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アーカイブ香取遺産 Vol.041~050

更新日:2016年2月1日

アーカイブ香取遺産

Vol-041~050

Vol-041 魏の皇帝から邪馬台国女王に下賜された鏡 三角縁神獣鏡

 城山1号墳から三角縁神獣鏡が出土したことは以前に触れたところですが、今回はこの鏡について紹介します。

 鏡縁が突出してその断面形が三角形状になり、背面に半肉彫りの神仙や霊獣を表現した鏡を三角縁神獣鏡と呼んでいます。直径が20センチメートルから25センチメートルに集中し、同一の鋳型を用いて作った同笵鏡が多いことも特徴です。また、その分布は東は群馬県から西は熊本県に及んでいます。

 三角縁神獣鏡には、中国三国時代の魏の年号「景初三年」や「正始元年」の銘文をもつものがあり、図像紋様からも明らかに中国で作られた鏡とそれを模倣して日本で作られた倭製鏡が識別されています。

 この中国鏡には、魏志倭人伝にある景初3年(239)魏帝から邪馬台国の女王卑弥呼に下賜された「銅鏡百枚」にあたるものが含まれるとする説が有力なのですが、これまで中国で1面も発見されていなことから、すべてを倭製鏡とする主張もあります。

 最近の研究によれば、中国鏡の三角縁神獣鏡は、魏・晋代に倭国向けに作られた特鋳鏡とする考え方が最も有力です。下賜用に調製したものであれば、日本でしか出土しなくても当然ということです。

 城山1号墳出土鏡は中国鏡です。直径22・2センチメートル。内区に複像式の三神五獣を表現し、内区外周部の銘帯には「吾作明竟」で始まる42文字を鋳出しており、古い型式に属するものです。

 この鏡には同笵鏡があり、兵庫県西求女塚古墳で2面、京都府椿井大塚山古墳と岐阜県可児市でそれぞれ1面が確認されています。

 おそらく、これらの鏡は「銅鏡百枚」に含まれるものであり、邪馬台国の女王から直接・間接的に各地の有力首長に配布されたものと思われます。西求女塚古墳鏡や椿井大塚山古墳鏡は3世紀後半に首長の死とともに副葬されましたが、本鏡は贈与を繰り返し、300年以上も経過してから城山1号墳の被葬者の副葬品として埋納されました。

 この鏡の精巧な模造品を市文化財保存館に展示しています。邪馬台国の風を少しでも感じて頂ければと思います。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成21年9月15号(PDF:524KB)掲載)

Vol-042 日本に数個しか存在しない振り子時計 垂揺球儀

 7月は皆既日食が話題になりましたが、残念ながら、当日は曇りや雨でその様子を見ることができませんでした。忠敬や孫の忠誨も、観測地の経度を求めるため、天候に注意しながら日食や月食を観測していました。

 地球は1周24時間で自転していますので、もし忠敬のいる所で東京より1時間遅れて日食が観測されたら、経度は東京から15度ずれていることになります。その時間を測ったのが、垂揺球儀という振り子時計です。

 伊能忠敬記念館では、昭和32年に重要文化財に指定された、忠敬が全国測量で使用したものと、平成21年7月に追加指定された、忠誨が使用したものの、2個所蔵しています。

 時計といっても、現在のように時刻を表示するものではありません。錘が重力で落ちる力を利用して振り子を振らせ、その振動で歯車を回していき、振動数を表示します。

 忠敬のものは、上から振動の回数の1から99まで、100から900まで、1000から9000までを表示する表示盤があり、向かって右下に1万から9万まで、左下に10万から90万までを表示する窓があります。

 忠誨のものは、上下2つの表示盤があり、上は外円に1から99、内円に100から900までを、下は1000から9000までを表示します。向かって左下に1万から9万まで、右下に10万から90万までを表示する窓があります。日食観測資料によると1日6万回ほど振動します。

 このような振り子時計は、日本国内ではほかに、滋賀県の近江神宮時計博物館に1個 富山県射水市新湊博物館の石黒信由関係資料に1個、個人2人が1個ずつ、神奈川県の江戸民具街道に1個の合計5個が確認できるだけです。

 現在、伊能忠敬記念館で開催中の特別展では、記念館所蔵の垂揺球儀2個を展示しています。

 (会期平成21年11月15日まで)

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成21年10月15号(PDF:471KB)掲載)

