アーカイブ香取遺産 Vol.111~120

更新日:2024年1月5日

アーカイブ香取遺産

Vol-111~120

Vol-111 来迎寺の宝篋印塔 新たに市指定文化財に

 宝篋印塔は、宝篋印陀羅尼経を納める塔で、平安時代に我国に伝わったと言われています。鎌倉時代以降には全国的に広まり、供養塔や墓石等にも使われるようになりました。多くは、基壇(返花座)・基礎・塔身・笠・相輪を積み重ねる形になっています。

 今回紹介する宝篋印塔は貝塚区の来迎寺墓所にあり、写真左は高さ244センチメートル、写真中央は高さ249センチメートルです。この2基は、府馬左衛門尉時持の子・勝若が、父・府馬時持と伯父・神野角助の供養塔として造立したと伝えられ、神野角助塔には「為月山禅心居士也/慶長七年(1602)三月」の銘があります。

 写真右は神野角助塔奥の個人墓地内にあり、高さは132センチメートルで、庚申信仰によって建てられたものです。旧貝塚村の善女10余人が二世安楽のため、3年一座の「守庚申」を執り行い、その成就にあたって天正4年(1576)に造立したことが記されています。守庚申は庚申信仰の古い呼び方で、宝篋印塔による庚申塔は、本例を含めて全国で6例が確認されているのみです。また、女性の庚申信仰であることも注目されます。

 これらの3基は、銚子で産出する軟質砂岩を使用し、基壇が省略されること、塔身が大きく縦長であること、笠の軒と隅飾突起が直線的に開くため、笠全体が逆台形になること、相輪が太くて短く、九輪や請花は省略するか線刻で表現することなどが大きな特徴で、全体的にずんぐりした形になっています。加工しやすい反面、脆弱で細かい装飾ができないという石材の特性によるものと考えられます。

 砂岩で造られたこのような形の宝篋印塔は、東総地域から霞ケ浦沿岸地域に分布し、戦国時代から江戸時代初期にかけて造立された地域色の強い石塔で、下総型宝篋印塔と呼ばれています。3基は、平成27年7月30日に市文化財に指定されました。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成27年9月15日(PDF:973KB)号)

Vol-112 府馬の安産大神 仏堂の趣きを残す安産祈願の神社

 安産大神は府馬地区の鎮守愛宕神社の裏手参道の中腹にあり、安産祈願の神社として地域の信仰を集めています。

 江戸時代には愛宕神社の別当寺であった愛宕山正法院地蔵寺の仏堂でしたが、神仏分離により明治4年(1871)に安産大神と改称されました。祭神は木花開耶姫です。
例祭日は2月11日、この日は安産講の女性たちによる代参が行われています。

 建立は安永三年(1774)とも伝わります。建物規模は、梁間二間、桁行三間、入母屋造りで向拝正面に唐破風が付きます。堂周りの丸柱十本および向拝の角柱はすべて欅材を用いています。かつては茅葺屋根でしたが、平成6年に銅板葺きに改修されました。

 正面中央には両開きの桟唐戸、その両脇には火灯窓が施され、四周には擬宝珠高欄付きの縁が巡らせてあります。屋根の下の垂木は二軒の繁垂木、組物は二手先の出組で、尾垂木が張り出しています。また、円柱の上には獅子頭の木鼻が据えられています。

 よく見ると支輪や垂木の間、組物の隙間の壁などに朱がかすかに残ることから、かつては全体が朱で彩られていたのかもしれません。

 正面向拝にある彫刻もこの建物の大きな特徴の一つです。破風下には大きく羽を広げた鳳凰と、その下、向拝正面には大小の龍が配された「子引竜」の彫物があり、また向拝柱に渡してある水引虹梁の左右の木鼻にも龍が配されています。

 彫物裏の板片の刻銘から、彫物の作者は古内村の鈴木多門豊賢で、嘉永3年(1850)10月に在郷の女人中により寄付されたものとわかります。

 昭和48年8月20日に市文化財に指定されました。

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Vol-113 県立美術館「香取神宮展」 香取神宮ゆかりの文化財が一堂に

 香取神宮ゆかりの宝物や文化財を一堂に会した特別展が千葉県立美術館で11月17日から平成28年1月17日まで開催されます。

 そこで今回は、神宮に関係する文化財について改めて紹介いたします。

 香取神宮は、東国屈指の名社で、元禄13(1700)年に造営された本殿と楼門は国指定の建造物です。

 また、宝物館には国宝の海獣葡萄鏡や久安5(1149)年銘が鋳出されている双竜文鏡、古瀬戸黄釉狛犬などの重要文化財が納められています。

 また、旧社家であった「香取大禰宜家文書」は国指定となっています。

 神宮ゆかりの文化財としては、かつて本殿に祀られ、故あって牧野の観福寺に納められた国指定の銅造懸仏4躯(十一面観音坐像・地蔵菩薩坐像・薬師如来坐像・釈迦如来坐像)があります。

