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アーカイブ香取遺産 Vol.031~040

更新日:2016年2月1日

アーカイブ香取遺産

Vol-031~040

Vol-031 古代集落跡の様相が徐々に明らかに 上宿台遺跡・大荒久遺跡

 上宿台遺跡と大荒久遺跡は、牧野地区にある古墳時代から平安時代にかけての集落跡です。

 市教育委員会では、都市計画道路仁井宿与倉線道路改良事業に伴い、平成19年度に2遺跡合わせて約4500平方メートルの発掘調査を行いました。

 発掘調査の結果、古墳時代後期から平安時代の竪穴住居跡57軒、掘立柱建物跡6棟など、多くの遺構が見つかりました。

 竪穴住居跡はすべて方形で、大きさは一辺9.5mから2.5mのものまで大小さまざまですが、時代が新しくなると小さくなる傾向が見られます。床面に柱穴を4カ所穿ち、北側の壁にはカマドを付設しています。また、小型の住居では柱穴がないものも少なくありません。

 掘立柱建物は、整地面に直接柱穴を掘って建てた建物ですが、調査では柱穴だけが方形または長方形に並んで見つかるだけです。上宿台遺跡からは、古墳時代後期の大型の建物跡が発見されました。東西11m、南北5.5mで、計32個の柱穴が見つかりました。このような大型建物跡は、一般の集落跡で発見されることは少なく、市内では2例目となります。集落の中でも特別な建物であったと考えられます。

 各遺構からは、当時の人々が使った土器などの遺物が、整理箱で約100箱出土しました。土器は、煮炊き用の甕、穀物などを蒸すための甑、盛り付け用の坏や高坏など多様です。中には、赤い顔料を塗ったもの(赤彩土器)や、墨で文字を書いたもの(墨書土器)も見られます。

 土器の多くは、千数百年の間、土の中に埋まっていたため、割れて破片になって出土しました。現在、土器の破片を接合して元の形に復元し、足りない部分を石膏などで補充する作業を行っています。地道な作業ですが、作業が進むにつれ、当時の人々の生活の様子が徐々に明らかになってきます。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成20年11月15号(PDF:774KB)掲載)

Vol-032 清貧の行者・徳本上人 徳本念仏塔

 路傍や浄土宗・天台宗の寺院などに、独特な丸文字で終筆がはねあがる書体で正面に「南無阿弥陀佛」と刻まれた石碑を見かけることがあります。

 これは、江戸時代に南無阿弥陀仏を唱え、全国を行脚して民衆に念仏を広めた「徳本上人」の念仏塔です。

 現在市内では、佐原西関戸の子育地蔵尊裏墓地・磯山の願海寺・扇島の長泉寺・大倉の船越地蔵堂前・一ノ分目の善雄寺・三ノ分目の円福寺・下小堀の浄福寺・小見川大根塚の金比羅神社前の路傍・川頭の青年館(光明院跡)・下飯田の西音寺・阿玉川の八坂神社脇の共同墓地・山倉の応福寺で確認されています。

 これらの形状や石材はさまざまですが、正面には「南無阿弥陀佛 徳本」、徳本の下に丸く描かれる花押が認められます。側面や裏面には村名、造立者、造立年月日などが記されています。

 徳本上人は、宝暦8年(1758)に現在の和歌山県日高郡日高町に生まれ、27歳で出家、草庵に住み、木食行を行いながら、独学で念仏の奥義を悟ったと言われています。

 寛政6年(1794)ころからは日本各地を行脚し、「徳本講」と呼ばれる念仏講(木魚と鉦を激しく叩くという独特な念仏)を組織し、清貧な生き方を指導して廻りますが、文化11年(1814)、江戸増上寺の典海の要請により、江戸小石川にある伝通院の一行院を再興し、ここに住いを定めます。これから間もない文政元年(1818)、一行院で弟子にみとられて61年の生涯を終えています。

 上人は、文化13年(1816)2月を皮切りに3回にわたって下総地方を訪れていますが、この地での石碑の建立年が文化13年(1816)~15年(1818)のものが多いことから、「徳本講」が短期間に浸透したことを伺い知ることができます。

 徳本念仏塔は、上人が巡教した土地に多く建てられました。その数は全国各地で千基を超えると言われており、その信仰は今に受け継がれています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成20年12月15号(PDF:808KB)掲載)