Vol-043 一ノ分目 善雄寺 江戸幕府の砲術家 旗本田付家の墓

 JR成田線水郷駅の程近く、一ノ分目字小路に浄土宗善雄寺が在ります。

 康元元年(1256)、登蓮社玉誉伝公上人の開山と伝わる由緒ある寺で、ご本尊は阿弥陀如来です。高さ1・76mの坐像で、いわゆる丈六仏です(昭和33年、県指定文化財)。

 山号を野中山と称するように、かつては善雄寺の西方、字野中に在って、江戸時代に火災のため現在地へ移転した、と伝わります。

 本堂裏手には、その際に移された古い墓石が並んだ一角があります。その一つに江戸時代一ノ分目の領主、旗本田付景治の墓石が建っています。高さは2・4mほどの比較的大きな墓石で、板碑型といわれる、頭頂部を山形に尖らせた形をしています。正面には「田付景治大居士」その両脇に「寛永十四丁丑歳(1637)三月十四日」と没年が刻まれています。

 田付家は、はじめ香取郡において500石を知行された旗本で、一ノ分目村362石、米野井村138石の領主でした。後に、下野国などで300石を加増され、都合800石となっています。

 景治の父は景澄といい、この人物は稲富一夢、安見右近とともに鉄砲三名人と呼ばれた、和流砲術の一つ田付流の始祖です。鉄砲、砲術に関する伝書も数多く著しています。

 慶長18年(1613)から徳川家康に仕え、翌年の大坂冬の陣にも出陣しています。幕府編さんの史書『徳川実記』には、この時、景澄に打ち込ませた「大仏郎機」と呼ぶ大筒の砲弾が大坂城天守の柱に命中し、淀殿が大いに恐怖したことで、和議の機運が高まった、との逸話もあります。

 真偽の程はともかく、その子孫は江戸幕府の鉄砲方を世襲し、また景澄の次男正景も大垣藩に仕え砲術を伝授するなど、同家は特殊な技能を受け継いだ家柄でした。

 善雄寺には、田付家のうち、景澄と景治の2人だけが葬られたようですが、残念なことに景澄の墓石は今のところ見当たりません。

 今後、その墓石や関係する古文書などが発見されれば、砲術家田付の存在がより一層身近なものとなるのではないでしょうか。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成21年11月15号(PDF:542KB)掲載)

Vol-044 禅昌寺山古墳 大須賀川流域を支配した 首長の墳墓

 禅昌寺山古墳は、大須賀川下流の沖積平野、大戸川字中宿にある禅昌寺の南側隣接地にあります。現在は古墳の大半が削平されて径10mほどの塚状となっていますが、全長60~70mの前方後円墳であったと推測されています。

 かつて、この古墳を削平した際に多数の遺物が出土しました。銅鏡や石枕をはじめ、武器(直刀・矛・鉄鏃)、武具(衝角付冑・挂甲小札)、馬具(f字形鏡板付轡・剣菱形杏葉・馬鐸)などです。正式な発掘調査で出土したものではないため、どのような状態で埋められていたのかは不明ですが、死者と一緒に納められた副葬品であることは間違いなさそうです。

 銅鏡は縁部の破片ですが、中国からの舶載鏡と考えられます。石枕は遺骸の頭部を載せるための石製の枕、衝角付冑は横長の鉄板を曲げて鉢形を作り、鉄板の両端を前面で合わせた冑、挂甲は小札と呼ばれる鉄板を綴じ合わせて作った甲で、鏡板は轡の銜の両端に付けられた金属板、杏葉と馬鐸は馬の胸や尻に付けられた馬飾りです。中でも、鏡板と杏葉は、鍍金した銅板を鉄の地金の上に張った「鉄地金銅張」という技法で作られたもので、県内では有力古墳から出土しているものです。

 このような豊富な副葬品をもつ禅昌寺山古墳は、まさに首長墓と呼ぶにふさわしく、そこに葬られたのは大須賀川流域一帯を支配した人物であったと考えられます。

 また、近隣の森戸地区から谷中地区にかけて、大戸天神台古墳、権現前古墳、大法寺古墳、塚越古墳など、禅昌寺山古墳と同じぐらいの規模と推測される古墳がいくつか確認されています。最近の研究では、大戸天神台古墳(4世紀)→権現前古墳(5世紀後半)→大法寺古墳(6世紀前半)→禅昌寺山古墳(6世紀中ごろ)の順で継続的に築造されたことが分かってきました。この地域を支配した歴代の首長墓と言えるでしょう。

 大須賀川下流域に営まれた古墳群は、一地域の中で首長層の変遷をたどることができる好例と言えます。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成21年12月15号(PDF:560KB)掲載)

