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アーカイブ香取遺産 Vol.061~070

更新日:2016年2月1日

アーカイブ香取遺産

Vol-061~070

Vol-061 阿玉台貝塚 阿玉台式土器の標式遺跡

 市の北部を流れる利根川流域の台地上には、数多くの貝塚が残されています。明治時代以降、多くの研究者が当地を訪れて発掘調査を行い、その成果を学界で発表したことから、全国的に著名な貝塚も少なくありません。

 小見川南小学校の西側にある阿玉台貝塚は、市内で最も著名な貝塚のひとつで、縄文時代中期(4~5千年前)ころのものです。阿玉台区の共同墓地となっている台地平坦部と、それを取り囲む台地斜面からなり、斜面部には5カ所の貝層が確認されています。台地平坦部に人々が居住し、周囲の斜面に貝殻を捨てたのでしょう。

 記録に残る最初の発掘調査は、明治27年に東京帝国大学(現在の東京大学)によって行われた調査です。

 調査では、口縁部に独特の装飾が施され、胎土に雲母を含む土器が注目されました。それ以降、この土器は阿玉台式土器と呼ばれ、本貝塚はその標式遺跡として広く知られてきました。

 昭和32年には、利根川下流域の貝塚調査を精力的に行っていた早稲田大学の西村正衛教授によって、本格的な調査が実施されました。ここでは、阿玉台式土器が層位的に発掘されたことにより、阿玉台式土器の変遷過程を5段階に細分するという研究成果が発表されました。この成果は今でも、阿玉台式土器研究の基礎となっています。

 阿玉台式土器は、前に述べた特徴のほかに、粘土紐を帯状に貼り付けた文様や、幅の狭い板状工具や半分に割った篠竹の先端を連続して押し付けた文様が特徴です。縄文時代中期の初めごろに、東関東地方を中心に分布しています。

 県内には、東京湾沿岸地域にも、加曽利貝塚などの有名な貝塚がたくさんあります。しかし、都市部にある貝塚は周辺の開発が進み、貝塚だけが保存されているのが大半です。それに対し、本市に残る貝塚は、周辺の自然環境を含めて良好な状態で現在まで保たれています。

 昭和43年、本貝塚は国の史跡に指定され、現在は地元の皆さんによって保存・管理が行われています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成23年6月15号(PDF:1,381KB)掲載)

Vol-062 多田日向遺跡 民衆のための新しい寺、現る

 多田日向遺跡は、東関東自動車道の佐原・香取インターチェンジから南東へ2キロメートルほどの多田字日向に所在する奈良・平安時代の集落跡です。

 平成元年の発掘調査で、9世紀の掘立柱建物群跡と寺号を墨書した土器がみつかり、集落と密接に関係する寺の跡であることがわかりました。寺は2回の建替えを経て、発展していきます。

 当寺は、9世紀の初めころには創建されました。中心となる建物は、南北三間(約5・6m)、東西二間(約4m)でした。墨書には「多理草寺」があります。

 最初の建替えは9世紀中ごろで、南北四間(約8m)、東西三間(約4・3m)と一回り大きくなっています。墨書は「三綱寺」があります。「三綱」とは、年長・有徳の者で寺内の僧侶と寺務を統監する上座、寺の庶務を監督する寺主、寺務をつかさどる都伊那の3種の役僧を意味する仏教用語です。この寺名から推測すると、このころに三綱が揃い、組織的にも充実していった時期といえるでしょう。

 2回目の建替えは9世紀終わりころで、東側に庇をもつ東西、南北とも三間(約6m四方)になります。方一間の内陣をもち、本堂としての体裁を整えていました。内陣とは本尊を安置する空間のことをいいます。本堂の東側には、南北八間(約17m)、東西二間(約2・4m)の僧坊と思われる建物もありました。寺として最も栄えた時期です。寺号は「観音寺」です。本尊が観音像であったことがうかがえます。

 仏教が日本に伝来して以降、有力者が私寺を建立してきました。その間、朝廷による仏教普及政策がとられ、天平13年(741)には聖武天皇により国分寺建立の詔が発せられ、仏教は鎮護国家を祈る公の宗教としての地位を確立します。

 しかし、9世紀に入るころになると、民衆の救済を説く動きが出てきます。この仏教界の動向が、一般に受け入れられ、それまでなかった民衆目線での造寺が始まったと考えられます。衆生の済度を本願とする観音を本尊とした寺跡がみつかった多田日向遺跡は、それを示す良好な遺跡です。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成23年7月15号(PDF:1,678KB)掲載)

