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アーカイブ香取遺産 Vol.021~030

更新日:2016年2月1日

アーカイブ香取遺産

Vol-021~030

Vol-021 勧善懲悪を説く仏教劇 浄福寺の鬼舞面

 下小堀にある浄土宗浄福寺は、寺伝によれば、当地方で布教活動を行っていた浄土宗第三祖良忠上人に帰依した粟飯原胤秀が建長2年(1250)に開基したといわれています。

 この寺では「鬼来迎」や「鬼舞」と呼ばれる仏教劇が寛政8年(1789)ころまで演じられていました。「鬼来迎」は因果応報、勧善懲悪を説く仏教劇で、その起源は鎌倉時代初期まで遡ると言われています。横芝光町虫生の広済寺では、現在でも毎年8月16日に鬼来迎が上演されており、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

 浄福寺の鬼来迎は、当寺に伝わる正和5年(1316)の縁起書「鬼来迎問答踟供養」(寛政9年写)に、良忠上人が菩薩の慈悲を広く民衆に知らしめるために考案し、建長4年(1252)に公開したことに始まると記されています。

 江戸後期の国学者高田与清は『鹿島日記』(文政三年)の中で「浄福寺の仏事に鬼の舞と云ふあり。是も廿年に一度するわざなり。仏の仮面、鬼の仮面、牛頭、馬頭の仮面、いずれもいとふるきものなりといへり」と記し、赤松宗旦も『利根川図志』の「迎接寺」でこれを引用しています。これらには、20年に一度行われたと記されていますが、前述の縁起書や台本である「鬼来迎問答引接踟供養記」によると基本的には33年に一度修行されていたようです。

 この芸能は、現在伝わっていませんが、この台本には舞台設定から演目に至るまで詳細に記されており、また演目ごとに着用した閻魔大王をはじめとする獄官獄卒面や菩薩面など三十面、さらには装束、道具類も保存されていることから、当時修行されていた「鬼来迎」の内容をつぶさに知ることができます。

 これらは、当地域の鬼来迎系譜を知る上で貴重な資料であることから、平成15年『浄福寺の鬼舞面』として千葉県有形民俗文化財に指定されました。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成19年12月15号(PDF:787KB)掲載)

Vol-022 悪臭を追い、不浄を祓う 良文貝塚出土 人面付香炉形土器

 良文貝塚は、小見川区貝塚にある縄文時代後期を中心とする利根川下流域最大級の貝塚です。その存在は古くから知られており、明治28年(1895)には東京帝国大学が発掘調査を行っています。昭和2年には大山史前学研究所が、4年には同研究所と地元有志が発掘調査をして多くの土器や骨角器などが発見されました。これらの成果と地元の熱意によって、昭和5年、千葉県の貝塚としては初めて国史跡に指定されました。

 今回紹介するのは、昭和4年の発掘調査で発見された人面付香炉形土器で、約3500年前の縄文時代後期中ごろのものです。香炉形土器とは、仏具の香炉に似ていることからそう呼ばれています。縄文時代中期中ごろに中部地方や関東地方で作られた釣手土器が前身といわれ、その不思議な形から、呪術的な用途に使用されたと考えられています。

 本土器は、頂部と左側面の一部を欠失しますが、ほぼ完全なものです。現高16センチメートル、鉢形土器に脚台を付けた形で、正面に人面を貼り付け、背面には丸い大きな孔が開いています。縄文人の自画像でしょうか、それとも神霊・祖霊を表現したのでしょうか。写実にこだわらない、実に大胆な表現で、器の形・文様と一体化しています。また、右側面に筒状の突起があり、中央に孔が貫通しています。この孔は器体を吊り下げるための紐通し孔で、左側にも同じものが付いていたと思われます。

 おそらく、この土器はその名の通り、香を焚くのに使ったものと思われます。ほの暗い竪穴住居の中、薄らと映る人面土器から立ち昇る煙、悪臭を追い、不浄を祓ったのでしょうか。

