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アーカイブ香取遺産 Vol.011~020

更新日:2016年2月1日

アーカイブ香取遺産

Vol-011~020

Vol-011 江戸歌舞伎の名優 初代松本幸四郎

 初代松本幸四郎は、延宝2年(1674)に香取市外浜の嶋田家(屋号は菱倉)に生まれ、幼名を小四郎と名乗っています。元禄元年(1688)江戸に出て、久松多四郎の門下となり、舞台初名は久松小四郎の名で若女形を務めました。後に「松は霜雪に操を変えず、本は本心の本の字」として、松本姓にしたといわれています。正徳4年(1714)11月には、2代目を継ぐであろう長男を亡くしたために舞台を中座しています。享保元年(1716)に徳川将軍家の若君が小四郎と命名したため、名前を小四郎から幸四郎に改め、享保15年3月25日江戸で57歳の生涯を終えました。俳名を小見川、剃髪名を男女川、屋号は大和屋(初代)・高麗屋といいます。

2つの墓石

初代松本幸四郎の墓石は、東京都文京区向丘の千年山栄松院と香取市小見川の善光寺(千葉県史跡)にあります。前者には2つの墓石があり、1つには初代松本幸四郎(白譽単然直道大徳)と2人の後妻(智等院香譽浄薫法尼・繁譽栄室妙昌法尼)・2人の子ども(秋光了童子・暁昂夢了童女)と思われる人たちの戒名が刻まれ、もう1つには先妻(英光院定譽観月信女)の戒名だけが刻まれています。

 後者には、小ぶりで質素な墓石が1個残されています。その表面には幸四郎(白譽単然直道大徳)と先妻(定譽観月信女)、さらに近親者(理観亮雲楚江貞道信士)の3人の戒名が刻まれています。左側面には「江戸日本橋坂本町 松本小左ヱ門 同 和助」、裏面に「田からいま登る浮世乃 吉悪を忌みてぞ見る 秋の夜乃月(楚江)、虫なくや砧乃あいてうしないて 未ノ秋(一馬)」、右側面には「浮草の荷作登くと 法の夢(亀列)」と連歌が刻まれています。

 江戸時代には歌舞伎を上演する建物や、役者が居住する場所なども定められていました。初代松本幸四郎は主に市村座・森田座・中村座で活躍し、そのほかに化粧道具販売などの副業もしていたようです。

数々の大役を務める

 元禄7年(1694)に『役者いかづち』という本に若衆方の上位から9番目に名前が掲載され、元禄9年には森田座「平親王将門」に将門役を務め大当たり。元禄12年からの数年間若立役として荒事を務め、元禄14年に市村座「持統天皇都移」の狂言で大友皇子の敵役でめきめきと頭角をあらわします。元禄16年に森田座「23蕃柱暦」に平親王役、寶永3年(1706)に中村座「宇治源氏弓張月」の早太役、寶永6年に市村座「出世太平記」に篠塚五郎役、正徳3年(1713)には立役の上上吉に昇進。享保2年(1717)に中村座「鉢木豊年市」で青砥左衛門役で大当たり、享保4年、森田座「傾城紫手綱」で荒岡源太役。享保8年中村座「鉢木女御教書」で青砥左衛門役、同年に20年ぶりに舞台で2代目市川団十郎と対面し口上を述べます。享保11年初代市川団十郎の23回追善興行の中村座「門松四天王」に坂田公時役、享保14年市村座「長生殿白髪金時」の白髪金時役が最後の舞台となりました。

 江戸歌舞伎の名優とうたわれた初代市川団十郎と初代松本幸四郎が、千葉県の出身であることは非常に興味深い事実であります。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成19年2月15号(PDF:791KB)掲載)

Vol-012 香取の中世遺跡 大崎城跡

 大崎城は国分氏の居城と伝えられ、古くは「矢作城」と呼ばれていました。城跡は香西川の中流域、南から北に伸びる台地にあり、南北約800m、東西約300mという香取地域では大規模な部類の城郭です。大崎城跡は、昭和45年に市の史跡に指定されています。