Vol-045 大法寺古墳・権現前古墳 大須賀川流域の歴代首長墳墓

 大法寺古墳と権現前古墳は森戸地区にあり、前回の香取遺産12月15日号で紹介した禅昌寺山古墳と同じく、大須賀川下流地域を支配した歴代の首長墓と考えられている古墳です。

 大法寺古墳は、大法寺の境内にあります。その頂には御堂が建立され、かなり高さのある円墳のようにみえますが、周辺の地形などの観察から、全長約60mの前方後円墳と考えられています。西側が前方部、東側が後円部で、主軸方向はほぼ東西です。

 現在残っているのは後円部で、大きさは直径32・5m、高さ6・5mです。前方部は、宅地開発などで失われてしまいましたが、後円部は御堂があるため削られることなく残ったのでしょう。

 権現前古墳は、大法寺古墳から東へ約500mの所にあります。墳丘はすっかり失われ、現在は畑地と宅地になっていますが、大法寺古墳とほぼ同じ大きさの前方後円墳と伝えられています。

 両古墳とも、埋葬施設の構造や副葬品はわかってはいませんが、古くから墳丘やその周辺から埴輪が出土することが知られており、大須賀川下流域における重要な古墳であると認識されてきました。これまでに採取した埴輪から、大法寺古墳が6世紀前半、権現前古墳が6世紀初頭の築造と考えられます。

 この他にも、円墳が数基あったと伝えられていますが詳細は不明です。

 大法寺古墳と権現前古墳がある森戸地区は、台地の裾部にあたる標高約3mの微高地で、大須賀川下流に広がる低地に面しています。その低地は古くから水田として利用されてきました。

 このような微高地に歴代首長の墳墓が営まれていることから、当時すでに重要な生産基盤として水稲耕作が行われていた可能性がうかがわれます。

 本地域の首長たちは、死後もなお、大切な水田を見守っていたのでしょうか。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成22年1月15号(PDF:1,186KB)掲載)

Vol-046 木内神楽 地方色豊かな十二座神楽

 木内地区は、正倉院に伝わる天平20年(748)の文書に「下総国海上郡城内(木内)郷」と記述され、奈良時代から今日まで残されている地名です。

 地区の中心部に、豊受姫命を祭神とする木内神社が鎮座し、例祭は毎年3月3日に執り行われています。

 その例祭に五穀豊穣・商売繁盛と氏子の安泰を祈願して奉納されるのが、市指定無形民俗文化財の木内神楽(十二座)です。

 この神楽の起源は、はっきりとわかりませんが、香取神宮の旧大禰宜家に伝わる日記の元文5年(1740)2月晦日の条に「三月一日木内大神にて神楽御座候」と記されています。このことから、これ以前から行われていたと推察されます。これ以降では、文政12年(1829)に神楽面を修理した記録も残されています。

 江戸時代までは社家によって神楽が奉納されていたようですが、明治時代になってからは氏子の青年たちが、身を清めた上で行うようになり、現在は木内神楽保存会によって伝承されています。

 当日は、神社でお祓いした後、正午過ぎから神楽殿で行われます。

 猿田彦命(天狗の舞)から始まり、三宝荒神(かまど神)・天鈿女命・天児屋根太王命・天乙女命・手刀男命(岩戸開)・榊葉・受持命・八幡・恵比寿(鯛釣り)・稲荷大明神(種子蒔)・素戔鳴命(〆切り)の順に12演目を演じ、最後の演目が終わるのが午後5時頃になります。

 「古事記」や「日本書紀」の神話を題材に、舞踏化した岩戸神楽・神代神楽の系譜にあるといわれ、舞の構成は、仮面神による一人舞を基本とし、さまざまな持ち物を使い、お囃子は横笛と太鼓などが用いられています。

 このような農村の信仰とも融合した地方的特色をもつ十二座神楽は、愛宕神社(府馬・2月下旬)、稲葉山神社(長岡・2月下旬)、八重垣神社(新里・3月20日)、山倉大神(山倉・4月上旬)、境宮神社(一ノ分目・3月下旬、4月3日)でも奉納されています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成22年2月15号(PDF:1,024KB)掲載)

Vol-047 平安時代の年号を刻む板碑 板碑に罪はない

 当地において、鎌倉時代中頃から室町時代にかけて盛んに下総型板碑が造立されたことは以前紹介しましたが、新里地区には平安時代の年号を刻むといわれる板碑が2基もあります。平安時代の板碑となれば、日本で一番古い板碑ということになり、それも指定文化財ということであれば穏やかではありません。

