮の別当寺金剛宝寺の本尊十一面観音を譲り受け、同寺に寄進しています(詳細は香取遺産第59回を参照)。この十一面観音は昭和34年に国の重要文化財に指定され、平成元年に本堂裏手の観音堂に安置されました。

 本堂正面には、「不動尊」の扁額が掲げられています。これは、幕末から明治にかけての政治家、剣客として知られた山岡鉄太郎(鉄舟)の書で、実に力強く書かれています。

 また、江戸時代後期の寛政9年(1797)に寄贈された大般若経六百巻が伝わります。この大般若経は鉄眼版一切経といわれ版木をもとに摺られたもので、全巻が現存しています。各巻の表紙裏には寄付者名が記載されており、当時の人々の仏に対する思い、信仰の深さをうかがい知ることができます。昭和58年に修復され、経典を一斉にめくり、たたみ込むことで全体を読んだこととする転読が除災の願いのもとに行われました。

 平成元年に続き、先の1月28日には3回目の転読が行われました。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成27年3月15日号(PDF:1,117KB)掲載)

Vol-106 大和国寺社 霊宝録 計量される仏像

忠敬、謎の行動

 日本地図作製のために全国を測量した伊能忠敬は、その旅の途中、奈良盆地周辺で不可解な行動をみせます。測量地図をみると、主要な街道から離れた寺社の社前や門前に向かって忠敬が測量した線(測線)が延び、再び街道に戻って測量を続けていることがわかります。また、無測量で寺社や古墳などを見ながら移動している場合もあります。約1カ月をかけて、飛鳥時代の建築物が残る法隆寺や薬師寺をはじめ、東大寺、唐招提寺、長谷寺、吉野の金峯山寺などを訪れています。

仏像の「測量」

 当時から奈良は観光名所として名が知られていました。忠敬も寺社めぐりが奈良測量の大きな目的だったと思われますが、しかし、それは単なる観光のためではなかったようです。この測量の過程で忠敬は「大和国寺社霊宝録」を残しています。内容は寺社の縁起、宝物の一覧です。特筆されるのは、建物や仏像の長さや大きさも記録していることです。例えば、大仏で有名な東大寺では「金銅廬舎那仏座像御長五丈三尺五寸(16・2m)」と、大仏の大きさが記されています。

尺度調査のために

 古くから、長さの単位(尺度)には曲尺や鯨尺などいくつも種類があり、時代や地域、目的などによってさまざまな尺度が用いられていました。測量や地図作製の上で、尺度は大変重要なポイントでした。
 奈良での測量を終えて忠敬が江戸に戻った後、忠敬の先生の一人である間重富は、中国の古い尺度を明らかにするため、建築年代の古い寺の仏像、釣鐘などを測定しています。忠敬は、この古尺調査の下調べや情報収集のために、寺社を訪れたのではないかと考えられています。
 この「大和国寺社霊宝録」は、現在記念館で開催中の収蔵品展にて現物を公開しています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成27年4月15日号(PDF:1,055KB)掲載)

Vol-107 香取神宮の旧拝殿 祈祷殿

 楼門を過ぎて右側に見える丹塗の祈祷殿は、かつて、香取神宮拝殿として使用されていたのを曳屋によって移築したものです。

 香取神宮の主な社殿や付属する諸施設は、元禄13年(1700)、5代将軍徳川綱吉の命により造営されました。この時に本殿・拝殿・楼門・摂社・末社や、境内の愛染堂・経藏などの仏教関連施設も整えられました。

 しかし、後者は明治初年からの廃仏毀釈によってその大部分は失われました。

 その後、昭和11年から15年にかけて昭和の大修築が国家事業として実施され、これまであった幣殿を取り壊し、拝殿については南東方向に移築。その場所に新たな拝殿・幣殿を造営し、本殿と連なった権現造の様式となりました。

 昭和13年に移された旧拝殿は周辺の樹木の成長などのため、昭和59年、さらに西へ1.5mほど移動し、今日に至っています。

 旧拝殿は桁行五間、奥行三間で正面中央に一間の向拝を持つ入母屋造です。切目縁は、四方(建立当初は、正・側面の三面)に回り、背面柱筋に脇障子を立てています。建立時の屋根は、栩葺でしたが昭和40年に銅板葺に改められました。正面の向拝回りの木鼻・蟇股・手挟の彫刻や虹梁に彫られた渦文の深さなどに製作年代の様式が示されているといわれています。

 壁や柱は丹塗で、内部は間仕切を設けず一室とし、背面の突出部を神棚としています。床は拭板敷、天井は格天井で裏板には昭和初期に描かれた草花の彩色が施されています。昭和13年の移動に際して、一部の部材は改変されましたが、旧状を良く残しています。拝殿としては比較的大規模なもので構造形式や彫刻等の随所に造営時代の様式が示されていることから、平成19年に県の文化財に指定されました。

 現在の幣殿・拝殿・神饌所は、国の登録文化財です。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成27年5月15日号(PDF:902KB)掲載)

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