築城から廃城

 国分氏は千葉介平常胤の第5子胤通にはじまり、戦国期には香取郡内で最も有力な在地領主になっていました。胤通が本矢作城を築き居城とし、国分氏第5代泰胤が、鎌倉時代末期に大崎城に本拠を移したとされています。

 大崎城は天正18年(1590)の徳川家康による関東制覇の時に、ほとんど戦うことなく開城したと伝えられています。その後、下総を領国化した徳川家康の家臣鳥居元忠が入城しましたが、まもなく岩ヶ崎に築城(岩ヶ崎城)を始めました。

 しかし、元忠は岩ヶ崎城の完成を見ることなく、慶長5年(1600)に京都の伏見城で戦死します。遺領は元忠の第2子忠政が継ぎましたが、陸奥磐城へ国替えとなり、それ以降大崎城は廃城になったと伝えられています。

 廃城から約250年後の大崎城跡の様子を克明に描いた絵図が残されています。弘化3年(1846)の「臼田七郎右衛門記・矢作古城跡之図」です。絵図には「御本城跡」「妙見宮跡」「城戸」「はましま」などと共に、「白旗大明神」「妙性寺」「本命寺」などの書込みが多数みられます。「御本城跡」は主郭を、「城戸」は城への入り口を指すと思われます。

 大崎城跡は4カ所の郭と斜面部の腰曲輪からなります。各郭は堀によって区画されています。第1郭は台地の先端にあり、南へむかって第2郭、第3郭、第4郭と続きます。

4回の発掘調査

 大崎城跡では、過去4回の発掘調査を実施しています。第1郭の主郭部、主郭部西側の裾部と中段部、第3郭の中段部で行いました。主郭部の調査では、「虎口」と思われる主郭部への入り口跡を調査しました。主郭部西側の裾部は絵図に「はましま」「城戸」と記されている所です。大きな砂岩を使い護岸工事を施した濠跡や、盛土をして作り出した平坦部を調査しました。

 平坦部は少なくとも3回以上の整地をしていることがわかり、各整地面からは建物跡や井戸跡がみつかりました。遺物は漆器類や中国産の陶磁器類、僧侶の名前と思われる墨書「遍光」のある土器、呪符木簡「急急如律令」、桜の木を削って作った「永禄4年(1561)」銘の卒塔婆などが出土しました。ちなみに永禄4年は、織田信長が桶狭間の戦いで、今川義元を破った1年後の年です。

 第1郭と第3郭の中段部からも3回以上の整地の跡を確認しました。やはり建物の柱跡が多数みつかりました。また第3郭では、堀跡から3本の丸太を束ねた柱跡を調査しました。堀に橋が架けられていたと考えられます。

 発掘調査は、大崎城跡全体からすれば僅かな範囲ですが、文献や絵図には記されなかった城跡の様子を、明らかにしつつあります。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成19年3月15号(PDF:831KB)掲載)

Vol-013 九州大名家ゆかりの墓所 鍋島氏の遺跡

 上小川の円通寺に肥前鹿島藩鍋島氏ゆかりの墓所があります。

 鍋島氏は、江戸時代佐賀地方で35万石余を領有していた比較的大きな外様大名で、薩摩・長州・土佐と並んで明治維新を推進した藩としても有名です。藩祖は直茂、初代藩主は勝茂(直茂の長男)です。鍋島藩には3つの支藩(鹿島・小城・蓮池)がありました。鹿島藩は慶長14年(1609)に直茂により創設され、その次男であった忠茂が初代藩主となりました。

 円通寺の墓所内には、この初代鹿島藩主である忠茂を始めとする5基の墓石が横一列に建っています。

 向かって右から、4代直旨・3代正恭・初代忠茂・忠茂妻・2代正茂の順となっています。中央に建つ忠茂墓石は、高さが約180センチメートル、五輪塔形式で、長年の風化で全体に損傷が見られます。銘文は麿滅により判読が困難ですが、正面には「得髄院殿悟叟浄頓大居士」という戒名と、「寛永元甲子年八月四日」という没年が刻まれています。忠茂は晩年病気療養のため、上小川に住み、41歳の若さで当地にて歿しました。