 さらに佐原、荘厳寺の観音堂に安置され、平安仏と呼ばれる「木造十一面観音立像」は、明治の神仏分離令で廃寺となった「金剛宝寺」の本尊で、これも国指定です。

 これらとは別に「香取神宮神宝類」として200余点が県の有形文化財に指定されています。

 その中には、伝・亀山天皇宸筆の「香取大明神」額、嘉吉元年(1441)の墨書を伴う扇形の金銅御正躰、唐式鏡の海獣葡萄鏡や伯牙弾琴鏡を踏返して製作した※製鏡、草花を描いた和鏡40面なども含まれています(※は人偏に方)。

 これらの多くの文化財は、今回の特別展で展示されますが、中でも注目されるのは中世の香取神宮の祭礼を描いた『香取神宮神幸祭絵巻』(香取神宮から津宮に神幸し、御船遊する儀式を絵巻に仕上げたもの)6点が各所から集められ、初めて一堂に展示されます。

 また、神宮に奉納された絵画や金工品などの近代美術にも光があてられています。

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Vol-114 本矢作城跡 国分氏最初の居城跡・栄枯盛衰始まりの地

 本矢作城跡は、本矢作に所在する国分氏の最初の居城跡です。

 国分氏は、千葉介平常胤の五男胤通に始まります。胤通は治承4年(1180)、源頼朝の旗挙げの際に、父常胤とともに出陣して、軍功を挙げたという話もあります。軍功については、詳しく触れませんが、胤通が活躍した時代がわかります。

 本矢作城は、その胤通が築いたと伝えられており、その年代は、鎌倉時代の初めころと考えられます。

 城跡は、単郭構造と考えられており、現在は、堀跡や土塁をわずかに確認することができるのみで、正確な規模などは不明です。また、一族が崇敬したとされる妙見祠の跡も残されています。

 跡地は字名を「タテ」といい、元々は「館」の字を使用していたようです。よく時代劇などで領主などを「お館様」と呼ぶ場面があるように、城主が通常居た建物、つまり、城の中心であった場所と考えて良いでしょう。

 本矢作城は、鎌倉時代を通じて国分氏の居城でしたが、鎌倉時代の終りころ、胤通から数えて四代目になる胤長の二男泰胤が、現在の大崎の地に城を築き、本拠地を移したと伝えられています。今は「大崎城跡」として、古くは「矢作古城跡」として知られている城跡がそれです。

 大崎城に本拠地を移した国分氏は、その後、領地を拡大し、戦国期には香取郡内で最も勢力を有する在地豪族に成長しました。勢力拡大の陰には、他の在地豪族や香取神宮との領地争いもあったのでしょう。

 国分氏は、天正18年(1590)の徳川家康による関東制覇の時に、他の千葉一族と同じく滅びました。

 国分氏の栄枯盛衰の始まりの地である本矢作城跡は、昭和45年5月27日、市の史跡に指定されました。

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Vol-115 虚無僧墓 一つの生き方を物語る墓

 新里大久保より多古方面へ通ずる街道沿いの大角地区に「虚無僧墓」として伝説と信仰を伝える墓があります。

 墓には、二十数基の大小さまざまな石塔が散在しており、梵論塚ともいわれています。
石塔には「梵論塚」「薦僧塚」「梵論大権現」「普化祖霊神」などの文字が見うけられ、江戸時代後期の天保二年(1831)のものが一番古く弘化、嘉永、明治などの年号が刻まれています。

 梵論は半僧半俗の物乞いの一種で、鎌倉時代末期に発生しました。室町時代には尺八を吹いて物を乞う薦僧が現れ、のちの虚無僧となったと言われています。虚無僧は禅宗の一派である普化宗の僧で、喜捨を請いながら諸国を行脚した有髪の僧とされ、天蓋と呼ばれる深い編笠をかぶり袈裟を掛け尺八を吹くという独特ないでたちをしていました。また、中には生活に困窮した浪人や、罪人、帯刀した者も多くいたようです。

 「天保の初年頃、一人の虚無僧が小川村名主であった高橋家に一夜の宿を乞うた。翌日、一管の尺八を礼として旅立ったところ、新里大街道地先にて目指す敵に出会い、切り合いに及んだが、刀が折れ、返り討ちになったため、里の人々がねんごろに葬った」と伝えられています。このことが、いつしか信仰と結び付き、墓前に刀を供え霊を慰めることにより、願いが叶うと信じられるようになったのかもしれません。

 虚無僧がなぜ敵と切り合わなければならなかったかは分かりませんが、仇討などが制度化されていた時代に虚無僧となって敵を追っていた当時の社会の一つの生き方を伺い知ることができます。