 昭和32年10月「香炉形顔面付土器」として県有形文化財(考古資料)に指定されました。現在は、地元の保存団体によって厳重に保管されており、普段は公開されていません。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成20年1月15号(PDF:755KB)掲載)

Vol-023 日本で初めて実測日本地図を完成 伊能忠敬遺書并遺品

 伊能忠敬は、日本で初めて実測による日本地図を完成させた人です。その時使われた測量器具・日記・地図などの資料は、伊能家により大切に守り伝えられ、昭和32年2月19日、国指定重要文化財として指定され、現在は伊能忠敬記念館内に収蔵・展示しています。

 指定された資料は、「伊能忠敬遺書并遺品(85点)」(測量中毎日書き綴った日記や日本各地の山島の方位を測定した山島方位記など忠敬自身の著書、彼の業績の結晶である伊能図や専門の職人に特別に作らせた精度の高い測量器具類)と「附伊能忠敬手沢本(110点)」(忠敬が勉強した暦書などの書籍、測量中参考にした絵図類)そして「附伊能忠敬孫忠誨遺書(20点)」(孫の忠誨が残した資料)です。

 忠敬の測量方法は、当時一般的な導線法と交会法という方法でしたが、測量器具には最新で精度の高いものを使用しました。距離を測るに鉄の鎖を使用し、坂道では割円八線対数表(三角関数早見表と類似)を使い水平距離を算出しました。方位角を測るに30分(1度の半分)まで測ることができるワンカラシン(小方位盤)を用い、両方向から方位角を測り平均して誤差の無いよう注意深く測量を行いました。また、夜間の天体観測を日本全国1000カ所以上の場所で行い、1分(1度の60分の1)まで測れる象限儀(中)により正確な緯度を算出しました。

 その結果作成された伊能図は、シーボルトやイギリスの測量艦隊によってヨーロッパに持ち出され世界で高い評価を受けます。これにより、世界は地球上における未知の土地を克服し、日本は世界地図上にその正確な位置を与えられることとなりました。一方国内においては、幕末明治以降の近代化および国防上の基礎資料として、正確な伊能図はその役目を十二分に果たすこととなりました。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成20年2月15号(PDF:758KB)掲載)

Vol-024 陸から空へ。星図を作成 忠敬の孫、伊能忠誨

 忠誨は、忠敬の長男景敬の長男で、文化3年(1806)に生まれ、文政10年(1827)にわずか21歳で亡くなりました。父が祖父より先に亡くなっていたので、文政4年(1821)に忠敬の後継者になり、祖父の功績により幕府から給与と江戸に屋敷を与えられました。

 こうした経歴から、従来、忠誨はあまり評価されませんでしたが、近年の研究により、忠誨も忠敬に負けず多くの業績を残していることが明らかになってきています。

 忠誨は江戸で天体観測などを行っていましたが、くじで父景敬を継いで佐原に住むことを決めていたので、伯母(忠敬の長女)の死後、佐原に移り住み、佐原の家(現伊能忠敬旧宅)で天体観測や家の敷地の実測を行っています。

 ここに紹介した星図は、天文方の高橋景保(忠敬の先生である至時の子)が進めていた日本地図(伊能図)作成、世界地図(「新訂万国全図」)作成とともに行っていたプロジェクトにかかわるもので、忠誨が作成したものです。

 日本の星図は、従来、中国経由のものを使用していましたが、当時はヨーロッパの学術が流入し、西洋流の星図を作成しようとしていました。

 中国流の星図には、星の明るさの区分はありませんが、西洋のものは一等星、二等星など星の明るさを表示していました。星座は中国流のものですが、星の等級は星の印の大きさで区別されています。

 忠誨関係資料は、その他に、垂揺球儀という振り子時計や暦学書などがあります。

※香取市指定文化財の伊能忠敬関係資料の中に伊能忠誨関係資料が含まれています

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成20年3月15号(PDF:768KB)掲載)