鍋島氏と矢作領

 慶長5年(1600)、徳川家康などの東軍が勝利した「関が原の戦い」では、鍋島家は佐賀で静観していましたが、勝茂が西軍に味方したため当家の立場が危うくなりました。これを憂慮した直茂は次男忠茂を家康の嫡子である秀忠の小姓として差し出しました。忠茂はその忠勤ぶりにより、幕府から下総矢作領5千石を賜り領地としました。鹿島藩が創設される前のことです。

 忠茂の歿後、嫡子の正茂が鹿島領・矢作領合せて2万5千石を継ぎますが、故あって寛永19年(1642)に鹿島藩主の座を返上し、矢作領の5千石をもって鍋島氏は徳川家の旗本となり、5代長行の、元禄11年(1698)に三河国に移されました。

指定史跡に

 円通寺は、忠茂代の元和2年(1616)に菩提寺として再建されました。本堂は嘉永年中の火災により焼失し、現在は観音堂一宇が建てられています。この観音堂は大正12年(1923)に鹿島藩主の子孫が先祖供養のために建立・寄進した建物です。

 昭和59年(1984)9月1日、鍋島氏の墓所は「肥前鹿島藩鍋島氏の遺跡」として市指定の史跡となり、忠茂夫妻と正茂、直旨の4つの位牌、金銅製観世音菩薩立像1体も指定されました。この観世音菩薩像は約7センチメートルの小さな仏像で、鍋島家の家紋である杏葉を扉に配した丸厨子に安置されています。口伝によれば、この観音像は忠茂の守護仏で、もともと兜の鍬形台正面、篠垂れのところに取り付けてあったものだそうです。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成19年4月15号(PDF:1,184KB)掲載)

Vol-014 古墳時代の葬送儀礼を物語る遺物 石枕と立花

 古墳は、3世紀後半から7世紀にかけて全国各地で盛んに造られました。

 香取市においても、前方後円墳をはじめ円墳や方墳など多数の古墳が築造され、現在のところ約500基が確認されています。特に、三ノ分目の大塚山古墳は、県内屈指の規模を誇る、5世紀中頃の代表的な大型前方後円墳です。古墳の内部には、武器・武具・装身具など、さまざまな副葬品が収められています。今回は、当地域の5世紀から6世紀前半に特徴的な副葬品である、石枕と立花を紹介します。

石枕と立花とは

 石枕は、文字どおり石で作った枕のことですが、私たちが日常使うような枕ではありません。死者の頭を載せる葬儀用の枕です。通常、平面形を円形や馬蹄形に成形し、中央部は頭を載せるように窪めています。

 現在のところ、千葉県内で約70個の石枕が見つかっていますが、これは全国の6割近くを占めています。また、その大半は旧下総町、神崎町、旧佐原市の利根川流域に集中し、千葉市や成田市、対岸の茨城県鹿嶋市、稲敷市などにも一部分布しています。

 立花は、2個の勾玉を背中合わせにして軸に縛った形状を模した石製品で、石枕の外周に穿たれた小孔(立花受孔)に立て並べたものです。

 上の写真は、昭和62年に発掘調査した大戸宮作1号墳から、石枕や立花が出土した状況を撮影したものです。

 石枕は、縦25センチメートル・横29センチメートルで、馬蹄形に成形され、外周には7個の立花受孔があります。立花は計8本出土していますが、石枕には1本も立てられておらず、すべて石枕の周囲にばら撒かれた状態で発見されています。これは大戸宮作1号墳に限らず、これまで調査された他の古墳においても同様です。古墳に埋葬する時点では、石枕に立花を立てることはなかったようです。