 一つは、萬蔵院本堂前の片隅に建つ長嘉板碑といわれているものです。材質は雲母片岩。頂部は三角形に作らず平坦で頂部、側面とも面取りせず、粗い成形痕を残しています。高さ1メートル25センチ、幅106センチメートル、厚さ9~10センチメートル。碑面に二重線で三角頂と横長の方形輪郭を作り、上方に蓮華天蓋、中央に蓮台にのる阿弥陀の梵字「キリク」、蓮台の左右端に「長嘉元年六月二□」、「右□□□□」、「□阿弥陀佛聖」、「霊第四十九□」の銘を刻しています。

 もう一つは、新里字馬場930の墓地阿弥陀堂前に建つ寛治板碑といわれているものです。材質も横長の碑面を意識した形まで前者とよく似ています。2条線や輪郭線はなく頂部直下に蓮華天蓋、中央に蓮台・円相を伴う阿弥陀の梵字を配しています。現在は碑面の摩滅が著しく判読できませんが、蓮台の左側(碑面に向かって右側)に「寛治の紀年がかすかに読みとれ」たとされています。

 「寛治」は、西暦1087~1094年の平安時代の年号です。「長嘉」という年号はありませんが、「長嘉紀年は私年号で堀河天皇御代西暦千百六年」と解釈され、両板碑は平安時代の板碑として昭和56年6月22日付けで山田町の指定文化財になっています。

 これらの板碑の製作年代を平安時代とすることは、以前から疑問があったようです。「長嘉」という私年号の使用例は確認されていないこと。「寛治」の誤読など。年号をどう読むかということよりも、まず成形技法、全体の形、碑面のとり方、天蓋・瓔珞・蓮台の表現法など、当時すでに制作年代のわかっていた資料と比較検討すれば、平安時代の板碑とすることはなかったように思われます。

 これまで年代の明らかになっている資料と比較すると、いずれも14世紀後半以降の作と思われます。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成22年3月15号(PDF:1,046KB)掲載)

Vol-048 伊能忠敬関係資料 国宝へ 57年ぶり県内4件目

 文化庁文化審議会は、3月19日に開催された同審議会で、重要文化財の「伊能忠敬関係資料」を国宝とすることについて、文部科学大臣に答申しました。

 国宝とは「国が指定する重要文化財のうち世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝」とされます。美術工芸品(絵画・彫刻など)は、全国で864件が指定されていますが、そのうち歴史資料の分野はこれまで2件のみで、今回の指定により全国で3件目となります。

 千葉県では、香取神宮所蔵「海獣葡萄鏡」以来57年ぶりの国宝指定で県内4件目となり、このうち2件が香取市に所在することになります。

 今後、官報告示により、正式に国宝指定となります。

指定資料の内容

 資料は、本市を代表する先覚者である伊能忠敬(1745~1818)の事績に関する一括資料2345点です。

  • 地図・絵図類787点…彩色された伊能図の他、測量成果を図化した下図、麁絵図、参考絵図など
  • 文書・記録類569点…測量日記や忠敬の測量開始時の幕府辞令などの公文書
  • 書状類398点…直筆の書状のほか親族、関係者からの書状
  • 典籍類528点…忠敬が学んだ暦学書など
  • 器具類63点…測量や天体観測に用いた器具類

 文化庁は「我が国の測量史・地図史上における極めて高い学術的価値を有するとともに、伊能忠敬の生涯の事績とその人物像を多面的に伝えて歴史上極めて価値が高い」と評価しています。

伊能忠敬とは

 伊能忠敬は、江戸時代に日本中を測量し、初めて実測による日本地図を完成させた全国的に著名な人物です。延享2年(1745)に山辺郡小関村(現九十九里町)で生まれ、17歳で佐原村の伊能家の養子となり、酒造業の他にも米穀取り引きなどを営み商才を発揮する一方、村役人として村政にも尽くしました。

 隠居後、50歳で江戸に出て高橋至時に師事し、西洋天文学や暦学を学びました。55歳の寛政12年(1800)から測量を開始し、文化13年(1816)まで10次にわたって全国を測量しました。地図は忠敬の没後、文政4年(1821)に完成し、いわゆる「大日本沿海與地全図」などが幕府へ上呈されました。

指定までの経緯

 「伊能忠敬関係資料」は、昭和24年に重要美術品の認定を受けた後、昭和32年2月19日付けで「伊能忠敬遺書並遺品」として重要文化財の指定を受けました。その後、伊能家から本市へ数度にわたり資料が寄贈され、平成21年7月には「伊能忠敬関係資料」として追加指定および員数表記・名称変更などが行われました。