Vol-063 貴重な資料が寄贈 旧藤岡家蔵 伊能忠敬関係資料

 7月10日に、横浜市の藤岡健夫さんから4点の伊能忠敬関係資料が寄贈されました。

 ここに紹介するこれらの資料は、平成22年6月29日に国宝に指定された資料の中に、同様のものが含まれており、国宝級の価値があるといってもよい貴重なものです。

 藤岡家は、明治・大正期の伊能家の当主である、景文・景徳氏の娘が2代にわたって、嫁いだ家です。資料はそのとき伊能家から持参し、もともとは伊能家にあったものです。

 寄贈された資料の概要は次のとおりです。

伊能忠敬書状

 文化10年(1813)正月に、娘の妙薫にあてた直筆の手紙です。このとき、忠敬は九州を測量中で、70歳になったため、次の歌を書きこんでいます。

「古来にも稀なる(古稀=70歳の語源です)春に値賀の浦 八十島かけて壱岐の松原」

江川英毅書状

 江川家は伊豆の韮山(現在の静岡県伊豆の国市)で代々幕府の代官を務めた家で、英毅は暦学を忠敬から学んでいました。この書状はいつのものかは不明ですが、英毅が忠敬から借りた解説書で暦学書の『暦象考成下編』の計算方法がわかったことと、『暦象考成後編』の解説書を忠敬に貸してほしいと述べています。

伊豆国稲取村付近下図

 享和元年(1801)5月10日に測量した部分の下図です。

そろばん

 伊能忠敬が、当時使用したと藤岡家に伝えられているものです。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成23年8月15号(PDF:1,612KB)掲載)

Vol-064 千葉親胤御影 暗殺された千葉氏当主

 久保地区には、かつて最勝院(別名親胤寺、現在は廃寺)と呼ばれた久保神社ゆかりの寺があり、そこに若武者の掛け軸一幅が納められていました。

 描かれたのは千葉氏24代当主の親胤、これを描き「久坊(久保)の親胤寺」に奉納したのは、江戸時代初期に一介の浪人身分でありながらも千葉氏の当主となった定胤という人物です。

 掛け軸には「(右)千葉介定胤/大徳寺門下/南岸居士(花押)/(中央)千葉新介/親胤御影/往生十七歳/縁日/天正七己卯年五月四日(左)親胤寺/久坊授之」と記されています。

 千葉親胤は、父利胤が天文16年(1547)33歳で亡くなったため、7歳で家督を相続し千葉介となります。

 幼少期は後北条氏寄りであった家臣の原胤清らに実権を掌握されていましたが、成長するとこの体制に不満を抱き、後北条氏と対立する立場を鮮明にします。そのことで北条氏康の侵攻を受けて幽閉されます。

 勇気胆力に優れると評され、一方では悪逆無道な人物といわれた親胤は、弘治3年(1557)8月、17歳という若さで家臣によって暗殺され、短い生涯を閉じます。

 この後、千葉宗家の家督を継いだのは親胤の叔父で森山城(岡飯田・下飯田区)を居城としていた海上胤富です。

 胤富は、後北条氏との関係を深め、上杉謙信、結城氏や里見氏などの侵攻を撃退したことから千葉常胤以来の千葉宗家の誇りを守った勇将と讃えられた人物です。そして定胤は胤富の曾孫にあたります。

 また、不思議なことに縁日とした天正7年(1579)5月4日は、千葉親胤ではなく千葉胤富の命日です。

 親胤暗殺の首謀者については、さまざまな憶説がありますが、親胤の怨念が悪霊となって種々の祟りがあったことが『千葉実録』に見えます。

 そのため、千葉胤富と、その子孫である近世の千葉氏当主が、非業の最期を遂げた千葉親胤の御霊を鎮めるために最勝院を建立し、御影を寄進したと推察されます。

 この資料は、平成17年に久保神社本殿などとともに、香取市有形文化財に指定されています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成23年9月15号(PDF:386KB)掲載)

Vol-065 香取神宮蔵の国宝海獣葡萄鏡 日本最大の海獣葡萄鏡「兄弟鏡」は正倉院御物

 香取神宮の御神宝海獣葡萄鏡が国宝であることは広く知られていますが、この鏡と同じ型で造られた鏡が正倉院に伝世することは意外に知られていないようです。昨秋開催された「正倉院展」に、この「兄弟鏡」鳥獣花背円鏡(海獣葡萄鏡)が出陳されて話題になったことは、まだ記憶に新しいところです。