Vol-033 津宮遺跡群の発掘調査から 香取の海と低地遺跡

 利根川は、近世の初頭に徳川幕府によって東遷が行われるまでは、東京湾に流れ込んでいました。東遷以前のこの一帯は、霞ヶ浦や印旛沼まで続く広大な内海であったといわれています。当時、この内海全体を表す名称はなかったようで、特に下総国香取郡に接していた一部を、「香取の海」と呼んでいたようです。

 中世になると、文献から当時の様子がある程度わかります。南北朝時代の応安7年(1374)頃に作られた「海夫注文」には下総国の津(港)として24箇所の地名が記されています。

 その中に「つのみやの津」があり、現在の津宮付近にあったと推定されています。

 津宮地区には、自然堤防に立地する津宮遺跡群と津宮古墳群があります。自然堤防は、利根川東遷以前の氾濫によってできた微高地で、香取駅周辺の東西に延びる幅300mほどの範囲です。標高は最大で約5mになります。

 津宮遺跡群の発掘調査では、縄文時代から中近世までの遺構や遺物が見つかっており、遺跡群の範囲が、自然堤防の標高約2mのところまで広がっていることもわかりました。

 市内には津宮遺跡群以外にも、低地に遺跡や古墳が多くあります。

 佐原地区の仁井宿東遺跡も低地に立地する縄文時代から中世の遺跡です。発掘調査では、標高約3・2mの面から古墳と住居跡などが見つかっています。

 また、多古町の栗山川遺跡群では、縄文海進が最大に達したと考えられている時期の水際の跡が、標高約2・3mのところから見つかっています。

 「香取の海」というと、この地域の低地全体に海が広がっていたイメージを抱きがちですが、そうではないことが低地遺跡の発掘調査からわかります。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成21年1月15号(PDF:1,149KB)掲載)

Vol-034 城山一号墳 下海上国造の奥津城

 古墳時代も6世紀ごろになると、ヤマト王権は各地の有力首長を国造に任命してそれぞれの地方を治めさせるようになります。『隋書』東夷伝倭国の条には国造治下の国が120あったとされており、6世紀末から7世紀初めの推古朝ごろには倭政権の地方支配体制として全国的に確立していたと思われます。千葉県下では須恵国造、馬来田国造、上海上国造、伊甚国造、武社国造、菊麻国造、阿波国造、印波国造、下海上国造、千葉国造の存在が文献から知られています。当時、香取地区の大半は下海上国造の統治下にあったものと思われます。

 昭和38年11月小見川地区の城山で、県立小見川高等学校の建設工事に先立ち一基の前方後円墳の発掘調査が行われました。全長70m、墳頂部には円筒ハニワ、中段には人物、馬、家などのハニワ列をめぐらしていました。主体部は自然石を積みあげた全長6mの横穴式石室で遺骸を安置する玄室(長さ4.5m、幅1.3~1.7m)から環頭大刀、頭椎大刀、円頭大刀、鹿角装刀子その他の鉄刀類、鉄鏃、衝角付冑、挂甲、鉄地金銅張鞍金具・杏葉・鏡板付轡・雲珠、壺鐙、銀製空玉、金銅製耳環、銀製耳環、金銅製鈴、金銅製冠、三角縁神獣鏡など、多くの武器、武具、馬具、装身具類が出土しました。また、木棺材と思われる分厚い板片が発見されており、遺骸は、多くの副葬品とともに木棺に納められていたものと思われます。

 武器や武具、ハニワなどの型式から、古墳の築造年代は6世紀末ごろで、その後、追葬が7世紀初めごろまで行われていたようです。

 墳丘のハニワ列、石室の規模、副葬品の質・量などからみて、この古墳の被葬者は下海上国造もしくは国造一族の有力者であることは間違いなさそうです。

 古墳は調査後消滅しましたが、出土遺物は昭和44年4月に「城山一号墳出土品」として県指定有形文化財(考古資料)に指定されました。現在、香取市文化財保存館で常設展示されています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成21年2月15号(PDF:485KB)掲載)