葬送儀礼に使用

 このことから、石枕に立花を立てて使用したのは、埋葬前に行われた葬送儀礼の段階であったと考えられます。その葬送儀礼が具体的にどのような内容であったのかは明らかではありませんが、「殯」と呼ばれる儀礼であったとする説が有力です。殯とは、死者を埋葬するまでの一定期間、殯宮に安置し、そこで「魂鎮め」などさまざまな宗教的儀式を行ったものです。

 石枕と立花は、殯の期間中にその役目を果たし、その後、死者とともに古墳に埋納されたものと考えられます。これらの地域は、石枕と立花を媒介とした共通の葬送観を持つ地域であったと言えます。

 一方、利根川下流域最大の古墳である大塚山古墳を築造し、また、後の下海上国造の勢力基盤と考えられる旧小見川町域からは、石枕や立花がひとつも発見されていません。この事実が何を意味するのか、大変興味深いことです。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成19年5月15号(PDF:750KB)掲載)

Vol-015 香取の中世遺跡 東氏と森山城跡

 森山城跡(岡飯田)は、東氏の居城と伝えられています。東氏は、千葉氏の祖、平常胤の六男胤頼が、治承4年(1180)に立花郷(橘庄=「香取郡東庄三三郷」)を領有することにより、東氏を名乗ったことに始まるとされています。

 胤頼から数えて三代目の胤行は、承久の乱(1221年)の軍功により美濃国郡上郡山田荘(岐阜県郡上八幡市)に領地を得、その子行氏は美濃東氏の祖となりました。連歌師飯尾宗祇に古今伝授を行った東常縁は、その子孫になります。

城の概要

 城は、黒部川とその支流に挟まれた東西にのびる半島状の台地に築かれ、その規模は南北約430m、東西約620mに及びます。

 城の構造は、直線連郭式の山城と呼ばれるもので、郭や空堀などの遺構も良好な状態で残っています。

 台地の西端から、根小屋・仲城・三城と城に関係する小字名が残っており、このあたりが城の中心部であったと考えられます。それぞれの郭は、空堀で区画され、土橋によってつながれています。

 「根小屋」は「根古屋」とも書き、平時に兵が居住した場所のことを指します。織豊期以降、平城の普及とともに消滅してゆきますが、小字名として各地に残っています。

 三城の東には、鳳凰社の祠があり、地元では「おふうさま」と呼ばれています。この区画の東側約300mに須賀山城跡があります。

 東氏は、前野城(旭市桜井)に居住していましたが、のちに沼闕城(東庄町小南)、須賀山城、森山城に移ったとも伝えられています。

 「小見川町史」では、文治元年(1185)に胤頼が須賀山城を築き、建保6年(1218)にはこれを壊し、森山城を築城して移ったとしています。

 ちなみに、1185年は壇ノ浦の戦で平氏が滅亡し、源頼朝が諸国に守護・地頭を設置した年です。

築城の時期は

 森山城の築城の時期を、鎌倉時代とすることに異論も出ています。いわゆる「馬出し」とされている施設が、戦国時代末期の特徴であることから、築城の時期は16世紀初頭まで下がるとするものです。築城時期や東氏との関りは、今後の調査成果をまたなければなりません。

 なお、須賀山城の麓にある芳泰寺には、胤頼夫妻の墓と伝えられる2基の五輪塔があり、昭和51年に市の文化財に指定されています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成19年6月15号(PDF:740KB)掲載)

Vol-016 藩主もいろいろ 小見川藩 内田氏

 天正18年(1590)8月1日、徳川家康が江戸に入ると小見川の地は粟飯原氏から代官吉田佐太郎の支配に変わり、太閤検地が実施されます。

 その後、三河武士の松平家忠が埼玉県忍城から転封され、その子忠利、さらに土井利勝、安藤重信等が支配し、これ以降佐倉領、幕府領を経て内田正信の領地となります。

 3代将軍家光の奥小姓であった正信は、寛永16年(1639)相模国海老名の1800石に旧小見川村周辺の8200石を加増されて一万石の大名に列せられます。

 慶安2年(1649)には下野国都賀郡・阿蘇郡内の五千石がさらに加増されて、鹿沼に居所を定めています。

 この頃、正信は3代将軍家光のもとで将軍近習出頭人を兼ねるまでになりますが、慶安4年(1651)4月、将軍家光が47歳の若さで病死するという一大事が起きます。側近であった大老堀田正盛、老中阿部重次、内田正信ら5人は即日切腹し、殉死しています。