 海獣葡萄鏡は中国南北朝時代末期の6世紀後半ごろに出現し、隋時代を経て、唐時代(618~907年)に盛行した鏡です。葡萄唐草と禽獣を配した西方的図紋が特徴で、中国でも各地から出土しており、わが国にも数多くの類品がもたらされています。正倉院や法隆寺その他各地の古社寺に伝世するもの、また古墳や寺跡など遺跡からの出土品も少なくありません。これら我が国に伝わる海獣葡萄鏡の中でも、香取神宮蔵の国宝海獣葡萄鏡は大型にしてその制作が優秀なことで知られています。

 白銅(銅に錫を加えた合金)製の大型円鏡(径29・7cm)で、鏡面は僅かに反り凸面を呈しています。縁を厚く造る一方、鏡背面は中央付近の地を低く彫り下げて2mmほどの厚さにし、そこに肉厚の鳥獣紋を配しています。

 鏡背の紋様構成は、高く突出した界線によって内外二区に分け、内区には牡鹿を銜えて蹲る海獣をかたどった鈕を置き、その周囲に葡萄唐草上に戯れる八頭の親獅子と一三頭の子獅子を配しています。外区には葡萄唐草の中を右回りに疾駆する獅子・鴛鴦・孔雀・鹿・鶏・天馬・鳳凰を表し、界圏には葡萄唐草にとまり、あるいは飛び交う鳥と昆虫、周縁には飛雲を表しています。

 近年の科学的な調査によれば、正倉院鏡とは錫・鉛の含有量が少し異なっており、同じ溶銅を用いていないこと、また二鏡とも錫濃度の高い唐鏡に近い成分であり、制作地は中国である可能性が高いことがわかりました。

 一尺近い大型の海獣葡萄鏡は、その精緻で躍動感あふれる文様構成から初唐ごろの制作と推定されています。

 中国で制作されたこの「兄弟鏡」が、それぞれ東大寺と東国最大の古社香取神宮に伝えられたことは偶然なのか、大変興味深いところです。

 昭和28年3月31日国宝に指定。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成23年10月15号(PDF:349KB)掲載)

Vol-066 山倉大神 古来より伝わる鮭献納の神事

 山倉地区に鎮座する山倉大神は、市内外から広く参詣者が訪れる当地随一の古社です。

 特に、12月第1日曜日に行われる初卯大祭は、「山倉の鮭祭り」(県指定無形民俗文化財)として有名で、多くの人でにぎわいます。栗山川支流に遡上してきた鮭を献納する祭りで、その謂れは諸説があり定かではありませんが、神前に献じる鮭は、古来より「竜宮神献の御鮭」として伝えられています。

 江戸後期の『下総名勝図絵』でも「御神事十一月中の卯の日なり。疫病を悩むもの此の神を祈りて霊験すみやかなり。十一月祭礼の頃、鮭おのづから上る。是を獲たる人、山倉に持ち行くに、その人を祭礼の上席に居らしめて饗応する古例なり」と紹介しています。

 本殿(市指定文化財)は安永7年(1778)3月5日建立、木造銅板葺、本殿と拝殿の間を幣殿で繋ぐ、権現造とも呼ばれる複合施設です。

 社伝によれば、山倉大神の創建は、弘仁2年(811)辛卯の霜月(旧暦十一月)初卯の日で、この地方に疫病が流行した際に、ご祭神を勧請したとされます。現在の主祭神は高皇産霊大神、配祀神は建速須佐男尊、大国主尊です。

 明治以前までは、当地の山倉山観福寺が別当を務め、本尊である大六天王が本地仏として祀られていたことから、「山倉大六天」などと知られていました。山倉大神を称するのは明治3年(1870)からで、神仏分離により大六天王が観福寺に遷座された後になります。拝殿中央に掲げられた文政9年(1826)寄進の社号額にも「大六天王宮」とあります。

 山倉大神は、かつて代参講により、東京や横浜などの講中の崇敬を受けていました。

 それは境内の寄進物などからわかります。例えば、額殿には心力元講、賽銭箱や手洗石には昭和講、神輿殿は江東講などの講名が記されています。その他多数の額などが講中により奉納されています。

 また、江戸東京火消(消防組)の奉納額なども残されています。消防組が参詣した理由は不明ですが、地元の人によると、刺子を着た消防組が「木遣り」を歌いながら行列を組んで社殿に参拝したこともあったそうです。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成23年11月15号(PDF:473KB)掲載)