 市では、今後、より一層の資料保存に努めるとともに、公開などを通じて伊能忠敬の偉業に触れていただければと考えます。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成22年4月15号(PDF:595KB)掲載)

Vol-049 富田1号墳 利根川沿いの平野部に営まれた古墳

 富田1号墳は、小見川北小学校の敷地内にある前方後円墳です。同校の校歌に「むかしを語る木立の塚」と歌われ、児童からは「塚山」と呼ばれて、古くから親しまれてきました。

 古墳の規模は、全長39m、後円部径20m、前方部幅21mで、高さ2.5mです。明治33年(1900)に発掘調査が行われ、形象埴輪(武人・馬・犬・鹿)や円筒埴輪などが出土しました。しかし、それ以降、正式な発掘調査が行われたことはなく、埋葬施設や副葬品は、現在のところ不明です。

 写真の埴輪は、明治33年に出土した武人埴輪で、東京帝国大学(現在の東京大学)人類学教室に寄贈されたものです。衝角付冑をかぶり、顔面の両脇には美豆良と呼ばれる髪形が表現されています。上半身は、胸から左肩にかけて欠損していますが、桂甲(小札と呼ばれる鉄板を綴じ合わせて作った甲)を装着していると思われます。腰には帯を巻き、前で結んで両端を垂らしており、左腰には剣もしくは刀を差して右手を添えています。下半身は残っていませんが、おそらくは両脚は表現せず、円筒形の基台に乗っていたと考えられます。

 富田1号墳をはじめ、一ノ分目地区から富田地区にかけての微高地上には多くの古墳が営まれ、豊浦古墳群と呼ばれています。後世の開墾などで消滅した古墳もありますが、現在、前方後円墳5基、円墳6基が確認されています。

 これらのうち、出土遺物などから築造時期を知ることができるのは、前方後円墳である富田1~3号墳と三ノ分目大塚山古墳です。この4基の前方後円墳は、同時に築造されたものではなく、三ノ分目大塚山古墳(5世紀中ごろ)→富田2号墳(6世紀前半)→富田3号墳(6世紀中ごろ)→富田1号墳(6世紀後半)の順で継続的に築造されたと考えられます。

 市の西部を流れる大須賀川流域の古墳群では、一地域の中で首長墓の変遷をたどれることを、以前紹介しましたが、豊浦古墳群でも同様のことが言えます。

(昭和44年市指定史跡)

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成22年5月15号(PDF:1,305KB)掲載)

Vol-050 城山4号墳 国造の墳墓・1号墳と同時期の前方後円墳

 城山古墳群は、分郷地区の標高約42mの台地にあります。北に利根川が流れ遠く鹿島、常陸を見渡し、東には黒部川とその広大な沖積地を一望することができる要衝の地です。

 香取遺産Vol 34では、下海上国造もしくは国造一族の有力者の墳墓と考えられる城山1号墳を取り上げました。今回は4号墳を紹介します。

 城山四号墳は、城山第二浄水場の敷地内にある前方後円墳です。前方部に盗掘跡と思われるくぼみがあり、裾部にその時に抜き取られたものでしょうか、石棺の一部と思われる石材が残されています。

 現在、確認できる墳丘は全長34mで、くびれ部が細く前方部が開いています。また、前方部の高さが後円部の高さに迫っており、古墳時代後期の形態を示しています。

 主体部の構造や副葬品の内容は分かっていませんが、本古墳の遺物として、円筒埴輪と人物埴輪・馬形埴輪が出土しています。その制作技法や粘土の特徴が、1号墳の埴輪と近似していることから、1号墳と同じ6世紀終わりごろの築造年代と考えられています。

 本古墳は、1号墳と同じ前方後円墳という形の墳丘ですが、その全長は1号墳の半分程で、その差は歴然としています。もし、4号墳の主体部が石棺あれば、長さ6mの横穴式石室をもつ1号墳とは、この点でも大きな違いがあります。普通、このような違いは、被葬者の身分の差を反映していると考えられます。

 同時期に複数の高塚式墳墓を築造するのは、大変な労力を必要としたと思われます。しかし、敢えて1号墳と4号墳を同時期に築造しなければならなかった背景には、4号墳の被葬者も下海上国造一族の中である程度高い地位の人物であったと想定されます。

 本古墳は、下海上国造一族の構成を考えるうえで、重要な示唆を含んでいるといえるでしょう。

 昭和48年4月23日に市の史跡に指定されました。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成22年6月15号(PDF:1,053KB)掲載)

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