Vol-035 全国からの寄付で建立 伊能忠敬の銅像

 佐原駅から南へ400mほど歩くと、諏訪の山のふもとにある佐原公園に「伊能忠敬銅像」があります。

 台座の高さ約5.5m、像の高さ約3.3m。脇に角度を測る方位盤を据え、右手に筆、左手には測量データを記録する野帳を持つ、測量中の姿をした立派な銅像です。

 作者は日本近代彫刻の先駆者として著名な大熊氏広氏によるもので、彼の代表的な作品には「有栖川熾仁親王像」や東京国立博物館表慶館正面の「ライオン像」など100を越えます。そして石の台座には、漢学者として有名な塩谷青山による「仰瞻斗象 俯画山川」(天体を観測し、地図をつくる)と刻まれています。

 銅像は、大正8年に当時の佐原町有志により建立されました。当初5万円の寄付を全国から集めて、記念文庫と銅像を建てる計画でしたが、寄付は2万4000円にとどまり、記念文庫建設は断念。銅像だけを建て、残りは植樹や維持管理のため町に寄付をしました。

 寄付者名簿から、個人・会社・学校など約1800件、5円未満の寄付者は省略とあるので、おそらく2000件を超える寄付が集まったと思われます。

 北は青森県、南は鹿児島県、さらに台湾からの寄付も記録されています。このことからも、伊能忠敬の名前が全国に広く知れ渡っていたことが伺えます。

 銅像建立の発端は、忠敬没100年(大正7年)を記念して企画されたものでしたが、それ以前に忠敬に関して、国定教科書修身に掲載(明治37年~)、東京帝国大学卒業式で伊能図や測量器具を天皇陛下が天覧(明治42年)、帝国学士院での本格的な調査結果の出版(大正6年)など、脚光を浴びてきたこともその背景にあったと思われます。

 除幕式は大正8年3月2日。1500人以上の人が集まり、盛大に執り行われました。その後、戦時中の金属回収にも遭わず、90年以上にわたり公園の一角で、今も静かに街を見守っています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成21年3月15号(PDF:843KB)掲載)

Vol-036 府馬の修徳院 善光寺式阿弥陀三尊

 長野県善光寺のご本尊を模したとされる、特色ある形式の仏像を「善光寺式阿弥陀三尊」と呼びます。

 阿弥陀如来を中尊とし、観世音菩薩、勢至菩薩を両脇侍とする三尊像です。多くは中尊が50センチメートル前後の銅造の立像です。鎌倉期以降、関東や東北地方を中心に全国各地で盛んに造られました。県内でも30数例現存することが確認されており、その一つが府馬の修徳院にも伝わっています。

 修徳院は、満寿山宝満寺を号する天台宗の寺院です。寺の言い伝えによれば、天喜3年(1055)千葉常将の三男昌天により開基された古刹で、ご本尊は薬師如来です。

 この三尊像は、明治初期に廃寺となった同地区の西観院の本尊を移したものと伝えられています。

 阿弥陀像の像高は49センチメートル、両手首の他は一鋳です。残念ながら両手首は失われていますが(左手は後補)、善光寺式中尊は、右手は施無畏印(掌を開き正面に向ける)、左手は刀印(人差し指、中指の二指を伸ばし、下に下げる)が特色ですので、この印を結んでいたと推察され、光背用と思われるが背中に鋳出されています。

 両脇侍の像高は、観音像30.4センチメートル、勢至像30センチメートル、いずれも梵篋印(胸前で両掌を水平に重ねる)を結んでいます。これも善光寺式の特色の一つで、両像とも肩から先を別鋳として嵌め込んでいます。八角宝冠を戴き、その正面に観音像の証である阿弥陀像と勢至像の証である宝瓶を鋳出しています。

 三躯とも保存状態はたいへん良く、鍍金も残っています。中尊の背中には、正応3年(1290)、匝瑳北条大寺郷の平次太郎入道が造立した旨の刻銘があり、両脇侍にも同様の刻銘があります。製作年代の明らかなものでは、県内でも最古の部類に属します。

 修徳院の三尊仏は秘仏のため、通常は拝観できませんが、現在、長野県信濃美術館へ出品展示(5月31日まで)されています。

 (県指定文化財「銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像」、昭和42年12月22日指定)

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成21年4月15号(PDF:551KB)掲載)