Vol-067 良文貝塚 利根川下流域最大級の貝塚

 古代人が捕食して捨てた貝殻が堆積している遺跡を貝塚と呼んでいます。利根川下流域は縄文時代に多くの貝塚がつくられ、全国有数の貝塚地帯であることは、本紙でも何度か取り上げてきました。

 貝塚地区にある良文貝塚は、縄文時代後期(3~4千年前)頃のものです。標高50mの台地平坦部と斜面からなり、斜面部には10カ所の貝層が確認されています。

 この貝塚が初めて学会に紹介されたのは明治25年です。当時は「貝塚村貝塚」という名称でしたが、大正時代には「良文村貝塚」、さらに昭和30年に良文村が小見川町に編入されてからは「良文貝塚」と呼ばれています。

 記録として残っている最初の発掘調査は、明治28年に東京帝国大学(現在の東京大学)によって行われた調査です。昭和2年と4年には、大山史前学研究所と地元有志によって調査が行われ、4年の調査では、台地東斜面の貝層から香炉形顔面付土器が出土し、良文貝塚の名を一躍全国に知らしめることになりました。

 昭和5年には民有地15筆が国史跡に指定され、千葉県の貝塚としては初めての国指定史跡となりました。また、地元有志により貝塚史蹟保存会が設立され、現在も保存整備活動が続けられています。

 本貝塚は古くから発掘調査が行われてきましたが、いずれも斜面に堆積した貝層を対象としたものでした。そのため、貝を捕食し、貝殻を捨てた縄文人の居住区と思われる台地平坦部の調査は行われませんでした。

 市教育委員会は、平成20年度から、遺跡の範囲・性格・内容を把握するために確認調査を実施しています。その結果、台地平坦部で竪穴住居跡や貯蔵穴など数多くの遺構を確認し、土器や石器などの遺物も見つかっています。また、住居跡などが確認されない広場的な空間もあることがわかりました。

 これまでの発掘調査の成果により、台地平坦部に営まれた集落と、斜面に形成された貝層(ごみ捨て場)との有機的な関係が明らかになってきています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成23年12月15号(PDF:349KB)掲載)

Vol-068 吉原三王遺跡 香取神宮に封ぜられた神戸の集落跡

 吉原三王遺跡は、東関東自動車道建設の際に発掘調査を実施しました。調査地は、佐原香取インターチェンジから潮来方面へ500mほど行ったところです。遺跡の北西約1・5キロメートルには、下総国一の宮である香取神宮が鎮座しています。

 調査では、古墳時代から中世の遺構・遺物が多くみつかりました。中でも奈良時代から平安時代の集落跡は、溝で区画をして、規則的に住居を建てていることがわかりました。これは当遺跡の他の時期や一般的な集落遺跡にはみられない特徴です。

 規則的に配置された住居跡からは、墨書土器が多数出土しています。これらの墨書には、当遺跡を含む周辺の地名である「吉原大畠」「大畠」などを記したものがあります。これらの地名は、1162(応保2)年の「大禰宜実房譲状」(『千葉県史資料』)に確認することができますが、さらに古い時代からあったことがわかりました。

 9世紀前半の墨書土器には、「●●香取郡大坏郷中臣人成女之承●」「香取郡大坏郷中臣人成女賛●●年四月十日」「●●道女替進上」「●●加万附申上」などがあります。その内容は、大坏郷中臣氏からの人の貢進交替にかかわるものです。

 「香取郡大坏郷」は、750(天平勝宝2)年の治部省牒(『大日本古文書』)に「下総国香取郡神戸大槻郷」とあることから、香取神宮に封ぜられた神戸であることがわかります。神戸とは、律令制のもとで神社に所属して租・庸・調を納め、神社の経済を支えた民のことです。

 吉原三王遺跡は、香取神宮神戸に封ぜられた集落の一端を明らかにしました。墨書土器は、有力豪族であった中臣氏が9世紀前半には当集落に関与していたことを示しています。中臣氏は、古代から神事や祭祀を司ってきた一族です。大化改新後、中臣鎌足は藤原姓を賜りますが、それ以降も中臣氏自体は多くの神社の禰宜神主を歴任してゆきます。

 出土した墨書土器は、香取神宮神戸の姿を語る資料として、平成23年3月18日付けで千葉県指定有形文化財に指定されました。

※文中の●は判読不能文字

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成24年1月15号(PDF:573KB)掲載)