 このことは当時もかなり話題になり、恩顧を受けながら殉死しなかった人たちは大いに非難されたようです。

小見川藩の成立

 この殉死を受けて、7歳の正衆が後を継ぎ2代目となります。この正衆の治世に小見川の御陣屋の普請や多くの用水堰が築かれます。

 正衆の孫に当たる正偏が3代目となりますが、享保9年(1724)に乱心して室(妻)に傷害し、幽閉されています。そのため、長男である正親は家督の一部を没収され、4代目となります。そして居住地を鹿沼から小見川に移し、名実ともに小見川藩が成立します。

 その後、5代正美―6代正良―7代正純―8代正肥と続きますが、正肥は嫡子がないまま亡くなったので旗本の石河貞通の三男正容が養子となって9代となります。

 この正容は、当時としてはかなり型破りな藩主で、町芸者を落籍して屋敷に引き込み、深川や向嶋へ船で出かけては女郎と手を取って歩き、身体には種々さまざまの刺青をしたことなどが咎められ、天保8年(1837)に隠居を仰せ付けられています。

 その後3人の子どもが相次いで家督を継ぎますが、いずれも父正容より早くに亡くなっています。そのため、元治元年(1864)、分家にあたる内田正路の次男、正学が13代目となります。慶応4年(1868)から、房総の地も戊辰の騒乱に巻き込まれましたが、正学の気転により、小見川藩は事なきを得ています。

 明治2年(1869)6月、正学は版籍を奉還して藩知事に任命されています。

 内田氏は3代正偏や9代正容のような藩主が居たにもかかわらず、無事に廃藩置県を迎えることが出来たのは、初代正信が将軍家光の死に臨み、殉死して果てた功績によるところが大きかったのではないでしょうか。

 小見川の本願寺には、内田氏歴代の位牌が残され、重臣であった脇家には「小見川御陣中図面」が伝えられ、いずれも香取市の指定文化財になっています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成19年7月15号(PDF:810KB)掲載)

Vol-017 東国への仏教伝播 関東初の押出仏

 関峯崎横穴群は、香取市関字峯崎と成田市堀籠字峯崎との境に沿って所在します。古墳時代後期から8世紀はじめごろまで営まれた北総地域最大の横穴群で、その数は100基以上と推定されています。

 横穴は「おうけつ」とも呼ばれ、古墳時代後期に顕著な埋葬施設の一つで、山腹や台地の縁辺部に横から穴を掘って墓室をつくったものです。

 昭和62年に実施された発掘調査で、3号横穴から押出仏が発見されました。押出仏が発掘調査で発見されたのは関東地方では初めてであり、しかも横穴からの出土は全国でも他に例がなく、マスコミにも取り上げられて大変話題になりました。

 押出仏とは薄い金属板を浮き彫りの原型の上にのせ、木槌などで打ちたたいて型の凹凸を写し取る技法、または、この技法でつくった仏像をいいます。この技法は中国から朝鮮半島を経て6、7世紀にもたらされ、畿内では7世紀後半にさかんにつくられました。

 本押出仏は、後屏に両脇侍像を配した金銅製如来三尊像です。中尊および両脇侍像はそれぞれ別に打出され、鍍金(金メッキ)仕上げの後、鋲留されています。

 後屏は、厚手の銅板を蓮弁形に成形し、両面を鍍金仕上げしています。基部に柄をつくり出して、台座にはめ込むようにしています。現存高16・9センチメートル、現存幅14・9センチメートル、厚さ0・8ミリメートル。

 火焔付円形頭光を負った中尊は、体部の大半と台座を欠失していますが、全体のバランスから坐像と推定されます。厚さ0・4ミリメートル、頭部長2・8センチメートル、頭部張2・5センチメートル。