Vol-037 水郷観光の幕開け 水郷之美 冠天下

 水郷佐原水生植物園入口右側に、大きな石碑があります。揮毫したのは、歴史家評論家として著名な徳冨蘇峰(小説家の徳冨蘆花の兄)で、昭和8年に書かれました。現在その書は佐原中央図書館のロビーに展示してあります。

 利根川に面した香取は、江戸時代から香取神宮、鹿島神宮、息栖神社などをめぐる観光地でした。

 明治に入り蒸気船や鉄道で都心と結ばれると東京近郊にはない、与田浦の広い水面と広大な水田、入組んだ江間(エンマ)と呼ばれる水路は都会の人には珍しく、作家による紀行文や作品にも「水郷の舟遊び、銚子の磯遊び」などと取り上げられ、ますます人が集まるようになりました。

 昭和2年、アンケートで日本八景を新たに選定するイベントが東京日日新聞社・大阪毎日新聞社主催により行われます。運動は全国で大々的に行われ、当地でも「水郷之利根保勝会」という団体が投票を呼びかけました。結果、40万票以上の票が集まり、八景には入らなかったものの25勝として、全国に日本水郷の名が知れ渡ることとなりました。

 昭和5年には、銚子と佐原間に水上飛行機による大利根遊覧飛行が香取の人により開始。昭和6年には、水郷汽船株式会社があやめ丸、さつき丸を就航しました。特にさつき丸は全長50m、総トン数155トンで、浅喫水船としては、当時国内最大のもので、一部3階建ての白い船体は水郷の女王と呼ぶにふさわしい容姿でした。昭和9年には、ラジオ放送でさつき丸船上から水郷の様子を全国放送もしました。

 今回紹介した植物園にある碑は、昭和11年4月8日に開通した、筑波山を模した美しい曲線が特徴的な水郷大橋の架橋を記念して建てられたもので、かつては新島地区側の橋のたもとに建てられていました。

 今まで船でしか行き来できなかったものが、橋の開通によりバスや車による観光に拍車がかかり、まさに水郷観光の黄金期を迎えることになりました。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成21年5月15号(PDF:1,139KB)掲載)

Vol-038 市内最古の貝塚 鴇崎貝塚

 古代人が捕食して捨てた貝殻が堆積している遺跡を貝塚と呼んでいます。縄文時代早期から出現し、弥生時代以降にもみられ、全国に広く分布しています。

 貝塚には、貝殻に含まれるカルシウム成分によって動物や魚類の骨や骨角器がよく残っているため、当時の生活や自然環境を知る上で大変重要な遺跡です。

 縄文時代の貝塚は、全国で3千余り確認されています。そのうち6百以上が千葉県にあり、それらは東京湾沿岸と利根川下流域に集中しています。利根川下流域に位置する本市にも、たくさんの貝塚があります。

 縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分されていますが、県内の貝塚の大半は中期から後期のものです。

 鴇崎貝塚は、鴇崎字広畑にあり、大須賀川を望む台地の東斜面に形成されています。昭和32年に行われた、早稲田大学の発掘調査によって、数少ない早期の貝塚であることがわかり、昭和45年5月に市の史跡に指定されました。平成7年には、千葉県教育委員会が県内主要貝塚発掘調査の一環として、測量と発掘調査を行っています。

 この2度の調査で、貝塚は東西11m×南北13m、厚さ1m前後の小規模な貝塚で、縄文時代早期でも早い時期に形成されたことが明らかになりました。規模は小さいが、この時期の貝塚は全国でも数が少なく、神崎町の西ノ城貝塚とともに最古級の貝塚です。

 縄文時代早期末から前期初めころには、地球温暖化がピークに達し、海水面が上昇しました。いわゆる「縄文海進」です。最近の調査では、海岸線が標高2.7m前後まで達したことがわかっています。その後、徐々に後退し現在に至っていす。鴇崎貝塚が形成されたのは、まさに、海水面が上昇しつつあった時期にあたります。

 出土した貝類は、ヤマトシジミなど淡水産が主体で、ハマグリなど鹹水(海水)産も少量見られます。鴇崎貝塚を残した人々は近くの河川を中心に漁撈活動をし、時には少し遠出をして海の貝を採りに行ったのでしょうか。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成21年6月15号(PDF:552KB)掲載)