Vol-025 沢の真浄寺 旧領主旗本江原氏の墓

 蓮寿山真浄寺は沢に所在する日蓮宗の名刹です。元々は檀家を持たないお参り寺でした。

 本堂は、間口柱間三間、奥行同四間で、正面に間口一間の向拝を付しています。屋根は宝形造の高く見栄えのする屋根で、銅板葺(元茅葺)に改築されています。建築年代は小屋柱の墨書から元文5年(1740)と推定されます。正面寄りの一間に「吹放ち」の構造を設けていることが特徴の一つであり、昭和53年5月に市指定文化財となっています。

 中世以来香取地域の在地領主であった国分氏との関係が深く、寺伝では、天正18年(1590)矢作城が落城した際、その遺臣が当寺に立て籠もり、堂宇が焼失したとも伝わります。

 落城後は、徳川家康の家臣鳥居元忠が矢作領4万石を領し、沢村759石余もその内に含まれました。

 沢村は、その後旗本江原氏知行地となり、さらに寛文7年(1667)には同じ江原氏二氏の相知行地となったようです。幕末期には江原氏595石余、江原氏164石、代官支配所(幕府領)140石余、用水溜井除地9石余、計909石余の村となっています。

 真浄寺境内には、沢村領主、旗本江原親章(9代目)の墓が一基残されています。高さは約150センチメートルで、竿石正面には「威徳院殿興仁禮譲大居士」「文化二乙丑年正月十日逝去」の文字と2つの家紋が刻まれています。

 江原氏は、沢村595石余の他、岩部村、返田村、求名村(現東金市)、下鶴間村(現神奈川県大和市)に合わせて1700石の知行地を持つ旗本で、9代目親章は、小納戸や西丸小納戸、目付などの役職を勤めました。

 江原氏の葬地は市谷善慶寺(現新宿区)であり、なぜ親章の墓だけ真浄寺にあるのか不思議です。台石の側面には、建立者と思われる11人の名前が刻まれていますが、親章の死後、これらの人々が旧領主を偲んで建立したのでしょうか。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成20年4月15号(PDF:765KB)掲載)

Vol-026 江戸時代の古墳観を伝える石碑 三神霊之墓

 古墳は、3世紀後半から7世紀にかけて盛んに造られ、市内では現在のところ約500基が確認されています。

 古墳の中にはさまざまな副葬品が納められていますが、それを目当てに古くから盗掘の対象となってきたことも事実です。また、開墾などによって削られてしまった古墳も少なくありません。このような古墳は、記録に残されることが少なく、我々がその詳細を知ることは難しくなっています。

 一方、古墳を削った際に人骨が出土し、祟りを恐れ、供養するために建てられた石碑が各所に見受けられます。そこには、古墳を掘った経緯や埋葬施設の様子、出土遺物などが記されており、失われてしまった古墳の内容を知る上で貴重な資料と言えます。

 このような石碑の一つが田部の西雲寺に残されています。三神霊之墓と刻まれた碑で、高さは約120センチメートルです。碑文の内容を要約すると、次のようになります。

 「田部村に石棺の一部が露出している古墳があり、文政5年(1822)、村人が古墳を暴いた。石棺は17枚の板石からなり、夫婦と一児の遺骸と弓剣刀槍があったが腐食して使い物にならなかったため、失望して溝に捨ててしまった。その後、村では人や牛が死ぬなど悪いことが重なった。村人は恐怖におののき、人骨を桶に盛って埋葬を請うてきた。住職は村人達の愚行を責めながらも、戒名(證空院殿儀山宗忠大居士、證光院殿貞月妙操大姉、徹山了暎大童子)をつけて冥福を祈った。」

 この戒名は、当時では大名や旗本クラスのもので、いかに丁重に供養されたかがわかります。私たちも、祖霊に対しては敬虔な気持ちになりますが、江戸時代の人々もその気持ちは強く、「祟り」は広く信じられていたようです。

 この石碑は、当時の人が古墳や祖霊に対してどのような思いを持っていたのかを知る資料であるとも言えます。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成20年5月15号(PDF:715KB)掲載)