 両脇侍像はともに宝珠形頭光を負って、蓮茎付蓮華座に侍立しています。左脇侍像(向って右)は、右手を胸前に上げ、左手を腰下に置いています。この形は観音菩薩像を意識しているようにも見えます。厚さ0・4ミリメートル、全高6・45センチメートル、最大幅2・6センチメートル。

 中尊には豊かな頬にあどけなさが認められ、両脇侍像も童顔に表されていることなどからみて、7世紀後半に制作されたと考えられます。また、制作技法からみても、当地方でつくられたというよりは畿内で制作されたとみて差し支えないでしょう。

枕辺に阿弥陀如来

 もし、左脇侍像が観音菩薩像であれば、中尊は阿弥陀如来であり、本押出仏は阿弥陀三尊像ということになります。

 おそらく、この仏像は、被葬者が生前厨子に入れて礼拝していたものと思われます。死後、阿弥陀如来の浄土に生まれることを願って、枕辺に置かれたのではないでしょうか。

 関東地方では初見例であり、東国への仏教伝播を考えるうえで大変重要かつ貴重な作例といえます。

 平成19年7月3日付で市有形文化財(考古資料)に指定されました。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成19年8月15号(PDF:760KB)掲載)

Vol-018 33年に一度のご開帳 織幡花見寺の仏像

 香取市の地図を広げてみると、ほぼ中央に『織幡』があります。平安後期の香取文書にも、香取神宮大禰宜家の私領としてその村名が見える旧村です。

 この織幡に花見寺というお寺があります。真言宗の寺院で、山号を天竺山といいます。かつては大きな伽藍を有していたと伝わっていますが、周辺に寺後・寺小路・大門・大木戸・寺屋敷といった関連を思わせる小字名が残ることから、伝承のとおり大きなお寺であったかもしれません。いつのころか廃寺となり、現在はその跡地に薬師堂一宇が建っているだけです。

 この薬師堂には、ご本尊の薬師如来をはじめ、県指定有形文化財の仏像5体が安置されています。33年に一度ご開帳されます(前回は平成6年)。

 銅造薬師如来立像(像高48・5センチメートル)、銅造阿弥陀如来立像(像高46・3センチメートル)、銅造観世音菩薩立像(像高33・5センチメートル)、銅造十一面観世音菩薩立像(像高43・9センチメートル)、木像十一面観世音菩薩立像(像高130センチメートル)で、いずれも昭和33年4月23日に指定されています。

鎌倉時代の仏像

 まず、4体の銅造仏ですが、いずれも鎌倉時代に流行した宋風彫刻の影響を受けており、細部の表現方法や処理の仕方、鋳造技術の面から、正統な仏師による造像と考えられます。4体とも本体は頭から像底までを一度に鋳上げた一鋳で、白毫に大きめの水晶を嵌め込んでいます。

 薬師如来像は、両手首から先は別鋳で、を作ってはめ込んでいます。特に薬壺を載せた左手は、明らかに他の部位と造りが異なっており、後世に変更されたものとみられます。本像は、横芝光町の隆台寺銅造阿弥陀如来立像(県指定)と酷似していることから、同じ仏師によって鋳造されたとも考えられています。

 阿弥陀如来像と観世音菩薩像は、いわゆる善光寺式阿弥陀三尊像の中尊と脇侍です。脇侍のもう一体勢至菩薩像は現存しません。

 善光寺式の阿弥陀如来像は、垂下した左手の人差し指と中指を伸ばし他の指を曲げる「刀印」という印相が特徴です。また脇侍観音菩薩像は、胸前で両手を水平に重ねた梵筐の印を結び、八角形の独特の宝冠を載せています。宝冠には正面に阿弥陀像、他面に聖観音の梵字を鋳出しています。