Vol-039 神道山古墳群 幻の御陵墓

 神道山古墳群は、香取市香取字神道にある前方後円墳1基と、小円墳11基からなる古墳時代後期の古墳群です。

 昭和52年5月20日に市史跡に指定されましたが、実はこの前方後円墳、かつて「御陵墓」ではないかと大々的に報じられたお騒がせ古墳なのです。陵墓とは、天皇家、もしくはその関係者の墓のことです。

 昭和3年6月17日の朝日新聞は『古ふん発見─香取神宮主の御陵墓か』の大胆な見出しで『考古学の研究者吉田文俊氏は千葉県の官幣大社香取神宮付近の史跡踏査中、神土山と称する奥山に二千八百年を経た貴人の御陵墓と見られる大古ふんを発見。十六日県庁より富田社寺課蜀、豊澤千葉高等女学校長同地へ出張精細調査の結果同古ふんは香取神宮主神経津主命の御陵墓らしいとの観測がついたので、近く香取町より御陵墓発見届を正式に県に提出し県より内務省に報告し専門家の実地調査を経てご陵墓を決定することになった』と報じています。

 その後、内務省にどのような報告がなされたかはわかりませんが、この古墳が御陵墓に決定されることはありませんでした。

 翌年3月に千葉県が刊行した『史跡名勝天然記念物調査第六輯』の調査報告によると、丘陵の頂上に全長46・8mの前方後円墳を中心として陪塚(大きな古墳に接して作られた小さな古墳)と思われる直径9mから14・4mの円墳11基が散在するとしています。

 また、古墳の所在地が香取神宮に近接していることや、この地を香取神宮の祀官が所有していたなどの点より考えれば、神宮と古墳との間に多少の縁故はあるかもしれませんが、神宮にはこれに関する古文書や伝説などはないとされています。

 くしくも同月4日には、満州(中国東北)に配備されていた関東軍による張作霖爆殺事件が起きています。その後日本は、満州事変を経て戦争へと突き進んで行きます。降ってわいた武勇神の御陵墓騒動は、このような時代背景と無関係ではなかったように思われます。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成21年7月15号(PDF:544KB)掲載)

Vol-040 水面に映る灯 津宮河岸の常夜燈

 津宮鳥居河岸、利根川堤防の中段に、常夜燈と呼ばれる石塔がぽつんと1基建っています。

 江戸後期に著された久保木清淵の『香取参詣記』や赤松宗旦の『利根川図志』などの絵図、明治後期の古写真に見られる津宮河岸は、利根川の中に神宮の大鳥居が建てられ、今と違い堤防もなく、猪牙舟や大型の帆かけ舟が直接接岸している様子がわかります。

 常夜燈は河岸の中心、鳥居に向いあって据えられ、この河岸の両側に「村田屋」、「佐原屋」などの舟宿が軒を並べ、香取・鹿島神宮の参詣人の宿泊所としても賑わっていたようです。

 常夜燈は、江戸時代に石灯籠から派生したといわれ、街灯や灯台の役割を果たし、神社・仏閣では信仰の対象として設置されるようになります。

 津宮河岸の常夜燈は、2段重ねの台座の上に基礎・方柱の竿・中台・火袋(火を灯す部分で各面に窓をもつ)・笠・宝珠で構成されています。現在の高さは280センチメートルですが、古い写真を見ると台座は3段重ねで、360センチメートルを越える大規模なものだったようです。

 この石塔は、利根川筋の下総国猿島郡辺田村を始めとする近隣村々(現在の茨城県岩井市・境町周辺)の36人が講を組み、明和6年(1769)3月に奉納したもので、航行の安全を祈願したと思われます。

 河岸の繁栄を支えた舟運は、徳川家康の家臣松平家忠の『家忠日記』から天正20年(1592)には開かれていたと推定されます。その後、承応3年(1654)には利根川東遷が完成し、江戸から銚子までの航路が整えられました。これに伴いこの地域の舟運も発達し、江戸時代後期には隆盛を極めます。

 その後、明治31年に成田線が開通、さらに佐松線が延長されると舟運は徐々に鉄道に取って代わられ、香取神宮の玄関口として繁栄を誇った津宮河岸も常夜燈もその役目を終えます。

 この常夜燈は、利根川筋に残るものでは最古、津宮河岸の繁栄を伝える遺物として昭和52年に市の有形文化財に指定されました。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成21年8月15号(PDF:579KB)掲載)

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