Vol-027 国登録有形文化財の土蔵 染織処谷屋土蔵(夢紫美術館)

 平成8年に文化財保護法が改正され、「文化財登録制度」が導入されました。これは、社会的評価を受けることなく消滅の危機にさらされている近代を中心とした文化財建造物を後世に継承していくために、従来までの指定制度を補完するために設けられたものです。

 谷屋土蔵は、この新制度によって国登録有形文化財(建造物)として平成11年8月23日に登録されました。

 小見川は、利根川とその支流である黒部川の河口に開かれた街です。古くから舟運による穀物などの集積地として栄え、江戸時代には内田氏の陣屋が築かれ、小さいながらも城下町として繁栄し、黒部川の両岸や旧銚子街道沿いには問屋や商家が建ち並ぶ町並みが形成されました。

 染織処谷屋土蔵は、黒部川に程近い旧銚子街道沿いに南に面して建つ呉服店で、創業は嘉永元年(1848)。現在の当主で7代目となります。

 土蔵は南北棟で、外壁は桁行総長7・2m、梁行総長4・6m、瓦葺2階建です。入口は店舗側の東面中央に設け、重厚な黒漆喰仕上げの観音開きの扉をしつらえています。西面に下見板を張り、2階の表通りに面して観音開きの窓を設けています。

 また、洪水に備えて床を上げるなどの工夫や、防火構造(壁の厚さが60センチメートル)も併せ持っています。

 建築年代は、棟札などが残っていないのではっきりわかりませんが、現存する文書から明治時代の初期に建築されたものと推測されています。

 現在の谷屋土蔵は、貝紫(アカニシ貝)の染色製品を展示する夢紫美術館として一般に公開されています。

 市内では、この他に香取神宮拝殿・幣殿・神饌所と香取神宮の附属施設である香雲閣も国登録有形文化財(建造物)に登録されています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成20年7月15号(PDF:768KB)掲載)

Vol-028 返田神社本殿 諸国一宮の石祠

 返田地区宮本に鎮座する返田神社は、鎌倉時代中期の古文書にも「返田悪王子社」とみえる古社で、軻遇突智神と埴山姫神を祭神とし、かつては香取神宮の摂社として村人の崇敬と庇護を受けてきました。

 本殿は間口7尺の一間社流造。建立の年代は建築様式から17世紀末から18世紀中頃と推定されます。当社は古来より香取神宮の造営時期にあわせて建造されており、元禄13年(1700)の神宮本殿(重要文化財)造営とともに建てられたと思われます。

 装飾も多く、江戸時代中期の特徴をよく示す建物として、平成6年3月1日に市指定有形文化財(建造物)に指定されています。

 鳥居をくぐり参道を進むと、その両側に同じ形をした石祠が整然と並んでいます。他の神社では見られないものですが、これは諸国の一宮を祀った石祠です。

 石祠の近くに「天神地祇」と正面に刻まれた大きな石標が建ち、石祠が建てられた由緒が背面と側面に刻まれています。それによると文化3年(1806)10月に返田村の黒田三右衛門豊昌が発願人となり、国中一宮66個に加え伊勢両宮と天神地祇合せて69社を石祠としたようです。

 その昔、日本には66の国があり、それぞれの国で最も格式の高い神社が一宮とされました。伊勢の両宮は別格扱いで、また天神は天の神、地祇は地の神を総称したものです。

 石祠は35基ずつ両側に並んでいますので、実際の数は70基となります。大きさは70センチメートルほどで、それぞれ列の先頭に建つ伊勢内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)の2基だけは、他よりも10センチメートルほど大きいものとなっています。

 石祠の正面には、国郡名とその国の一宮の名が刻まれています。当然のことながら、下総国の一宮は香取大神宮と刻書されています。判読できないものもありますが、全国的に有名な神社が並んでいますので、訪れた際にはご覧になってはいかがでしょうか。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成20年8月15号(PDF:766KB)掲載)