 刀を供えることで僧に目的を遂げさせてあげようという人々の気持ちが信仰となり、現在まで残されてきました。

 昭和56年9月22日に市文化財に指定されました。

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Vol-116 下仲町の山車人形「菅原道真」 だし飾りの到達点・三代目安本亀八の傑作

 明治から大正期にかけて、佐原は大人形づくりの一大ブーム期を迎えます。数々作られる人形の出来は、その町内の評判を左右し、必然的に高度な技術を要求するようになっていきます。そして、ブームの末期に迎えた到達点は、生人形による大人形制作でした。

 「生人形」とは、生きた人に似せて作った人形のことで、徹底した写実主義に基づき血管や皺、歯など細部に至るまで精密に彫られているものです。江戸時代末期から明治の中頃まで、見世物として庶民の人気を博していました。当時の名人としては、松本喜三郎や安本亀八が有名です。佐原の大人形を手掛けたのは、生人形作りの名人と呼ばれた三代目の安本亀八です。三代目亀八は明治元年(1868)に初代亀八の三男として生まれ、幼名を亀三郎といいました。下仲町の菅原道真の人形ができたときに佐原に来て「この人形はよく出来たので大事にしてほしい。」といっていたそうです。

 佐原に残る亀八の作品は下仲町のほか、荒久の経津主命、中宿の桃太郎、南横宿の仁徳天皇があります。これらは、だし飾りの到達点に位置付けられる作品であり、中でも下仲町の菅原道真は、大正10年(1921)の制作以来、補修の手が加わっておらず、原作者の作風を良くとどめていることから、平成14年4月1日に市の有形民俗文化財に指定されました。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成28年2月15日(PDF:831KB)号)

Vol-117 大倉南貝塚 縄文時代後期の大型貝塚

 大倉南貝塚は、大倉字井戸谷にあり、標高約40mの台地の南斜面に貝層が形成されています。

 昭和29年に早稲田大学の西村正衛教授により発掘調査が行われ、貝層の範囲は径18m、厚さは2mであることがわかりました。また、部分的な調査ではありましたが、1万6千点以上の縄文土器片をはじめ、石斧・石鏃・磨石などの石器、ヤス・釣針などの骨角器、貝殻を加工して腕輪とした貝輪、土偶、動物骨や土で作った装身具など、多種多様な遺物が出土しています。

 土器は縄文時代後期(約3千年~4千年前)のものが大半で、中には東北地方との関係が窺える土器も見られます。また、骨製のヤスや貝輪が多いことも特徴的です。ヤスは縄文人の盛んな漁労活動を物語っており、貝輪は交易品として大量生産されたものでしょう。

 縄文時代の海岸線は現在より高く、現在の利根川付近に広い内海があったことは良く知られています。本貝塚から出土した貝殻や骨を見ると、ハマグリ・アカニシなど海水産の貝が多く、内湾と外海の魚骨が同じ割合で出土しています。このことから、当時の香取市付近は、外海と内湾の両方で漁ができる場所、つまり湾口に近かったと考えられます。

 大倉南貝塚は台地斜面に形成された地点貝塚ですが、同じ台地上には大倉東貝塚・中貝塚・西貝塚といった同時代の貝塚があり、大倉貝塚群と呼ばれています。この4か所の貝塚の分布範囲は径100mに及び、本来は一つの大型貝塚と考えられます。このような縄文時代後期の大型貝塚は、市内では他に貝塚地区の良文貝塚が挙げられるのみです。この二つの貝塚は、香取市のみならず、利根川下流域を代表する縄文時代後期の大型貝塚と言えます。大倉南貝塚は、昭和45年に市の史跡に指定されました。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成28年3月15日(PDF:918KB)号)

Vol-118 香取神宮神庫 近代の校倉建築

 神社にある文化財建造物と言うと、古い時代の建物と思われがちですが、新しい時期のものでも文化財の指定を受けることがあります。

 その一つが香取神宮の神庫です。本殿の東側、木立に隠れるように建つ木造建築で、明治42年(1909)に建てられました。

 この建物の一番の特徴は、本格的な校倉であることです。校倉というのは、三角形や四角形、あるいは台形などの横材を井桁に組んで外壁とした倉です。このような校倉造りの建物は、奈良時代から平安時代にかけて、国府や寺院の倉として建築された例があります。東大寺の正倉院などがその代表例です。

 神庫は、桁行、梁間とも三間、一八・二尺(5.5m)四方の、中規模の校倉です。

 床下の束の上に台輪という横材を渡し、その上に校木を十八段積み上げて壁面とし、その上に台輪を置いて大斗肘木(肘木は雲形)という組物を組んでいます。校木の断面は、横幅は狭く、外角に面を取らない五角形となります。壁面の上のほうでは、その校木の内面を組物の真(中心)に揃えているらしく、壁の中心線より組物がわずかに内側に入ります。