 銅造十一面観音菩薩像は、11の化仏を頭上に載せていましたが、3面を失い、また1面は本体から分離しています。これら化仏と両腕は別鋳となっています。

ふくよかな観音像

 一方、木造十一面観音菩薩立像ですが、小柄な人の背丈ほどで、全体にふくよかな印象を受けます。頭部と胴体を1本のカヤ材で造った一木造の木像で、頭上の化仏や両腕、足先は別材で矧ぎ付けてあります。頭部正面に阿弥陀像を配し、その他頭上に化仏を廻らせています。胸元には、墨で胸飾を描いています。全体的に素朴で、衣の表現が曖昧である点などから、伝統的な技法を身に付けた仏師の手によるものではないと思われます。

 いずれにしても、これだけの仏像を今日に伝える織幡の花見寺とはどのような寺であったのか、たいへん興味が持たれます。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成19年9月15号(PDF:783KB)掲載)

Vol-019 縄文土器研究の基準的な資料 向油田貝塚

 向油田貝塚は、山田区の神生字たらの木地先にある縄文時代中期(4~5千年前)を中心に形成された貝塚です。黒部川の支流である清水川によってつくられた狭隘な谷を望む台地の斜面にあり、東西2カ所の貝層が確認されています。

 黒部川流域に広がる沖積平野を取り囲む台地上には、国指定史跡の阿玉台貝塚や良文貝塚をはじめ、数多くの貝塚が存在します。これらの貝塚は、古くから多くの研究者が当地を訪れ、発掘調査を行ったことから、全国的に知られるようになりました。

 本貝塚は、昭和17年に初めて学界に紹介されて以来、昭和20年代に相次いで発掘調査が行われました。特に、昭和26年、早稲田大学の西村正衛氏によって行われた発掘調査では、阿玉台式土器の変遷を、出土層位によって確認できたことにより、その後の阿玉台式土器研究の基準的な資料となりました。

 縄文時代について書かれた本を開くと、「阿玉台式土器」という土器型式名を必ずと言ってよいほど目にします。阿玉台式土器は小見川区の阿玉台貝塚で出土した土器を標準として設定された型式で、関東地方の縄文時代中期を代表する土器型式のひとつです。粘土紐を帯状に貼り付けた文様や、幅の狭い板状工具や半分に割った篠竹の先端を連続して押し付けた文様が主で、胎土に金雲母を多く含むことが大きな特徴です。

 本貝塚では、現在でも地表に貝殻や土器の破片が散布しているのを観察できますが、西村氏の調査以降は本格的な調査は行われておらず、貝層の正確な位置や範囲を知ることはできません。

 なお、向油田貝塚は、昭53年8月20日付けで山田町文化財に指定され、合併後は香取市指定記念物(史跡)となっています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成19年10月15号(PDF:782KB)掲載)

Vol-020 中世の木製塔婆 永禄4年銘の卒塔婆

 卒塔婆は、古代サンスクリット語の梵字や経文などを記し、死者の追福のために墓などに立てるもので、現在でも墓石の後ろなどに塔形の細長い板を立ててあるのをよく見ます。

 ここでとりあげるのは、大崎城跡(市指定史跡)の発掘調査で出土した、永禄4年(1561)の紀年銘をもつ卒塔婆です。

 この卒塔婆は、濠跡から動物の骨などと共に廃棄された状態で発見されました。直径約3・5センチメートル、長さ約150センチメートルの桜木を樹皮を残したまま削いで、空風火水地を表す「発心門」梵字、「光明真言」(呪文)梵字を記し、その下に「法華経如来寿量品」というお経の句、さらにその下に回向文を漢字で二行に書き分けています。

 回向文には「□□信女」云々とあることから、この卒塔婆は女性を供養するために作られたことがわかります。

 当地では、鎌倉時代から室町時代にかけて大小さまざまな石製卒塔婆(下総式板碑)が数多く作られますが、木製卒塔婆の発見例は初めてであり、当時の庶民の信仰を知る上で大変貴重な資料です。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成19年11月15号(PDF:732KB)掲載)

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教育部 生涯学習課 文化財班
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香取市役所

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