Vol-029 被葬者は神宮縁の人物か 又見古墳

 香取神宮の西方、又見の集落を見下ろす高台に又見神社が鎮座しています。現在の社殿は江戸時代に建てられたものですが、当社は鎌倉時代の文書にも「又見社」とみえる古社で天苗加命、武沼井命、天押雲命の三柱(一説には、天稚彦命、下照姫命を加えて五柱)を祀るとされています。

 訪れた人は気付かれたと思いますが、社殿のすぐ東側に崩れかけた石室がむなしく露出しています。これが今回紹介する又見古墳です。

 本古墳は、香取神宮より西方550mに位置し、標高37mの丘陵東南斜面に造られています。又見神社社殿東側に接するように石室のみが残存するだけで、現状では墳丘を確認することはできません。また、石室西側3m社殿床下にも雲母片岩板石を組合せた箱式石棺が1基あり、同一古墳内の埋葬施設であった可能性もあります。

 石室は、板状に加工した雲母片岩を組み合わせた横穴式石室で、現状では遺骸を安置する主室(玄室)だけが残っていますが、傍らに板石が数枚存在することから、外部から主室に通じる通路である羨道部が設えてあったと考えられます。奥壁1枚、左右側壁各2枚、玄門2枚、天井石2枚で構成され、床面には同じ石材の割石が敷かれています。主軸長185センチメートル、幅135センチメートル、高さ120センチメートル、玄門入口幅45センチメートル、高さ65センチメートルで東南に開口しています。

 コの字形に抉り抜いた板石を合わせた玄門は大変珍しいもので、現在のところ下総地域においては全く類例がなく、雲母片岩の産出地と考えられる筑波周辺に数例見られるだけです。

 副葬品などは全くわかっていませんが、石室の特徴から、7世紀中葉の築造年代が考えられています。本古墳は神宮に最も近い場所に造られた古墳であり、石室の構造だけでなく、神宮の成立を考える上でも大変重要な古墳です。

 昭和45年5月27日に市の史跡に指定されています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成20年9月15号(PDF:1,143KB)掲載)

Vol-030 清水入瓦窯跡 古代の瓦窯

 清水入瓦窯跡は、虫幡地区に所在する7世紀後半の瓦窯跡です。

 市教育委員会では、瓦窯跡の内容を把握するため、確認調査を実施しました。この調査で、窖窯を2基確認しました。

 窖窯は台地や山の斜面にトンネル状に作ります。その構造は、一番下に焚口、その奥が薪を燃やす燃焼室です。燃焼室に続いて製品を詰めて焼く焼成室があります。焼成室の床面は傾斜をつけて作ります。一番上に煙出しのための煙道があります。

 清水入瓦窯跡では、焚口から焼成室の一部がすでに壊されていたため、窯全体の構造を把握することはできませんでした。残されていた焼成室からは、多くの破損した瓦が出土しました。失敗品を残したまま窯を廃棄したようです。このほかに床面の補修や補強のために利用した瓦もありました。

 写真は、調査した窯跡を東から撮影したものです。焼成室の床面が傾斜している様子がわかると思います。

 出土した瓦は、平瓦と丸瓦が大半で、棟に使用する熨斗瓦や面戸瓦もありました。

 これらの瓦は、凹面に布目の痕がつくことから布目瓦とも呼ばれています。

 その製作技法は、細長い板を桶状に組み、布をかぶせた型に、粘土を巻きつけて筒状に成形し、それを縦に4分割して作ります。この製法は、円筒の型を桶とも呼ぶことから「桶巻作り」と言います。丸瓦は平瓦よりも径の小さい型を用い2分割して作ります。

 清水入瓦窯跡で作られた瓦は、東へ約1キロメートルの木内字権現台に所在する木内廃寺に供給されたと考えられます。

 木内廃寺の造営のために、瓦の製法や窯の構築方法など専門の知識や技術をもつ工人集団が、この地にいたこと示しています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成20年10月15号(PDF:872KB)掲載)

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