 屋根は入母屋造で、桟瓦葺き、側面の妻部に豕叉首を組み、破風には変形の三花懸魚を付けています。

 正面中央には幣軸付板扉を構え、その前に縁を設けて右側に階段を設けています。ただし縁は後付けのもので、当初は板扉の正面に階段が付いていました。

 内部の側面・背面の三方には、二段のガラス戸棚が設置されています。かつて展示施設として使用されたことがあるため、その際に加えられたものでしょうか。上段と下段の間に板屋根を付けた、凝った造りをしています。

 香取神宮に伝わる宝物類を保管、展示してきた重要な建物で、平成6年に市の指定文化財となりました。

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Vol-119 善雄寺の仏像 丈六の阿弥陀如来坐像

 一ノ分目地区にある善雄寺は、浄土宗のお寺です。

 開山は登蓮社玉譽伝公上人で、康永元年(1256)に小見川領主であった粟飯原左衛門尉平孝宗の家老、成毛對馬守禅定門が大旦那となり開基したと伝わります。

 ご本尊は、木造阿弥陀如来坐像で、像の高さは176センチメートルもある等身大のいわゆる「丈六仏」と呼ばれるものです。ヒノキ材の寄木造りで、目は彫眼で、漆に金箔を貼る漆箔で仕上げられています。

 像容は、切付の螺髪とし、白毫と肉髻に水晶が嵌められています。耳たぶは紐状にして貫通、三道を刻み出し、衲衣は、左肩を覆い、右肩に少しかけるようにします。膝上で阿弥陀定印を結い、右足を前にして結跏趺坐しています。

 そして、頭部像内(平安時代末期)には、宝永2年(1705)の修理銘札が残され、それには、「奥州伊達郡霊鷲山(福島県伊達市霊山寺)にあった慈覚大師の作と伝え、八百年の星霜をへて、御身は朽ち、頭部のみ残った。これを重譽自然上人の力により復興したのが本尊である」と記されているといわれています。

 また、胴部の胎内には宝永6年(1709)の造像銘があり、「佐原町の伊能茂左衛門親子の寄進により、京都麩屋町の大仏師高橋兵部が元禄16年(1703)から宝永2年(1705)にかけて製作した」ことが記されています。このことから現在の像容は、江戸中期まで残されていた頭部に、新造の胴部を合せて製作したものと推察されています。

 本格的な定朝様式の作品で、巨像にもかかわらず全体と細部のバランスが良くとれていて、しかも、衲衣の襞の処理に見られるように正統の技法を持った中央の仏師の手になる作品であることなどから昭和33年4月に県の有形文化財に指定されています。

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Vol-120 岩ケ崎城跡 未完の城

 天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原城攻めで北条氏が滅亡すると、当地域を治めていた国分氏は、徳川家康の関東覇権に際し、さして戦うことなく大崎城を明け渡しました。大崎城には、矢作領四万石を与えられた鳥居元忠が入城し、岩ケ崎城の築城に着手します。

 元忠は、家康の忠実な家臣として知られる武将です。家康と元忠は、幼少時代を今川氏の人質として過ごします。元忠は、その後も家康に従い、元亀元年(1570)の姉川の戦いから天正18年に武州岩槻城を落とすまで、幾多の戦功をあげています。矢作領四万石は、その褒美と言えます。しかし、家康には別に、元忠を配することで常陸の佐竹氏を牽制する意図がありました。元忠もそのことは承知していたとみるべきでしょう。

 元忠が築城に選んだ場所は、利根川を望む独立丘陵で、常総二国を見渡す要衝の地です。城跡の西側から北側、東側は崖面で、防御性にも優れています。

 ところが、元忠は、慶長5年(1600)に京都の伏見城で戦死してしまいます。遺領は、第二子忠政が継ぎましたが、同7年に陸奥磐城へ国替えとなり、城は未完のまま廃城になったと伝わります。城跡に残る小字には、中央に「城之内」「城山」、その西側に「堀之内」、南側に「唐堀」、城の正面を示す「大手」と続き、城の概要は読み取れそうです。 

 築城着手から十数年、どの程度まで完成していたのでしょうか。そして、家康の意図をくむ元忠は、どのような城の完成図を描いていたのでしょうか。元忠にとって、岩ケ崎城が未完の城で終わったことは、心残りであったと思います。

 城跡には、市天然記念物「岩ケ崎の森」があります。稲荷神社と愛宕神社の社叢です。森に抱かれた城跡は、地元では城山と呼ばれ、親しまれています。

(広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成28年月6月15日(PDF:980KB)号)

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