Vol-069 旧佐原繭市場の煙突 繭と銃弾

 JR佐原駅前に「まゆショッピングセンター」があるのをご存じの人は多いと思いますが、「まゆ」という名前の由来は何でしょうか。

養蚕の盛んな香取郡

 戦前の千葉県、中でも香取郡は養蚕が比較的盛んな地域でした。千葉県の養蚕業は1880年代後半から発展し、1940年(昭和15)の繭生産量は全国13位となっていました。そのうち、山武・香取・印旛・匝瑳の4郡が主要な生産地で、現在の香取市域の中では、栗源地域や山倉、香西地区などで養蚕が盛んでした。

乾繭は中の蚕を殺すこと

 香取郡内の養蚕農家で作られた繭の一部は、佐原駅前にある乾繭工場に集められたと思われます。「乾繭」とは、繭を加熱・乾燥させて中の蚕を殺し、長期に保存・輸送できるようにする工程、もしくはそうした繭のことです。こうした乾繭は県内で製糸されることは少なく、主に鉄道によって長野県諏訪地方などに運ばれ絹糸に加工されていました。

絹を売って武器を買う

 諏訪地方には「男軍人、女は工女、糸をひくのも国のため」という歌があります。戦前の日本経済は、養蚕・製糸業を最大の輸出産業とし、絹糸を輸出して得た外貨で機械や軍事物資を購入する、極端に言えば、絹を売って武器を買うという構造をもっていました。

アメリカ軍による空襲

 1945年(昭和20)7月4日、アメリカ軍による佐原空襲があり、乾繭工場も機銃掃射を受けて、高さ37mの煙突にも約100発の銃弾の痕があったそうです。しかし、その後1996年(平成8)に取り壊されるまで、この煙突は佐原駅前のシンボル的存在として建ち続けていました。

 繭と銃弾という日本近代史の大きな特徴を背負った煙突は、工場解体後その一部が伊能忠敬記念館の裏手に運ばれ、現在も静かに置かれています。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成24年2月15号(PDF:419KB)掲載)

Vol-070 浄土寺の梵鐘 運ばれた梵鐘

 大戸川の浄土寺は、阿弥陀三尊を本尊とする浄土宗の寺院です。創建年代は、境内の板碑などから鎌倉中期には成立していたと考えられています。

 山門をくぐると正面に鐘楼があり、そこに南北朝時代に鋳造された梵鐘が懸垂されています。

 梵鐘はそもそも仏教教団生活の規制のための用具でしたが、後には時を知らせる合図や寺の儀式の合図に打ち鳴らすための梵音具となりました。

 梵鐘は、下方に丸く口の開く「鐘身」と、これを懸垂するために付けられる「龍頭」からなっています。

 鐘身は紐と呼ばれる隆起線で縦横に区画されています。上部に突起物を配する「乳の間」、その下に銘文を記す「池の間」、中帯と下帯の間を「草の間」と呼んでいます。そして縦帯と中帯の交差する前後2カ所に「撞座」が設けられています。

 浄土寺の梵鐘は、口径58センチメートル、全長98センチメートルとやや小ぶりで「撞座」は八葉単弁の蓮華文を表しています。そして「池の間」には端正な文字で3種類の銘文が陰刻されています。

 ひとつは、現存の浄土寺梵鐘が鋳造される以前の旧鐘に記されていた銘文を写したものです。それによれば、建長6年(1254)に磯上眞長が鋳造し、宝福寺(所在地については不明)という寺院に納めたということです。

 2つ目は、宝福寺において現存の梵鐘を鋳造した時の銘文で鋳物師の藤原末政が貞和5年(1349)に鋳造したことが刻まれています。

 3つ目は空白だった「池の間」に新たに追記したものです。銘文によれば、慶長7年(1602)6月、木之内神五が旦那となり、浄土宗開祖・法然上人の流れをくむ奥州岩城(現在の福島県)の南蓮社人譽上人が願主となって、宝福寺に懸垂されていた梵鐘を「下総香取之郡大戸河浄土寺」に移した経緯などが記されています。

 所在地が判明していない宝福寺という寺院から慶長7年に浄土寺にもたらされた梵鐘は、400年余にわたってこの地で大切に保管されてきました。

 そして、昭和50年3月千葉県の有形文化財に指定されました。

 (広報かとり ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。平成24年3月15号(PDF:829KB)掲載)

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